恋する段差ダンサー

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「コロッケ町のぼく」から「多摩川」へ。

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いい話。
私とかく「故郷を嫌う話」ばかりしてるけども、じゃあ故郷を出てから恋しかったことはなかったの?と問われるならば、いや、最初の3年くらいは恋しかったですよ、と答えます。でも、こっちが恋しいと思ってても相手に冷たくされたのでは、それは叶いません。

わたし何についても同じなんだけど、自分がそれを欲しいと思ったときには、相手に邪険にされて、大抵それは「望みどおりに手に入らない」のです。で「じゃあもういいや」と気持ちが離れてしまった時になって、相手が「(いまさら)こっちを必要」などと言ってくるのですよ。それじゃ遅いのです。「離れた気持ちはもう戻らない」のですよ。
私はそういう人なのです。自分が「欲しい!」と思った時に相手も「欲しい!」と思わなければ成り立たないのです。それを自分はよく「相撲の立会い」と呼んでいるのです。いま言われても遅いの。必要だったのは昔なのよ。もういいのよ。もういいの。


★普通になっていく私

故郷に戻りたくない理由のひとつとして、よくここでも書いてたことだけど、自分が「いじめられっ子」でもあったが「いじめっ子」でもあったから。というのがあるのだけど、つまり当時の関係者の「僕に対する恨み」は一生消えないだろうから(とうぜんコチラが被害者だったときの「僕の恨み」も一生消えない)、ドヤ顔で帰る訳にはいかない、みたいなことがあるのね。

で、それと同じように、「上京後 3年目くらいまで」の東京での交友関係と縁を切ってしまったのも、その当時の自分の言動に「甚だ問題あり」と自分で思っているからだな。自己嫌悪感があるから。
よく「上京デビュー」なんてことを言うけども、まあ田舎から出てきて、僕の場合は「大阪時代もあってからの東京」だから、まあいわゆる「上京ハイ」みたいなものでしょう。プラス道民時代の「部活で好き放題乗り」も加わって(それなりに上手かったし)、ほんとに上京当初は「好き放題」やってたなと思う。それで得たものもたくさんあったとは思うけども、こっちも 周りが喜ぶのを良いことに、必要以上にエキセントリックを装ってたのは否定できない

数年経って、それが「こっ恥ずかしくなった」ということであるし。もう一つ大きかったのは、その当時に出会った「東京での 2番めの彼女さん」が、そういうことに極めて冷淡だったこと。逆に言えば僕について「エキセントリック」だったり「音楽的なもの」とか、そういう要素は「付き合うにあたってまったく関係なかった」と判明したのが大きかったのだな。
その時まで「自分の価値」というのは「他の人と違って風変わりであること」「地方出身者特有の視点や価値観を持つこと」「音楽的なもの全般」みたいな感じかと自分で思いこんでたんだが、彼女にとってそういう要素は「一切関係なかった」ということやね。

ここから自分が「劇的に変化」していった。それまでのように、何かと「極端を」装わなくてもよくなり、だんだん等身大の自分になって いった。
そして「普通でいること」というのがどれだけ素晴らしいことか、そして「大変なことか」ということを教わった。

逆に言えば「変で居たり」「他と違う感覚でいる」ことは「とても楽」だったということなのだ。

その頃に作った作品がある。「普通であることを賞賛した」そのまま直球のタイトルがついている。その頃に 人生の中で初めて、周りの匂いや景色、自然とか人間関係とか、共感とか、そういう「普通のこと」をたくさん習得していったのだ。この時期があったからこそ、今の僕に、少しではあるが「人間ぽさ」があるのである。

自分の番組とかで「自分の聴いてきた音楽歴」みたいな特集をするときに、自分の中ではこの「上京直後の数年間」ぶんは、今でも「必ず除外」して考える。あれは「特殊だった自分が好んだもの」であり、あくまでイレギュラー。本当の自分が本当に好きだったものは、その彼女さんと出会って以降のもの、というようにカッチリ分けて考えている。そういう仕分けを常にキッチリやっていないと、すぐに元の変な自分に戻ってしまいそうになる。
留学して現地語がペラペラになっても、帰国してしばらく喋らないと忘れてしまう、みたいな。常に意識して忘れないように心がけてないと「すぐに昔の自分に戻ってしまうから」ということだね。だから常に徹底してるわけです。

そういえば、その時代に「自動車免許」を採ったのだけど、これは「自分の中で大きな自信になった」なあ。スポーツ関係全般まったく不出来だった私なので、そんな反射神経があるとは思ってなかった。まあ自転車はチャリラーではあったけども。
あえて実名を出すけども、通ったのは「晴海のコヤマ」という車校です。半年くらい晴海に通ったのだけど、この晴海という土地が実におもしろくてね。晴海埠頭、豊海埠頭、倉庫とか貨物線とか、京橋高校とか。まだ見本市もやってたね。サーカスが来たり。路上講習はこういうところを走るわけだ。踏切まであって。スゴい楽しかったw

晴海の面白いところは「電車で行けない」ところ。今でもそう。銀座からバスとかで行くしかない*1。埠頭の乗船ターミナルとか。そういう場所に、なんか観光地っていうか、魅惑的なデートスポットっていうんですかね、そういうのがサラリと存在してるのが、実に「東京ぽい」と思ったな。これをきっかけに「東京散歩」を毎週末することになる。
その後、晴海は再開発されて、コヤマのところも何かモールみたいなものになってます*2

想像通りかも知れないが車校には彼女さんと一緒に通った。仕事しながら(赤坂の某放送局)だったので半年かかったが楽しかった。
この時代、「普通であることの大切さ」「過剰なエキセントリックさを排除した」新しい生き方を始めた僕に風当たりは強かったです。音楽仲間や後輩は「なに普通ぶってるんだ、音楽やってくださいよ」などと小姑のように言われたし、非道だった私のことを「そうかんたんに変われるわけがない」などと揶揄した人も多かった。それでも僕は辞めなかった。「普通教」は新しい自分の生きがいになったんだろう。

その頃から、自分のこうした「新キャラ」と「ドラマーという楽器パートは合わない」と感じ始めていた。やっぱり肉体的で野性的なパートなんだよね、ドラムというのは。だんだんそのギャップが辛くなってきて、ドラマーとそうでないときの自分は「2重人格」のようになっていった。
そうして、それまでのバンドを脱退して*3、「爽やかな音楽をやるバンド」に移籍したのだな。そのバンドの縁が今も繋がってる汐留とか、乳のギターとかのコネクションになってる。
そういう時期を過ぎて、「ドラムに対してさして思い入れもなくなった頃」に「キャバレーの仕事」が舞い込んだわけで、「頑固さ」も「強い思い入れ」も なかったからこそ、フラットな気持ちでその仕事に臨めて、それが上達できた大きな理由だった 気がする。ようするに「素直な性格」になっていた自分だから、それが可能になった、ということだろうね。つまりこれも「普通」の成果だった。

いま思うと、本人としては「正統派で行きたかった」し、そのつもりだったのだが、居場所がなくて「エキセントリック派にならざるを得なかった」という現実があったんだよね。
こどものころ「自分じゃ普通」と思ってやってたことが「他人から見ると変」だったということなんだろうと思うけど、それをあまりにも「矯正」させられようとしたり「ガミガミ言われたり」し続けたものだから、かえって頑固になってしまったものと思われる。それでたまには「天然で受けたりした」ことから、自分のアイデンティティとして「エキセントリック派で居ることのみが許された」ということなんだろう。

僕はよく「当時の知り合いが今の自分を見たら、あまりに真っ当なので驚くだろう」という発言をするのだが、それはこういう理由による。
つまり「もともと自分は普通だった」し「正統派のつもり」だった。でも、世間一般から見た自分はそうではなかった。そのギャップに苦しみ、しょうがないから「それを装う」ようになり、それが定着し、自分もそれで受け入れられる快感が忘れられなくなって、いっそう増長していったのだろう、と。今だとそう冷静に振り返られる。

まあただ、元来「お笑い好き」で「パロディ好き」ではあるので、一連のフザケ路線の音楽は、自分の中に備わった能力のひとつだと思ってるかな。その素養はあったんだろうね。


★北海道ブランドとは「プレミアム感」ではなく「道化」

初めて故郷を出国したのが、大学で大阪に行ったときなのだが、自分的に「北海道出身」というのは、世間やメディアでの扱いもあって、それなりにステイタスというか、珍しがられて「いい対応をされる」みたいに思ってたところがあったのだけど、実際は「熊が出るような未開地から来た土人」みたいな扱いを、あちこちでされて、自分の「道民であるアイデンティティ」は完膚なきほど粉砕されてしまった のだな。
「僕自身のキャラ」も大いに関係あるのかもしれない、と最初は思ったのだが、同じく大阪に出てきていた吹部同期の奴や、東京に出ていた同期の友人なんかも、同じように(そんなキャラではなかったはずなのに)「北海道出身の牛やクマとともに育った土人」的なキャラを押し出して仲間に溶け込んでおり、本土民にとって北海道出身者とは「ただの道化にすぎない」という現実を受け入れざるを得なかった。

今でも忘れられないですねこれ。本当にショックだったんだよ。
僕みたいな元々エキセントリックなキャラが、そういう「道化」道民扱いされるのは「まだ」わかる。しかしその彼らは「部長」だったり「副部長」だったり「優秀なリーダー」だったりしたヤツラなのだ。それが、本土上陸したら「牛やクマ」と同列扱いされて、本人が そういうキャラを受け入れてること、そのことに甘んじていること に。本当に「え??…」って感じ*4

…自分は絶対にできないと思った。「北海道から出てきました!クマと牛と一緒に育ちました。キタキツネもフレンドで〜す!」なんてことを自分で触れ回るとか、自分はそこまで北海道に愛着はないし背負えないし、絶対に無理 だと。

そうして徐々に自分の中で「自分が道民だったことを抹消」していき、交友関係からも徐々に削除していき、完全なる「江戸下町民オンリーなコネクション」の中に保護色のように混ざり込んだ のである。

私「耳がよかった」のよね。英語も喋れないけど(ホテルのときはそれなり)発音がよいといつも褒められたけど、同じように「江戸弁の習得」も速くて、なので普通に会話してて「道民と気づかれることはなかった」ね。ほかの友人はみんな最後まで道民訛が取れなかった。そして全員Uターンしていった。自分だけが残って、私の非道民化は無事完了したのだな。

最近になってそういう旧交友関係とFBで再会するじゃん、そうすっと、在京同郷人みんなそうやって「北海のクマです」的な自己紹介してるのね(ちなこれ中川酒父のプロフィール)。北海道に限らないけど、こういう「同郷への思い」っていうんですかね、これが私、なかなか理解できなくて。
…という話をしたら、実は「そういうことを言う人の半数くらいは、もう実家が当地にない人だったりする」ということなので、ああそれなら「郷愁として分からないでもない」けど…。どうかなあー。「当時の彼らを知ってる身」からすると、その開き直りというか諦めというか、なんか悲しいものがある なあと思ったけどね。私は故郷であろうと長崎であろうと、何か他人の物を背負うという気にはならない。自分が生きてきた道だけが全てだなあ。

沖縄の標準語矯正、というのが最近話題になってたんだけども*5、うちの親は、極力家庭内では「汚い」道民ネイティヴ語を喋らないように!という教育していたので、そもそも「バリバリの道民語を僕は喋っていなかった」ということがあるんだよな。
まあ国立小中学校で「育ちのいい人々が多いという環境」もあって、周りでもそれほど「道民バリバリ」な人は居なかったけど、田舎のばあちゃんちに行ったり、近所の子供らと遊ぶと、スゴい荒っぽい言葉遣いしてる人が多かったよ。そういうのと一緒にいると「こっちも移ってくる」でしょ。そうすると家庭内で矯正されるの。「そういう言葉遣いはやめなさい」と。で、ついでに「そういう仲間と遊ぶのはあまりよくないねえ」と来る。こんな風に自分の中で線引きがされてしまうから、友達もできなかったのだろうね。

まあそういう「もともとの資質」が僕の中にあって、それもあって「東京下町に溶け込んでいけた」気がするのよね。そういう、自分がオトナになってからの経験はおもしろかったよ。こっちはどんどん吸収して江戸弁になっていくのに、同じ環境に居た同郷の知人は、一向に方言が抜けなかった。学習できないわけ。そうするとこっちも「ああもう、こいつとは友達ではいられないな」などと思うんだよね。それでどんどん同郷の人と疎遠になっていったという流れだな。

自分はどんどん変化していくし進んでいくのだけど、その過程で、そういうことが必ず同時に起こるのね。自分と同じ速度で付いてこれない周りがいるわけ。私そういうときに、尽くみんな見捨ててきてしまったのよ。そういう冷たいことを「東京生活の最初の数年」平気でやっていたの。だから同郷者と疎遠になったわけだけど、それは「自分が東京で生きていくためには必要なことだった」のよ。そういうのが一段落したのが、バンドキャバレー時代ってことになるのよね。

これは前も書いた話だけど、故郷時代の小中と高校では180度環境が変わって、自分のナヨっちい性質では本当に辛かった。コレが本当に随一の進学校と言われてる高校なのだろうかと思うくらい*6
大阪は特殊な大学だったから、また少し流れも変わったのだけど、上京するとまた玉石混交になり、まあ簡単に言えば「同郷出身のヤンキー気質の人々」と合わせるのがキツかった、という話なのだと思う。
しかしその後、僕が身を投じた「江戸下町社会」だって、いうたらDQNではあるのよ。でもそこは何度も言うとおり「江戸っ子」だから、「田舎のヤンキーとはそら違うでしょ」的なことだったわけで、まあ「後藤弟」みたいなやつもいたけど、だいたいは「距離感」も「冷めっぷり」も僕にとっては適度な心地よさで、楽にできたんだよな。
「この居場所はよさそうだ、しばらく世話になろう」みたいなことから、その付き合いを積極的に進めていったのだと思う。


★多摩ではない、もうひとつの原風景

僕が子供の頃に見た「コロッケ町のぼく」という少年ドラマがありまして、その舞台が東京下町「川よりも低い」ゼロメートル地帯だったのね。当時日本のあちこちで公害というものが話題になってたのだけど、この東京下町の「ゼロメートル地帯」も、その一環で取り上げられてて有名な場所だった*7。そんなマイナスイメージな土地を、下町の素朴な風景と家族みたいな「プラスな描き方」で取り上げたドラマで、スゴい印象に残っていた。
で、僕が上京後に初めて付き合った下町の人々も、そういう「ゼロメートル地帯」の人々だったのよね。毎週のようにしょっちゅう通ってたし、散歩もさんざんしましたし、当然、ドラマで出てきた「川より低い土地」も歩き回ったわけですね。
北海道にいてドラマで見る限りは「川よりも低いとか大丈夫なのか?」と思うのだが、実際に付き合いを深めてみると「別にそんなことない」の。他と変わらない。普通にみんな生活してる。街のあちこちに「水路」とか「堀の跡地」や「親水公園」もあり、現存の堀や川もあり、そういう場所を「歴史を感じながら歩き回るのは楽しかった」ね。偶然歩き回ってて「洲崎」を発見して「おおおお!」と感動したのも楽しい思い出*8
というようなことを今いろいろ思い出してたら、なんかこれデジャブじゃないか?と気づきまして。そう、私が多摩川沿いに引っ越して「この風景は見たことがある」と思ったという、あの大事件ですね。実はそれを、この「下町時代に先に体験してたのではないか」と気づいたわけです。ゼロメートル地帯も自分にとっては「テレビの中の郷愁」であったのだ!と。歴史は繰り返す。

ゼロメートル地帯を歩いてる頃も、「砧のあたりがドラマや映画の撮影場所」みたいなことは薄っすらと知ってた気がするけど、当時、多摩川とか世田谷って馴染みがないからね、行こうという考えすら及ばない。あと実際に住んでみてわかったけど、範囲が広すぎて「徒歩では無理だった」です。チャリを持っていたからこそ「多摩川めぐり」が可能だったのですよ*9

で、実は私。ミラクル・チャリラーでありながら、首都圏で自転車を持ったのはすごく遅くて、船橋千葉時代に「ホテルに通うのに必要だから買ったのが最初」だったのではないかと思う。それまで東京では「もっぱらの徒歩」だったのが一気に行動範囲が広がったのね。それで楽しくて毎日乗り歩いた。その習慣が多摩川でも続いたということなんやな。だから90年代チャリラーデビューということもあったね。

面白い話があって、船橋から多摩川に引っ越す時の引越し屋さん、ひとり陽気な黒人のスタッフがいて、その人が僕の自転車を表通りのトラックに運ぶ時、鼻歌交じりで「乗って」いったのがすごくおかしかった。
その自転車で僕も、その後の数年間、多摩川べりを走ることになり、そうして中田ヤスタカを発見するのである。という話は、また別項でね*10



★ドラマのテーマ曲
幼少の頃に聴いたきりだったが、概ね「記憶のとおり」で合ってた。ただし!2ヶ所だけ記憶のコードと違ってました!代理のメジャーとマイナーの解釈が「逆」だった。さすが侮れないなと思ったw


コロッケ町のぼく

*1:大江戸線の勝どきからでもちょっと歩く

*2:トリトンスクエア

*3:リーダーの「女子メン」に対するセクハラにも呆れた、という理由もかなり大きい

*4:彼らはココで描かれたように、地元じゃ「最高にやり手の連中」だったはずだった。
民主的吹奏楽とアンドロイド。そして希望。
自分は「こんなショボい連中」の言いなりになってたのか、というショックもかなりデカイ。

*5:方言札というのがあった

*6:→ バンカラ進学校の洗礼

*7:関連→karamandarine.hatenadiary.jp

*8:洲崎 (東京都) - Wikipedia 木場の遊郭

*9:d.hatena.ne.jp

*10:→ 岸辺のアルバム: songs and words