恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

21世紀はエロの世紀

ウィキペの項目「〜年の音楽」というのを見ながらいろいろ聴いていくとおもしろい。

ちょうど20年前というと1998年となり、98年組の登場ということになるんだけど、小室系も残ってたり90年代サウンドがまだあったり、一方ループとかの手法が一般的になってきて、遂に「末端のアニメ歌手作品にまで登場」するなど、時代の変わり目をはっきり感じられるものもある。

自分の登場もちょうどこの年だったが、いま振り返ると自分の登場の仕方は「新登場」というよりは「アガリとしての到達」みたいな感じだった。次に何かネタがあるわけでもなく、ただのノスタルジーとして「90年代に対する惜別的な意味合い」で取り上げられただけだった。このことに「自分はものすごく危機感」を持っており「このまま終わっていくのは嫌だ」と思ってた。

自分の時間が 96年で止まってしまったのは、前にも書いたが、コラボ予定の歌手が、母の看病(ALS)で引退してしまったからで、他の活動方法を全く考えてなかった自分は途方に暮れてしまった。自分の創作のモチベになってた「仮想世界」が失くなってしまったのだから、何も出来なくなって当然だったのだ。

もちろん「次」を見つけなければ自分の音楽生命はないと判っていたが、そうそう見つかるものじゃないし、何よりショックと喪失感がデカすぎて何も手につかんのだ。そんな中での98年デビューだったわけで「実感もなかったし嬉しくもなく」。わたしゃどうすりゃいいんだい??みたいにどん底だった1年だった。

翌年、千葉が立ち退きになり移住、東京に復帰した私は、そこで「世紀末」をひしひしと感じることになる。1年間の初ライブ活動(歌手としての)で「それまでの総まとめが完了」し、21世紀になっていよいよやることもなくなった。

そんなすっからかんになった自分の中に入り込んできたのが aiko だわ。スッカラカンだったから、あっという間に「身体の隅々まであいこが充填」されたわ。21世紀の最初の 2年間は「自分は aiko そのもの」だった わ。

その後、林檎に出会い長崎と縁ができ、自分の付き合う相手の世代が「一周り更新」された。当時の彼女たち20代前半ですよね。まさに「現役」。私は必死に彼女たちについて行った。「自分は終わりじゃないんだ、始まりなんだ!」と毎日強く思い続けて頑張った。半年くらいウタダを歌い続けたこともある。ともかく彼女たちの「これが普通」を習得する!そうしなければ自分の21世紀はないのだ、と。

彼女たちのおかげで、自分の作風もどんどんアップデートされていき、それらの記録は後に「布石」となって日の目を見た。あれは「戦いの記録」。同時にタイトル通り「その後の自分の進む道筋」を示したもの。だから今の私「ほぼ布石の通り」に歩んでるわ。
当時の作品、名曲ばかりだが、ひとつだけ収録しなかったのね。それが春コートだわ。あれはそれまでの自分のどれにも当てはまらず、かといって新しい布石の作風でもなかった。これって特別なやつですよね?と「自分の中の普遍性」に気づいたときに「自分の21世紀が始まった」と、やっと思った。

「現役」だった世代との付き合いで、自分は「エロ」の表現に目覚めた。彼女たちはみんな「エロ」の表現に卓越していた。自分の中のエロを「爽やか作品の中に巧妙に仕込む」。

私の「布石」は「その研究の成果」でもあった。それが可能になったのは「現役だった彼女たちがエロに真摯だったから」だし、彼女たちが「私の中にエロをたくさん発見してくれたから」でもある。

自分から発するエロは時にキモいが、他者が発見してくれるエロは「エロい」のである。

これは作品と同じである。自分本位の作品を人はよく「オナニーじゃないか」と表現するけども、まさに「全く同じ意味」で 自分本位のエロはいくら相手が居ようとも「オナニー」なのである。

こうして客観であるエロをこのとき自分は得たのだ。それを発見したのが彼女たちだったのだ。VIVA:20周年!

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元「魔法使い」から同志へのメッセージ

bunshun.jpこれな。

先日、私のハイレゾ音源などを喜んで聴いてくれてたヲタ氏と、私の元コラボ相手女子が「ツイッターで言い争いをしている」という衝撃的な場面を見た*1

言い争いの内容ははっきり覚えてないが、ヲタ氏は「オタ差別&童貞差別について」ずいぶんと憤ってたようだった。それに対して女子のほうが「そんなことない。自分もオタや童貞好きだし」みたいに諌めてたのだが、それでもヲタ氏は「耳を貸さず」ずっと毒を吐いていた。

私としては、自分のリスナーが「典型的な拗らせオタみたいな発言」をしてることにとても残念な思いをし、なんでこうやってオタはみんな「ひねくれて切れやすく」なっていくのだろう?と、かつてもココで書いたことを再び思ったりしたのであるが、今回たまたま隊長*2の記事を読んで「そうなるのが必然なのか!」と気づいたのである。

たぶん自分がヲタ氏の立場だったら、諌めに来た女子に対して「そこまで言うのなら貴女が私と結婚しろ」と言っただろう。ヲタである自分と 付き合う気もないくせに「私は嫌いじゃない、もっと自信を持って生きろ」などと言われたくない*3

それよりはいっそ、隊長のように「そんなことだから一生結婚できない。オタなんか辞めちまえ」と言ったほうが 親切なのではないか と思ったのである。

虹ヲタの人などがミソジニー発言をするとき、それは多分その相手が「一生自分と関わることのない相手だと思うから」平気で貶すんだと思うのよね。

女子も男子も「オタ趣味に理解ある相手を見つけたい」などと言うけど、そんなの理想で「万に一つくらいしか叶うような出来事じゃない」ことは、みんな薄々知ってる。でもそこに拘るのは「そうしておいたほうが楽だから」である。

「自分はモテないのではない、オタだから理解されないのである」ということにしておいたほうが 気が楽 だからだ。それを隊長は、この記事で「そんなことねえ!」と一蹴してるのである。

みんなはどう思ったのか知らないけど、自分的にはあれは、元「魔法使い*4」からの かつての同志に対する愛 だと思ったね。

*1:私の音源を聴いているならば、その女子の声を聴く機会もあったはずだから、そんな相手との緊迫場面はコッチとしても非常に扱いに困る事案となった。

*2:やまもといちろう氏はかつて「切り込み隊長」という名前でネット上を席巻していた

*3:自分も10代の終わりくらいまでは実際そう言ってた。

*4:ネットスラングで「30歳童貞」のことを魔法使いと呼んだ

男子のウザ絡みは大抵「お茶目な性欲」に起因する

 さいきん「お茶目な性欲」というのが話題になりました。

 


これを踏まえて「マニアがすぐに怒る問題」について思うことがあったので考察していきます。karamandarine.hatenadiary.jp

 実は個人的に、この辺のことに関してずっと思ってることがあって。

「そんなに男子の性欲を禁止したら子孫が途絶える」とか「男子はお茶目な性欲動物」的なこと言う人って、本人は「実際に」そういうことが出来る立場の人なんだろうか?ということです。

前にわたし、石原慎太郎がことさら「ばばあ」みたいに叩くのって、実は本人がもう「男性機能を失ってしまったからなのではないか」みたいに推理したことがあったのだけど、上記のようなことネットで言ってる人々も「実際にそういうことが出来るような人々なのか実は怪しい」というように睨んでる(いろんな意味で。環境だったり身体的なものだったり)。

この辺はまた、最近話題になってた「音楽評論が歌詞や背景でしか語られない」問題と繋がってくるのだけど、まあつまり「やりもしないで想像で語るな」に尽きる のですね。
いや、考察の一つとして「自分が知らない世界のことを考えるのはあり」です。でもそれは主流ではない。音楽批評は「音楽的なこと」が分かる人がそれについて書くべきだし、それは絵や映画、小説などについても同様なんじゃないか。なのに何故か音楽だけは「音楽を実際にやらない人」によって批評されておる。

それと同じく「性的なものやエロ」も「実際にそういうことをやらない人によって批評」されたり「持論やファンタジーで主張されている」ということが、自分としては「すごくアンバランス」だと思ってるということです。つまり「当事者が置いて行かれて」勝手に外の人々が空想で語り、風潮が決まっていく。それがそもそも変なのだと。

慎太郎氏に関しては、以前いろいろ考察したことがある。例えば最近「もう漢字が読めないんだ」みたいなこと言ってたけど、彼は日頃「ぶつくさボヤキ」みたいの言ってるけど、彼ってプライベートでも「思い通りに行かない自分自身に対して」ぶつくさ文句を言ってるんじゃないかって。というのは、珍しく弱音を吐いてる何かのインタビューを見たからである。「もう自分はダメだ」みたいな。だから彼は「パブリックに示したい自分自身のイメージ」があって、そこから外れてることについては認められないみたいな、「よく言えば美意識」みたいなものに縛られてるんじゃないだろうかと*1
小室哲哉氏みたいに赤裸々に弱音を吐ける*2のは、男子では、今もそうそういないので、だいたいは石原氏みたいにずっと強がりを言い、それが老化で転じて毒になっていくんじゃないかって推測してる。
そういう意味で「女性蔑視的ミソジニー」な人々も「なんらかの自分自身が決めてしまった望む形」があって「それに縛られて」ああなっているのではないかと想像できたわけです。例えばそれが「オトコは男らしく」だったりというホモ・ソーシャル的なものだったり。そして「それが上手く出来ていない自分」というコンプレックスがあって、その裏返しとして「すぐ怒り」「キレやすく」なっているのではないか、と。
まあこれは何についても言えるよね。早いうちから頭が固まってしまい「そこから外れた価値観の言動」は出来なくなる。そして自分自身を縛っていく。
老害ミソジニーと言われる人が陥っているのは「この状況」なんじゃないかと。そのように最近思っているわけです。

で、その「陥っている」原因として男性特有の…というか「特有だから男性」なんだけども「チンコの存在」があるのではないかと思ったわけです。
「マニアがすぐ怒る問題」として、その原因の一つに「自分のアイデンティティを奪われる気がするから」みたいな考察をしましたが、彼らには「ヲタである」「マニアである」というアイデンティティの他に、そもそもの根本として「自分は男性である」という主義主張がデフォで備わっていて、望むと望まないにかかわらず、それに振り回されていると。
そう考えていくと、例えば「特撮マニアに女性は居ない」「SF好きは男性だけ」みたいな、彼らの荒唐無稽な主張も理解できます。彼らにとって「マニアであること」がイコール「男子であること」なのかもしれないね。


★2018年10月の追記

今に始まったことでもないのですけど、最近特にツイッター上で「業界系のおっさんが若い人にウザ絡みしてる」場面をよく見るのです。傍目に見れば「まあそうだけど、そこまで怒らんでもええんちゃうん?」みたいな些細なことなんですよね。
ちょうどこないだも、知り合い関係でそういう事案が起こったので、思わず私「何かにつけ因縁つけて食って掛かってくる業界おっさん系の人は "仕事で行き詰まっている" "チンコ立たなくなった" のどちらかだと思ってます」と呟いたらウケたんですけど、まあ同じ男子としては触れたくない部分でありつつも、そこは正直「そういうことが往々にしてある」と思ってます。

先日ちょうど id:c71 さんの書かれた以下の記事を見かけまして。

blog.c71.jpまさに!そのとおりだと思うのですよね。

前述したような「石原慎太郎的なもの」も「業界おっさんが同業の若者に絡む」のも、ヲタが「性欲なくせっていうのか!」みたいにキレるのも、全ては「お茶目なチンコ」の存在ゆえです。
もっというと「それを自己コントロール出来ていない」ことに起因すると思ってます。「我がティンコはお茶目なので言うこと聴かないのである」などというのは「男性としての責任放棄」だと思っていて、このブログで散々書いてるミソジニーやらダサホモソといった問題も、原因が全部それだと考えると、たいがい納得できます。今までの日本は、そういうことを放置してきたのですね。

今後、こういうことがコントロールできない人は「老害」としてどんどん居場所なくなると思います。気をつけたい。


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