恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

どぶ川学級に見る原風景 〜 北の「赤い」国から。

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重々しい70年代の話に戻るw

両親共働きで鍵っ子だった私、下校して一人ぼっちの家で再放送ドラマを見てたので、そのロケ地である「多摩川」が自分にとっての原風景になったという話は何度も書いた。

そしてもうひとつ、江戸川城東風景も「もう一つの原風景」だったのではないかとココで書いた*1

最近「城東電車*2」のことを調べていて、そういえば江戸川区吹奏楽団に通ってたなあなどと思い出し、そういえば!江戸川といえば、小学校時代の「映画教室」で、こんな作品を見せられた!ということを思い出したのである。それがこれである。


【映画】どぶ川学級


「どぶ川学級(1972年)」動画もあったが、DVDもちゃんと出ていてびっくり。実は私にとっての「ゼロメートル地帯」郷愁は、小学時代に教室で見せられたこの映画の影響もあったのだね。

内容はあえて書かないけども、ご存知のかたも多いでしょう。前回「日活ロマンポルノ」のアングラ感について書いたけども、当時の日活や映画会社は、子供向けのこういうプロパガンダ映画をいくつも作っていたらしい。こういうものを「教育現場」である学校で見せられるのである。

私の育った北海道という「国」は、元来「左寄りの教育」に熱心な土地である。私の通った学校は国立であったので、これ見よがしにそのような押しつけはなかったものの、今振り返ると、やはり「スマートに」左寄りの考え方をするような誘導があったなと。例えばこういうものを見せられたり、そういう「暗に誘導」するような教えは日常に多くあったと思う。

前も書いたが、私の父は「労働組合」委員長だったりした。それもあり、私生活でも「左思想」に触れる機会が多かったと言えるでしょうね。

まあそんなわけで今回、懐かしくて超絶久々に見たのだけど、まず一番最初に感じたのは「当時の日本が全般的に粗雑で野蛮!」だってこと。「キラキラ男子の私」が居たたまれない世の中だったのが実によくわかる。
ココで描かれているように「権力側=学校や校長」もたいがいですが、かと言って、自分らの味方であるはずの「反体制側」も終始こんな感じで「これじゃ決して自分の味方だなんて思えないよな…」と。

何度も言ってますけど、どちらの体制の人も、当時の私を結局は救ってくれなかった*3

故郷を出て東京で90年代を迎えるまでの自分は本当に辛かった。80年代に「尾崎みたいな」説教ロックが流行ったけども、それもこういうものに対するアンチとして出現し支持されたのかもしれない。

でも、じゃあすべて「否定すべきもの」として感じたかというと、そうでもない。例えばココで描かれた「草の根運動」的なものとか「底辺でも行きていける」論とか「レジスタンスとしての戦う姿勢」は参考にはなります。当時の組合運動のおかげで改善された環境もたくさんあっただろう。
ただ、前述したように「どっちの派も」野蛮だったことには変わりがなく、労働者のためになる組合運動も「闘争」などとカッコつけてるが、その裏で「泣いてる家族を踏みつけにして」行ってた様子は映画でも出てくるし、実際の私の家庭も同様だったことを思うと、当時の私に居場所などなかった…という事実を改めて突きつけられ、それなりにショックではあった。劇中で「仲間じゃないか」という言葉も強調されるが、自分にはその「仲間すら」居なかった。
また、後半の「一生懸命やったのに、相手に利用できるところだけ利用される」場面は、自分自身の長崎時代の体験を思い出し、なかなかつらかった。結局、思想がどうであれ「搾取される人はされるだけ」なのだという現実だね。


私が上京後、城東地区に出入りするようになって「郷愁を感じた」ゼロメートル地帯。そこの人々と交流ができて、一番感じたのは「東京の人なのにけっこうみんな素朴だなあ」だった。そのあと、ココに限らず「江戸っ子」「東京ネイティヴ民」はシャイで素朴なのがデフォで、東京を派手にしてるのは「地方からの上京民」であることがわかるのだけど、最初はわからないので、「へー」と思って意外だった。みんな素朴だったから付き合いやすかったし、特殊技術を持っていた自分も入り込みやすかった。その辺は長崎と似ていたとも言えるかもしれない。
そんな土地柄だから、この映画のような思想や運動なども「普通に起こりやすい」かもしれないとは思ったのよね。素朴ほど怖いものはない。


東京、そして「左教育」と聴いて、私が当時まっさきに思ったのは「美濃部都知事」のことだった。私の周りのオトナたちの間では、彼は聖人みたいな扱いだったし、失脚の理由はよく知らなかったけども、それでも日本の首都である大都市の首長が「左の人」だったという事実は誇らしいと思ってたものである。
そんなわけで、上京して東京民と繋がりができたとき、何人もの「江戸っ子ジモティ」に美濃部氏のことを聴いてみたのである。ところがだ。「東京民」から返ってくる美濃部氏への評価が散々なのである。もう誰に聞いても、ともかく「美濃部はひどかった」「アイツのせいで東京は20年遅れた」などと口々に言う。左も右もない、もうともかく酷いのである。
そう言われてみれば、慢性渋滞やインフラの遅れ、小汚い灰色の町並み、これが日本の首都なのか??と思うような痕跡が、当時もまだ残っていた。今思えば東京のバブル時代というのは、その遅れを「上書き」するためにあったのかもしれない*4


結局私は、上京後そのような現実を次々と突きつけられ、「北の国」で私が受けていた教育が欺瞞だったのではないかと思うようになる。そういえば以前ココで書いたが、私は子供の頃に見た「学生運動」に憧れて、上京したらあれに参加するんだ!と思ってたのよねw 世代は違うけども、あれも結局「誰からも大切にされてなかった」若者の不満爆発に過ぎなかったんじゃないかと、今なら思う。
思えば自分も誰からも大切にされなかった。だから何かの運動をするしかない。私の場合、幸い音楽的素養があったから「吹奏楽」運動になったけど、それもブラックだったわけで、そういうこともあり「左教育が欺瞞なんじゃないか」というのは故郷にいたときから薄々わかってたような気もする。お前ら誰も私を救ってくれなかったじゃないかと。
だから左思想から脱出する理由ばかり探してた。そういう機会をずっと待っていた。そして「そんなの間違いだ」と、今まで私を迫害してた奴らに言ってやりたかった。そういうことだったのかもしれない。

学生運動もそうだし連合赤軍みたいなものも終わっていった70年代。「北の国に」居て、子どもである私たちには巧妙に隠されてたが、東京で知ったのは「実は左翼が負けていった時代だった」ということなんだな。そういう意味で、私が下町城東ゼロメートル地区の人々から様々な意見を聞くことが出来たのは、「現実を知る意味で」かなり大きかったと思う。


映画の内容でいくつか興味深いところがあったので最後に記しておく。
まず「学級」を運営し始めたら、反対派から「あれはアカの奴らがやってるから行くな」と噂を広められたという場面。「アカ」という単語が直球で使用されてることにびっくりしたが、そういえばこれ、子供の頃当時も記憶あった気がする。そして私たちはなんとはなしに感じていた。「アカは差別用語である」と。それは例えば、今で言えば「ホモ」みたいな単語と近い。意味は間違ってるわけでもないが、主に侮蔑する場面で使用される単語だから差別用語みたいな扱いになるという。この辺はちょっと考えさせられた。

もうひとつ、お休みに教室のみんなで海に遊びに行くシーンがあるのだが、ここいら辺で近場の海というと、浦安か三番瀬あたりになるのではないかと思った。
ちょうど先日、いよいよ三番瀬の道路計画が現実化して工事が始まりそうだ、というニュースを見たところだが、それで気づいたのは、ああいった例えば「三番瀬保存運動」などというものも「この時代の郷愁」なのではないかということ。三番瀬そのものももちろん自然として残しておきたいが、それとともに「こういう運動そのもの」が郷愁なのだと。70年代の自分らのアイデンティティを守り抜くため。そう考えると、今の市民運動やら何やらも、結局は「郷愁」のためにやってるのではないか、などと思ったりした。成田から沖縄まで、いろんな「運動」があったけども、それらに共通するのは、私にとっての郷愁なのである。

ちょうど前回書いてた「桃尻娘」の話。原作者「橋本治さん」逝去のニュースで、こんな発言を目にした。


桃尻娘 1作めに有ったのはアングラ感」と前回の記事で書いたけども、つまりは「そういう要素こそが郷愁」だったのではないかと感じたのだ。なぜ「郷愁」と感じるかといえば、この発言のように「取り残された人々」だったからだ。
桃尻娘中原俊監督はシリーズ 2作目「帰って来た桃尻娘」でそこを脱却し、90年代に向けて「桜の園」など傑作を作るようになっていく。私も「こっちが新しい」と直感で判断し、その感性に付いて行き「夢の90年代」を迎えリベンジを果たす。


おなじみの「スクショ」コーナー。

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組合員だった須藤さん。
「大学生のインテリ」ということで
無理くり「教室」をやらされることになってしまう。
地井武男さん、井川比佐志さんなどお馴染みの俳優さんが。

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組合員の父も横暴で家族が崩壊寸前。

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無精髭で原人みたいな長髪の先生は山本亘さん。

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途中でいきなり小ざっぱりと垢抜けて主人公ぽくなる。
これはモテるでしょうとw

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案の定、教室メンバーでイニシアティブを握るのは「女子ばかり」なのである。
先生モテモテ。

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下町の水路風景。



最後にひとつだけ付け加えておく。

こうしてみると、私の「左」に対する評価も散々かと思われるかもだが、故郷時代、組合員の運動で生きやすかった部分も実はたくさんあるんだろうと思います。
それはこの辺で書きました。

karamandarine.hatenadiary.jp

確かに散々な環境であり、父も暴君であったわけだが、そんな殺伐とした日々でもなんとか生き抜いてこれたのは、こういった福利厚生があったからです。 まあ「公務員一家だった」というのも多分にあるんでしょうけど、50年代末から70年代初頭にかけて、こういう「運動」は意味があったのではないかと。それは否定出来ない気がした。まあ現実はどうだったのかはわからない。でも、例えば「どぶ川学級」の清廉ぽい先生みたいな人の「運動」は、子供心にも「カッコよく」見えたものです。そして現実にも、実際にそういう人はいました。「団塊」と一括りに悪く言われることの多い世代だけど、悪い人や勘違い野郎ばかりではない。まともな人もたくさんいた。夢破れた今の日本で、彼らは何を思ってるのかなあ…と。

まあそんなわけで、奇しくも東京の右端と左端、江戸川と多摩川が原風景だった私。単純に言えば、結局「ロケ地」がそういう郊外にあったというだけw なんでしょうけど、私の心の中には多大な影響を残しました。という、まあそんな雑感。


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*1:「コロッケ町のぼく」から「多摩川」へ。

*2:後の都電25、26、29,38系統

*3:これ→「ギャラ払わない人」問題と自己責任トラウマ 

*4:福祉関係は確かに充実していたのかもしれない。だが当時の私はその恩恵を受ける世代でもないし、知人たちも同様だから結局わからない。