恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

男子のウザ絡みは大抵「お茶目な性欲」に起因する

 さいきん「お茶目な性欲」というのが話題になりました。

 


これを踏まえて「マニアがすぐに怒る問題」について思うことがあったので考察していきます。karamandarine.hatenadiary.jp

 実は個人的に、この辺のことに関してずっと思ってることがあって。

「そんなに男子の性欲を禁止したら子孫が途絶える」とか「男子はお茶目な性欲動物」的なこと言う人って、本人は「実際に」そういうことが出来る立場の人なんだろうか?ということです。

前にわたし、石原慎太郎がことさら「ばばあ」みたいに叩くのって、実は本人がもう「男性機能を失ってしまったからなのではないか」みたいに推理したことがあったのだけど、上記のようなことネットで言ってる人々も「実際にそういうことが出来るような人々なのか実は怪しい」というように睨んでる(いろんな意味で。環境だったり身体的なものだったり)。

この辺はまた、最近話題になってた「音楽評論が歌詞や背景でしか語られない」問題と繋がってくるのだけど、まあつまり「やりもしないで想像で語るな」に尽きる のですね。
いや、考察の一つとして「自分が知らない世界のことを考えるのはあり」です。でもそれは主流ではない。音楽批評は「音楽的なこと」が分かる人がそれについて書くべきだし、それは絵や映画、小説などについても同様なんじゃないか。なのに何故か音楽だけは「音楽を実際にやらない人」によって批評されておる。

それと同じく「性的なものやエロ」も「実際にそういうことをやらない人によって批評」されたり「持論やファンタジーで主張されている」ということが、自分としては「すごくアンバランス」だと思ってるということです。つまり「当事者が置いて行かれて」勝手に外の人々が空想で語り、風潮が決まっていく。それがそもそも変なのだと。

慎太郎氏に関しては、以前いろいろ考察したことがある。例えば最近「もう漢字が読めないんだ」みたいなこと言ってたけど、彼は日頃「ぶつくさボヤキ」みたいの言ってるけど、彼ってプライベートでも「思い通りに行かない自分自身に対して」ぶつくさ文句を言ってるんじゃないかって。というのは、珍しく弱音を吐いてる何かのインタビューを見たからである。「もう自分はダメだ」みたいな。だから彼は「パブリックに示したい自分自身のイメージ」があって、そこから外れてることについては認められないみたいな、「よく言えば美意識」みたいなものに縛られてるんじゃないだろうかと*1
小室哲哉氏みたいに赤裸々に弱音を吐ける*2のは、男子では、今もそうそういないので、だいたいは石原氏みたいにずっと強がりを言い、それが老化で転じて毒になっていくんじゃないかって推測してる。
そういう意味で「女性蔑視的ミソジニー」な人々も「なんらかの自分自身が決めてしまった望む形」があって「それに縛られて」ああなっているのではないかと想像できたわけです。例えばそれが「オトコは男らしく」だったりというホモ・ソーシャル的なものだったり。そして「それが上手く出来ていない自分」というコンプレックスがあって、その裏返しとして「すぐ怒り」「キレやすく」なっているのではないか、と。
まあこれは何についても言えるよね。早いうちから頭が固まってしまい「そこから外れた価値観の言動」は出来なくなる。そして自分自身を縛っていく。
老害ミソジニーと言われる人が陥っているのは「この状況」なんじゃないかと。そのように最近思っているわけです。

で、その「陥っている」原因として男性特有の…というか「特有だから男性」なんだけども「チンコの存在」があるのではないかと思ったわけです。
「マニアがすぐ怒る問題」として、その原因の一つに「自分のアイデンティティを奪われる気がするから」みたいな考察をしましたが、彼らには「ヲタである」「マニアである」というアイデンティティの他に、そもそもの根本として「自分は男性である」という主義主張がデフォで備わっていて、望むと望まないにかかわらず、それに振り回されていると。
そう考えていくと、例えば「特撮マニアに女性は居ない」「SF好きは男性だけ」みたいな、彼らの荒唐無稽な主張も理解できます。彼らにとって「マニアであること」がイコール「男子であること」なのかもしれないね。


★2018年10月の追記

今に始まったことでもないのですけど、最近特にツイッター上で「業界系のおっさんが若い人にウザ絡みしてる」場面をよく見るのです。傍目に見れば「まあそうだけど、そこまで怒らんでもええんちゃうん?」みたいな些細なことなんですよね。
ちょうどこないだも、知り合い関係でそういう事案が起こったので、思わず私「何かにつけ因縁つけて食って掛かってくる業界おっさん系の人は "仕事で行き詰まっている" "チンコ立たなくなった" のどちらかだと思ってます」と呟いたらウケたんですけど、まあ同じ男子としては触れたくない部分でありつつも、そこは正直「そういうことが往々にしてある」と思ってます。

先日ちょうど id:c71 さんの書かれた以下の記事を見かけまして。

blog.c71.jpまさに!そのとおりだと思うのですよね。

前述したような「石原慎太郎的なもの」も「業界おっさんが同業の若者に絡む」のも、ヲタが「性欲なくせっていうのか!」みたいにキレるのも、全ては「お茶目なチンコ」の存在ゆえです。
もっというと「それを自己コントロール出来ていない」ことに起因すると思ってます。「我がティンコはお茶目なので言うこと聴かないのである」などというのは「男性としての責任放棄」だと思っていて、このブログで散々書いてるミソジニーやらダサホモソといった問題も、原因が全部それだと考えると、たいがい納得できます。今までの日本は、そういうことを放置してきたのですね。

今後、こういうことがコントロールできない人は「老害」としてどんどん居場所なくなると思います。気をつけたい。


★関連

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インディーズ女子の未来

ココでずっと考えてきた「インディーズ女子ライブに大量のおっさんしか来ない問題」。

ちょうど先日、とあるライブハウスのマスターといろいろ話したのでメモ代わりに書いておくけど、先日書いたブログでは「虹」に限って問題提起したみたいな感じだけど*1、ココ昨今の傾向として「インディー女子アーティスト」ヲタの存在、という問題も大きいのですよね*2。この年齢層も「ほぼ40代と見られる男性」でして、その彼らが大挙して「ビジュアルに恵まれた女子アーティスト」さんライブにやってくる。

このシリーズ前記事で私「確かに嫌だろうけど、広い意味でのパトロンと考えれば、一時の応援にはなるから我慢している」みたいに書いたけど*3、それでも、例えば歌詞の内容とか「同年代の女子の悩み」みたいなことなのに「それに共感して来るのが40代男子」というのも、それはそれで辛くないのか?と見てて不憫に思う。

このことに関しても「虹というのがエロの代替」であるように、「インディ女子アーというのはアイドルの代替」として存在しているという現実を、巧妙に「アーティストや彼女の音楽のファン」という「偽りの理想形」で誤魔化してるんだと思ってて、だから、まだ「アイドルファンのほうが正々堂々としてるぶん、好ましく思う」というのは虹と同じ。

わたし一昨年、たくさんのそういう子達のライブを見て、若い女子の子がステージ上で一定時間、例えば40分くらいなのですけど、演じ続けるわけですが、ああココって演じてるあいだ、その アーティスト女子を「ジトーー」っと凝視し続けることが「許可されている」空間 だわ。と思ったのね。20〜30名からの40代男子が「ステージ上の20代女子を40分間ジットリ見続ける空間」。
アイドルじゃないから「ヲタ芸」もないし騒がない。ひたすら見て聴く。そういう異質な空気は「ちょっといたたまれないなあ」と思ったという。正直な気持ち。

あと、この条件に「当てはまらない女子」、まあシビアな言い方をすれば「ビジュアル的じゃない人」ということになりますけど、「そういう子の居場所がなくて本当にかわいそうだ」みたいな話にもなったのよね。そういうのもそうだし、あとは「アイドルと違って自分を守るノウハウが出来てない」から、悲しい事件も起こりうるわけだし。こういうのは今後どうなっていくんだろう、みたいに思ったよな*4

結局、音楽を聴く場ではあっても「ビジュアル」という現実が左右してしまうインディ女子、そして「おっさんだらけ」の現場である、と。

だがしかし「そうではない現場」もちゃんとある。サブカル系とかですよね*5。そういう現場に行けば、音楽を判ってそうな「一癖もある連中」がちゃんといて、過度にビジュアルを要求されることもない。「音楽好き」にとっては理想的な現場と言えるでしょうね。
それでも自分の場合、そういった「サブカル系女子」ではなく「SSW系ソロ女子アーティスト」のほうを見に行くのは、その手の「サブカル系女子」が「おっさんアーティストに囚われてる率が高い」からなのだ*6
例えば「ちょっとピンとくる」サブカル系女子が居たとするわな。「お、いいの発見した」と思っても、その秒速後には、例えば「鈴木慶一みたいな人」がさらって「自分のコラボか何かに取り込んでしまう」ということが実によく起こる。
個人的には「それはつまらんやろ?」と。鈴木慶一に限らず「オッサンに囚われておっさん音楽をされること」は実につまらん。そこは明確に「ノー」です。

であれば、いくら客層が「40おっさん」であっても、やっぱり自分は「サブカルに無関係」な「自分発信型女子アーティスト」のほうを応援したい!って思うんだよなあ。実際そのほうが「音楽も新しい」のである。


★女子アーティストが「女子」でなくなっていくとき

知り合いの歌女子の人、さいきんSNSで見かけないなあと思って検索してみたら、「全く別な名前」に変えられてて、でも「更新もされず放置」で、あららららと思った本日。
私のブクマのタグで「アラフォー逢魔ヶ時」というのがあるんやけど、例えばこれは「雨宮さんのこじらせ*7」に近いような「40の壁を超えられるかどうか」ということにも近い話なんだけど、特に前述の「ギター女子」とか「SSWおっさんに好かれるようなピアノ女子」とか、そういったタイプの子たちの活動場所が「30代以降徐々に失なわれていき」「アラフォーで活動そのものを見失ってく」というように、主に「自分に近い活動をしてる方々」は「逢魔ヶ時」状態に陥りやすいのだという話ですね。
で、その歌手女子の人も「見事にその年代」で、「彼女もそうなったか…」みたいに思ったわけですね。

昔はそうでもなかったが、今は「アーティスト枠」の人ですら「ビジュアルによって」活動が明確に左右されてしまうので、一見「若者の音楽活動」も華やかでありげでも、実際は生き場所がない「非ビジュアル」なタイプの人がいて「彼女たちが可哀想だ(私が言ったのではなく、とあるお店の人の意見)」みたいな話を上で紹介しましたけど、実はそれプラス「年齢」というハードルもございまして、30代以降になって、だんだんそういう人からも「お客が離れていく」わけですよね。

SSWおっさんの「罪深いところ」はそういう部分にもありまして、前述のとおり「音楽そのもの」や「才能」について評価したり好んだりしてるように見せつつ、実は「若いのがいいんでしょう?」「かわいいのがいいんでしょう?」「自分に愛想よく接してくれるのがいいんでしょう?」というように、「アイドル枠で捉えてるから」なんですよね。
「アラフォー逢魔ヶ時」というのは、そういう「業界的ミソジニーな価値観の世界」にあって、「自分の行き場所を徐々に見失っていく」という話でもあるわけです*8。…そういうのを「どうにかできないのか!?」と長崎時代からずっと自分は思ってるんだっていう話を、ココで前に書いたのね。まあ難しいんだよね。


平成も終わりに近づいたからなのか、最近「ネット黎明時代の回顧」みたいな出来事が頻発するので、当時(2000年代前半)のことをよく思い出す。
当時も僕は、今のような感じで、ネットなどで「よさそうなバンドやアーティスト」を検索しては積極的にライブ見に行くなどということをしていた。
みんな「表現者として才能はあった」と思うし、「新しい音楽」に飢えてた自分は「刺激」もすごく受けた。
でもそのうち「3年くらい過ぎて」特に女子の人は「バンドが解散」したり「ちょっとお休みします」などということが多くなり、そのうちの「幾人かは結婚」されて「ノロケ発言」などが増えて微笑ましくなるのですけど、そのうち「出産」があり「子育てブルー」があり。そうして「旦那のDVやら浮気やら」が起こり「鬱な感じの発言が増え」ていって「やがて離婚」という流れが、ほぼ 100% なのです。

だいたいこういう女子は「同業結婚」が多く、つまりは「旦那もバンドマン」ね。「バンドマンはクズだ」というのはもう「一般常識レベルの定説」ですので、大概そうなるんですね。

そうして2010年代。アラフォーの女子たちは「旦那と別れて」「新ダンナと再婚」とか「シンママ」とかになって、またライブシーンに復活してきます*9

ただですね、そういう「マイルドヤンキー的モラハラバンドマン」のような相手だからこそ「結婚出産という流れ」に持ち込めたということもあるわけで、これが「サブカルクソ野郎」では上手くいきません*10
だからそういう女子も「なんだかんだあったけど…。子がいることは感謝してるし、これでよかったのだ」などと総じて言っているわけで、今としては「そこが選び得る中での最良」みたいなことになっているのではないかしら。

まあそういったわけで、そういう一連の流れを「2000年代から見てきた」私としては、いま観ている「20代の女子アーさん」とかも「そうなっていく未来」というのを予測してしまうようになり、それを考えるといつも「ちょっとキツイ」とは思うのだけど、手塚治虫の火ノ鳥のように、何度めかの輪廻の際には「今度こそは大丈夫でしょうか」などと思う のね。

現在の 20代女子アーティストさんも、また「モラハラミュージシャン」に捕まって同じことを繰り返すのか、それとも「今度こそ21世紀として変わっていく」のか。


というわけで「業界ミソジニーとは、かくも根深いものなのである」というような格言的に終わりますw

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★関連

karamandarine.hatenadiary.

*1:「萌え」でオタクが「イタリア人」化される件 〜 10年目の完結編

*2:いわゆる「SSWおじさん」

*3:→ アーティスト女子に通う人々

*4:コレの前半部分 → アーティスト女子に通う人々

*5:カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 みたいなジャンル

*6:よくある事例で、女性の趣味がマニアックな場合「それって彼氏の影響じゃん?」と言われるクソリプ案件があるが それとは違う。おっさんとサブカル女子のコラボは本当に多いのだ。

*7:雨宮まみさん死去 『女子をこじらせて』などの著者【UPDATE】

*8:これは「女子」だけでなく男性若者アーティストにも言えること

*9:大袈裟に書いてるようですけど、例えばこれイメージとしては CHARA を思ってもらえれば判りやすいのではないかと思うw

*10:「女子の気持ちとか細かいこと」を気にするようなナイーヴ男子相手では「結婚」まで持ち込めず「出産」が出来ないからです。サブカル男子の優柔不断さもまた「一般常識レベルの定説」であります

業界に蔓延した悪習

:このエントリー内容に関しましては、自分の経験と知識、そして知り得た情報から「こうであるはず」と述べているだけですので、あくまで「私個人の意見」としてお読み頂ければ幸いです。


西城秀樹氏について雑感。

私は歌がうまい歌手は大好きだし、彼のパワフルなパフォーマンスも嫌いではない。母も「御三家」の中では彼のことを一番褒めていた。

そういう実力、そして病後の努力は認めつつも、私が晩年の西城氏に「いまひとつ乗り切れない」のは「今の自分の歌を届ける」とか言いながら、パフォーマンスが「ほぼ当て振りだったこと」なのだ。結局最後まで「真の自分を曝け出すことなく」逝ってしまった*1


昔テレビのドキュメンタリーで「声帯ガンで声を失った紙芝居屋さん」に密着するというのがあった。彼は声を失くしてしまったので、当然、喋る仕事は出来なくなってしまったわけだが、ファンの人が「彼の名調子」を「たまたまカセットで録音」しており、そのテープを譲り受けて、その音声を流しながら口を動かすという方法で仕事を続けた。あれはスゴイなと思った。

あと、フォークルの端田宣彦。亡くなる 3ヶ月くらい前、北山修のステージに出てきてヘロヘロな歌を披露し「パーキンソン病で歌えなくなった。歌というのは感性や音感ではない。筋肉だということを思い知った」と発言した*2


例えば西城氏にもこういうことをやってほしかったのだ。

脳梗塞になって、歌はどのように変わるのか、脳内で描いたままメロディは歌えるのか、自分の中で自分の音感と声帯のコントロールの伝達はどのように感じるのか。そういうことを「実例を示してリアルに語って」ほしかった。

紙芝居屋さんがそうであったように、西城氏だって、自分の歌を流しながら当て振りでも「そうしたいならかまわない」と思う。問題はそれを「お客さんの殆どが知らなかったこと」なのだ。これはお客を騙してるとは言わないんだろうか。

落馬で全身不随になったスーパーマンクリストファー・リーヴが、何かのCMで「立って歩く姿」で登場し、それが「実はCGだった」というので批判されたことがある。西城氏がやってたこともこれに近いのではないか。

そういうことについて「周りの旧友たち」は何も進言しなかったのだろうか。「頑張ってるからいい」と思ったのだろうか。そういう姿を見せることで「みんなに勇気を与える」と思ったんだろうか。でもどうかな。「脳梗塞で倒れたが歌は歌えるんだぜ!」というのがウソだったら、それは同じ病気の人に「勘違いさせて無理させることになる」。そうでなくて「マトモに発声は出来なくなったが、こうして頑張っている」のほうが、僕はよっぽどよかったと今も思ってる。

ひとつだけ彼の名誉のために補足しておく。病後に録ったという新曲は「リアルな西城氏の声」だと思う。レコーディングにどれだけ時間がかかったかわからないが、例えばワンフレーズずつ、ツギハギで積み重ねていったにしても、彼の「リアルな」声で間違いはない。だから病後も、そういうやり方でなら「ちゃんと歌えた」のだ。そういうドキュメンタリーこそ見せてほしかった。

私達は「西城秀樹」というエンタティナーに多くのものを求めすぎたのではないだろうか。そして彼も「過剰に」それに応えようとした。晩年の彼はひところに比べ人気があったわけではない。それでも、彼を知る人物、ファン、そして何より本人が「全盛期の西城秀樹」「頑張るヒデキ」を求め続けた。そうして「等身大の」西城秀樹を知る機会は永遠に失われた。重い現実だと思う。


ココからは余談になるが、というかココからが本題の気もするが、実はこれは「いろいろ複雑な問題」を含んでて、そもそも 実力勝負なはずだった歌謡界〜演歌界で「当て振りを解禁した」誰かがいる わけです。「生声じゃなければ喉も疲れない」から「営業を今までの倍入れられるから」とか。「声の老化もバレない」とか。それは「とある演歌の大物」であると言われている。

僕はそういう話を、記憶が正しければ「90年代終わり頃」には仲間から既に聴いていて「えーそうなんだ…」とびっくりした覚えがある。バレないのか?と尋ねたところ「聴くのは老人が多いから大丈夫なんだ」と。

ところが2ちゃんとか見ると、もうみんな耳が良いですから「殆どの人でバレてしまって」いる。そして「そういうことをしそうにない大御所」みたいな人が率先してやっていることに、誰もがショックを受ける

自分でも分かってるのか、そういう方々は、最近相次いで「紅白を卒業」しましたね(自主卒業しなかった和田氏は衰えても自分で歌っていた)。

こういう姑息な芸能界という現状が「もう20年も」続いていて、そんな中で「西城氏がこのような方法」を取ったことについて「責められるのだろうか?」ということも考える。だって他のみんなもやってるのだもの。もっと辛い自分だってやっていいでしょう。西城氏の晩年活動は、こうした「歌謡界の悪習」によって可能になってしまった「悲しい欺瞞」であったとも言える。彼も被害者なのだ。


昔こういう、歌手のリハビリを題材にした映画があった。ビーチボーイズの友人で「ジャン&ディーン」というグループが居るのですが(一聴して誰でも知ってる大ヒット曲がいくつもある)、そのジャンが交通事故で再起不能に近い大怪我を負い、それ以降のライブが当て振りになったが、あるときテープのトラブルでそれがバレてしまう。その後はちょっと感動的な展開になります*3

西城氏にも、たとえ呂律が回らなくてボロボロでも歌ってほしかった。「それが生き様だろう」って僕は思ったんだよなあ。もちろん本人もファンも「それ見るの辛いのは十分わかった上で」それでもね。


RIP

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*1:口パクという表現が好きではないので「あえて」当て振りと表記する

*2:本当にそうです

*3:映画の日本題は「夢のサーフシティー」。原題は「Deadman's Curve」だが同名の映画があるので紛らわしいから注意