恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

マニアの人々が常に怒ってる問題

ココ最近気づいた私の持論なんですけども、ヲタクの人って常に怒ってるから嫌だって*1

これはそもそも「ビートルズとかの音楽ヲタ」のこと言ってたんだけど、ともかく彼ら、何をやっても満足することはないし、最近映画があるけど*2、そういう誰かが作った映画とか、あとCDボックスとか書籍とか、そういうものに対して「常に文句」を言ってる。聞かされるこっちは、最終的には「じゃあ自分でやれや!」ってなるw

そういうのが「他のオタクでも共通してる」んちゃうんかなあと。

昔ブログで書いたんですけど*3、誰かの強烈なファンやオタクであるということは、そのことで既に十分病んでるわけですね(自分もそう)。その原因を辿っていけば「常に誰かに何かを奪われる気がする」みたいな強迫観念 に繋がっていくし、まあ、ありきたりな言い方では「愛が足りなかった」のだろう。
で、そういうことが、今回の「萌え絵*4」みたいなのの問題に繋がっていくのだろうと。ともかく「自分が奪われるような気がしてならない」と。

「何が奪われるか」というと「自分のアイデンティティ」ですね。

オタクというのは「一般的な話」とかできないでしょ?そうすると、人との会話って「その題材に限ること」になる。そうすると、マイノリティになるから、楽しく自分がお話できる機会って、すごい少なくなるでしょ。
しかし、オタクって「みんな寂しがり屋」だから「誰かと話はしたい」わけですよ。そうすると、萌え絵みたいなジャンルが、どんどんあけっぴろげになれば、話す機会も増えるし、メディアとかで取り上げられることも増える。それは楽しい人生になるわーって。ただ単純にそれだけでしょ。


★自分たちのマイナーな主義主張を広く認めさせたい主義

わしらさ、2000年からネットやってるけども、彼ら(僕ら)の総意ってのはさ、アングラでのみ通用するような価値観を「一般レベルにしたいお!」ということに尽きるんでして、いろんな段階、例えば「電車男」とかそういうの経て、その目的が徐々に果たされていったわけでしょ。「オタクの市民権獲得」みたいのが第一義的な目的なんだよ。10年前から変わらないの。で、その動きに対して誰も逆らわなかった結果として今そうなってるん。なんで逆らわなかったかというと実は、それを「望んでた層が一定数いたから」なんやね。
この辺わかりにくいんだけど、昔からのホモソ的思想として「エロの元に男子は共闘する」というのがあるのよ。その中に「萌え絵みたい二次元は趣味じゃない」という人がいたとしても、そこは目をつぶって「エロのもとに賛成」という総意が結集したみたいな*5
萌え絵の虹ヲタさんとかも「普通のコミュ力高いおっさんは電車吊り広告のおっぱいで楽しめるのに、自分らはそういう機会が与えられてない!」って思ってる。だから「自分らの趣味もゼヒメジャーに!」と思ってるんやろな。

結局そういったオタクの価値観というか「動き」ね、別に目新しいものでもなんでもなくて「昭和40年代くらいのホモソーシャル的価値観を 自分らの趣味に当てはめて一般化したい!」ということにすぎないんやからさ。
それを僕は10年以上前にブログで書いてたん。それが私の「日本人がイタリア人化して萌え萌え言う件」というようなエントリになったん*6。結局「自分らの既得権益の範囲を広げたい」ということなのだ、と。
ところが今は昭和ではないから、当時みたいに自由にやると批判が来る時代だわ。しかし彼らはそもそも「公私とか分けられる人たちではない」ですから、ゾーニングを「提供する側でカッチリやらなければならない」ってこと。
さすがに「おっさんのおっぱい広告」は、世間が許さない風潮になってきたので、一応おっさんは社会人ですから、上辺だけでも自粛してくれますけども、虹さんはなかなかそうじゃないからね。社会性ないから、彼らに自粛とか、判ってもらおうとすること自体が無理です。そもそも「話して判る相手じゃない」ってことです*7

僕はこの数年、いろいろそういう「萌え」やら「アイドル界隈」やら、あとは「オッサンしか客がいない女子ライブ問題」とか、いろいろ見てきて、やっぱり「みんな寂しいんや」と思ったけど、でも「自浄」ということは今後もありえないと思う。だから対策としては「提供する側がちゃんとしなければならない」ということに尽きると思ったね。

 

★ひとつの悟り。

b.hatena.ne.jp

上記のブログ、自分でブコメ書いて気付いたけど、ヲタの方々(萌系だけじゃなく全般)が「いつも文句ばかり言って怒ってるから嫌だ」って話は、つまりその人らの狭量ぶりの表れなんだってことなんやね。
なるほど。「これはこうである!」みたいな強い信念があるんやろ。よい言い方でそれは「一家言ある」と言いますけど、自分の理想が強いあまり、それを他人の表現に押し付けて「それは違う!なんでこうしない!」と常に文句ばかり言ってる。それが「僕の嫌なヲタク」というものだったと、そういうことがわかりました。

そう考えて振り返れば、どこぞの「ファンサイト運営氏」や「マニアコレクター」「ジャンル専門評論家」など、ともかく「いつも文句ばかり」言ってました。思えばそれは「自分が生み出すことのできないイライラ」から来ているのかもしれません。僕は 20年前に「そういう世界」から足を洗えて本当によかったと今思います。


いま「過去ビデオ映像アーカイブ」のPC取り込みをやってるんだけど、ちょうど「95年大晦日放送のアンソロジーTV版*8」に取り掛かったところで、これ当時、私は千葉の隣人宅で仲間と飲みながら見てたんですけど(家のビデオで録画しつつ)、みんなで「すげえすげえ」と盛り上がってたんですよ。
まあそんな「思い出のある番組」でしたが、後日「別なサブカル系のひと」と、この話題になったところ、「あれひどかった、編集もダラダラで曲もフルではなくCMも多くて〜日本の音楽番組クソ」みたいに文句言ってて「え〜。。この超ヘヴィなビーヲタの私がおもしろかったな、うん、と思ってるのに、お前ら何なん!?」とか思ってね。その後も、この番組について、あまりよく言ってる人には出会わなかったなあ。

そんで思ったのは、確かに自分が「それ以前のようなヲタ感覚」だったら「あの編集はない」とか「もっとよい方式はあっただろう」とか「NHKこそこういうのオンエアすべき」みたいに「何かと憤ってたかも」しれないな、とね。

つまり都落ちして千葉時代というのは「僕がオタであることから開放された時代」だったのだ、と。オタであることからの開放。開放されて見た新しい世界は、とっても色鮮やかで楽しかった。普通の人は世の中がこんなふうに見えてたのか!みたいなことです。

オタであることから開放されて、初めて僕は「まともな曲が作れるように」なった。ヲタやコレクターは何も生むことはない。そういう気付きだったんだな。

そう。私、実は東京にいるより、「情報の足りない地方住み」のときのほうが「ヲタから開放されて落ち着いて創作活動できた」んやね。
その方式を長崎でも適応して充実させようと思ってたところに、サブカル連中が「東京から音楽家キター!」とか寄ってきて、むしり取ろうとしてきて、それで消耗したんやね。
飢えてる魚ばかりの池に、いきなり放り込まれた餌よ、私。そんで「私の持つ文化的蓄積を食い散らし」次の餌に向かっていったの。
僕はそれを「自分は愛されてた人気があった」と勘違いしたんやね。そうではなかった。地方という飢えた池にいて、僕が持ってた東京情報という餌が欲しかっただけだった。そうして奴らはまた肥え太って去っていった。ということです。

これはもう何度も繰り返しになるけど、私「創作には別にヲタ的素養とか関係ない。むしろ邪魔」というスタンスでやってきたからねえ。もちろんそこに至るには「それなりにヲタ世界を極めた」という経験があってこその解脱だったと思うけど、それはなかなか経験ない人には理解しづらいところなんで。
なんかだから、僕にそういう「ヲタ感覚」や「東京スタイル」ばかり期待されても「それは不要です」と言うしかなくて、地方住みマニアには物足りなかったんだろうねえ。ともかくそういうの、いちいちめんどくさくて難儀したなあと。

というわけで。
結局こうして自分もプンスカ怒ってるんだけどもw


★続き的な関連エントリkaramandarine.hatenadiary.jp

*1:この頃はヲタクとマニアの定義が曖昧になってることをご了承ください

*2:エイト・デイズ・ア・ウィーク

*3:→ mrcms.hatenablog.jp

*4:まとめがコチラ→
nomolk.hatenablog.com

*5:「男子の性欲はお茶目」で許されるという発想はこれもある

*6:mrcms.hatenablog.jp

*7:関連 →

karamandarine.hatenadiary.jp

*8:ビートルズ特番。1995年12月31日オンエア。テレビ朝日で放送されたが、元々はビートルズの会社アップルが制作したものをそのままオンエアしただけ