恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

インディーズ女子の未来

ココでずっと考えてきた「インディーズ女子ライブに大量のおっさんしか来ない問題」。

ちょうど先日、とあるライブハウスのマスターといろいろ話したのでメモ代わりに書いておくけど、先日書いたブログでは「虹」に限って問題提起したみたいな感じだけど*1、ココ昨今の傾向として「インディー女子アーティスト」ヲタの存在、という問題も大きいのですよね*2。この年齢層も「ほぼ40代と見られる男性」でして、その彼らが大挙して「ビジュアルに恵まれた女子アーティスト」さんライブにやってくる。

このシリーズ前記事で私「確かに嫌だろうけど、広い意味でのパトロンと考えれば、一時の応援にはなるから我慢している」みたいに書いたけど*3、それでも、例えば歌詞の内容とか「同年代の女子の悩み」みたいなことなのに「それに共感して来るのが40代男子」というのも、それはそれで辛くないのか?と見てて不憫に思う。

このことに関しても「虹というのがエロの代替」であるように、「インディ女子アーというのはアイドルの代替」として存在しているという現実を、巧妙に「アーティストや彼女の音楽のファン」という「偽りの理想形」で誤魔化してるんだと思ってて、だから、まだ「アイドルファンのほうが正々堂々としてるぶん、好ましく思う」というのは虹と同じ。

わたし一昨年、たくさんのそういう子達のライブを見て、若い女子の子がステージ上で一定時間、例えば40分くらいなのですけど、演じ続けるわけですが、ああココって演じてるあいだ、その アーティスト女子を「ジトーー」っと凝視し続けることが「許可されている」空間 だわ。と思ったのね。20〜30名からの40代男子が「ステージ上の20代女子を40分間ジットリ見続ける空間」。
アイドルじゃないから「ヲタ芸」もないし騒がない。ひたすら見て聴く。そういう異質な空気は「ちょっといたたまれないなあ」と思ったという。正直な気持ち。

あと、この条件に「当てはまらない女子」、まあシビアな言い方をすれば「ビジュアル的じゃない人」ということになりますけど、「そういう子の居場所がなくて本当にかわいそうだ」みたいな話にもなったのよね。そういうのもそうだし、あとは「アイドルと違って自分を守るノウハウが出来てない」から、悲しい事件も起こりうるわけだし。こういうのは今後どうなっていくんだろう、みたいに思ったよな*4

結局、音楽を聴く場ではあっても「ビジュアル」という現実が左右してしまうインディ女子、そして「おっさんだらけ」の現場である、と。

だがしかし「そうではない現場」もちゃんとある。サブカル系とかですよね*5。そういう現場に行けば、音楽を判ってそうな「一癖もある連中」がちゃんといて、過度にビジュアルを要求されることもない。「音楽好き」にとっては理想的な現場と言えるでしょうね。
それでも自分の場合、そういった「サブカル系女子」ではなく「SSW系ソロ女子アーティスト」のほうを見に行くのは、その手の「サブカル系女子」が「おっさんアーティストに囚われてる率が高い」からなのだ*6
例えば「ちょっとピンとくる」サブカル系女子が居たとするわな。「お、いいの発見した」と思っても、その秒速後には、例えば「鈴木慶一みたいな人」がさらって「自分のコラボか何かに取り込んでしまう」ということが実によく起こる。
個人的には「それはつまらんやろ?」と。鈴木慶一に限らず「オッサンに囚われておっさん音楽をされること」は実につまらん。そこは明確に「ノー」です。

であれば、いくら客層が「40おっさん」であっても、やっぱり自分は「サブカルに無関係」な「自分発信型女子アーティスト」のほうを応援したい!って思うんだよなあ。実際そのほうが「音楽も新しい」のである。


★女子アーティストが「女子」でなくなっていくとき

知り合いの歌女子の人、さいきんSNSで見かけないなあと思って検索してみたら、「全く別な名前」に変えられてて、でも「更新もされず放置」で、あららららと思った本日。
私のブクマのタグで「アラフォー逢魔ヶ時」というのがあるんやけど、例えばこれは「雨宮さんのこじらせ*7」に近いような「40の壁を超えられるかどうか」ということにも近い話なんだけど、特に前述の「ギター女子」とか「SSWおっさんに好かれるようなピアノ女子」とか、そういったタイプの子たちの活動場所が「30代以降徐々に失なわれていき」「アラフォーで活動そのものを見失ってく」というように、主に「自分に近い活動をしてる方々」は「逢魔ヶ時」状態に陥りやすいのだという話ですね。
で、その歌手女子の人も「見事にその年代」で、「彼女もそうなったか…」みたいに思ったわけですね。

昔はそうでもなかったが、今は「アーティスト枠」の人ですら「ビジュアルによって」活動が明確に左右されてしまうので、一見「若者の音楽活動」も華やかでありげでも、実際は生き場所がない「非ビジュアル」なタイプの人がいて「彼女たちが可哀想だ(私が言ったのではなく、とあるお店の人の意見)」みたいな話を上で紹介しましたけど、実はそれプラス「年齢」というハードルもございまして、30代以降になって、だんだんそういう人からも「お客が離れていく」わけですよね。

SSWおっさんの「罪深いところ」はそういう部分にもありまして、前述のとおり「音楽そのもの」や「才能」について評価したり好んだりしてるように見せつつ、実は「若いのがいいんでしょう?」「かわいいのがいいんでしょう?」「自分に愛想よく接してくれるのがいいんでしょう?」というように、「アイドル枠で捉えてるから」なんですよね。
「アラフォー逢魔ヶ時」というのは、そういう「業界的ミソジニーな価値観の世界」にあって、「自分の行き場所を徐々に見失っていく」という話でもあるわけです*8。…そういうのを「どうにかできないのか!?」と長崎時代からずっと自分は思ってるんだっていう話を、ココで前に書いたのね。まあ難しいんだよね。


平成も終わりに近づいたからなのか、最近「ネット黎明時代の回顧」みたいな出来事が頻発するので、当時(2000年代前半)のことをよく思い出す。
当時も僕は、今のような感じで、ネットなどで「よさそうなバンドやアーティスト」を検索しては積極的にライブ見に行くなどということをしていた。
みんな「表現者として才能はあった」と思うし、「新しい音楽」に飢えてた自分は「刺激」もすごく受けた。
でもそのうち「3年くらい過ぎて」特に女子の人は「バンドが解散」したり「ちょっとお休みします」などということが多くなり、そのうちの「幾人かは結婚」されて「ノロケ発言」などが増えて微笑ましくなるのですけど、そのうち「出産」があり「子育てブルー」があり。そうして「旦那のDVやら浮気やら」が起こり「鬱な感じの発言が増え」ていって「やがて離婚」という流れが、ほぼ 100% なのです。

だいたいこういう女子は「同業結婚」が多く、つまりは「旦那もバンドマン」ね。「バンドマンはクズだ」というのはもう「一般常識レベルの定説」ですので、大概そうなるんですね。

そうして2010年代。アラフォーの女子たちは「旦那と別れて」「新ダンナと再婚」とか「シンママ」とかになって、またライブシーンに復活してきます*9

ただですね、そういう「マイルドヤンキー的モラハラバンドマン」のような相手だからこそ「結婚出産という流れ」に持ち込めたということもあるわけで、これが「サブカルクソ野郎」では上手くいきません*10
だからそういう女子も「なんだかんだあったけど…。子がいることは感謝してるし、これでよかったのだ」などと総じて言っているわけで、今としては「そこが選び得る中での最良」みたいなことになっているのではないかしら。

まあそういったわけで、そういう一連の流れを「2000年代から見てきた」私としては、いま観ている「20代の女子アーさん」とかも「そうなっていく未来」というのを予測してしまうようになり、それを考えるといつも「ちょっとキツイ」とは思うのだけど、手塚治虫の火ノ鳥のように、何度めかの輪廻の際には「今度こそは大丈夫でしょうか」などと思う のね。

現在の 20代女子アーティストさんも、また「モラハラミュージシャン」に捕まって同じことを繰り返すのか、それとも「今度こそ21世紀として変わっていく」のか。


というわけで「業界ミソジニーとは、かくも根深いものなのである」というような格言的に終わりますw

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★関連

karamandarine.hatenadiary.

*1:「萌え」でオタクが「イタリア人」化される件 〜 10年目の完結編

*2:いわゆる「SSWおじさん」

*3:→ アーティスト女子に通う人々

*4:コレの前半部分 → アーティスト女子に通う人々

*5:カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 みたいなジャンル

*6:よくある事例で、女性の趣味がマニアックな場合「それって彼氏の影響じゃん?」と言われるクソリプ案件があるが それとは違う。おっさんとサブカル女子のコラボは本当に多いのだ。

*7:雨宮まみさん死去 『女子をこじらせて』などの著者【UPDATE】

*8:これは「女子」だけでなく男性若者アーティストにも言えること

*9:大袈裟に書いてるようですけど、例えばこれイメージとしては CHARA を思ってもらえれば判りやすいのではないかと思うw

*10:「女子の気持ちとか細かいこと」を気にするようなナイーヴ男子相手では「結婚」まで持ち込めず「出産」が出来ないからです。サブカル男子の優柔不断さもまた「一般常識レベルの定説」であります

業界に蔓延した悪習

:このエントリー内容に関しましては、自分の経験と知識、そして知り得た情報から「こうであるはず」と述べているだけですので、あくまで「私個人の意見」としてお読み頂ければ幸いです。


西城秀樹氏について雑感。

私は歌がうまい歌手は大好きだし、彼のパワフルなパフォーマンスも嫌いではない。母も「御三家」の中では彼のことを一番褒めていた。

そういう実力、そして病後の努力は認めつつも、私が晩年の西城氏に「いまひとつ乗り切れない」のは「今の自分の歌を届ける」とか言いながら、パフォーマンスが「ほぼ当て振りだったこと」なのだ。結局最後まで「真の自分を曝け出すことなく」逝ってしまった*1


昔テレビのドキュメンタリーで「声帯ガンで声を失った紙芝居屋さん」に密着するというのがあった。彼は声を失くしてしまったので、当然、喋る仕事は出来なくなってしまったわけだが、ファンの人が「彼の名調子」を「たまたまカセットで録音」しており、そのテープを譲り受けて、その音声を流しながら口を動かすという方法で仕事を続けた。あれはスゴイなと思った。

あと、フォークルの端田宣彦。亡くなる 3ヶ月くらい前、北山修のステージに出てきてヘロヘロな歌を披露し「パーキンソン病で歌えなくなった。歌というのは感性や音感ではない。筋肉だということを思い知った」と発言した*2


例えば西城氏にもこういうことをやってほしかったのだ。

脳梗塞になって、歌はどのように変わるのか、脳内で描いたままメロディは歌えるのか、自分の中で自分の音感と声帯のコントロールの伝達はどのように感じるのか。そういうことを「実例を示してリアルに語って」ほしかった。

紙芝居屋さんがそうであったように、西城氏だって、自分の歌を流しながら当て振りでも「そうしたいならかまわない」と思う。問題はそれを「お客さんの殆どが知らなかったこと」なのだ。これはお客を騙してるとは言わないんだろうか。

落馬で全身不随になったスーパーマンクリストファー・リーヴが、何かのCMで「立って歩く姿」で登場し、それが「実はCGだった」というので批判されたことがある。西城氏がやってたこともこれに近いのではないか。

そういうことについて「周りの旧友たち」は何も進言しなかったのだろうか。「頑張ってるからいい」と思ったのだろうか。そういう姿を見せることで「みんなに勇気を与える」と思ったんだろうか。でもどうかな。「脳梗塞で倒れたが歌は歌えるんだぜ!」というのがウソだったら、それは同じ病気の人に「勘違いさせて無理させることになる」。そうでなくて「マトモに発声は出来なくなったが、こうして頑張っている」のほうが、僕はよっぽどよかったと今も思ってる。

ひとつだけ彼の名誉のために補足しておく。病後に録ったという新曲は「リアルな西城氏の声」だと思う。レコーディングにどれだけ時間がかかったかわからないが、例えばワンフレーズずつ、ツギハギで積み重ねていったにしても、彼の「リアルな」声で間違いはない。だから病後も、そういうやり方でなら「ちゃんと歌えた」のだ。そういうドキュメンタリーこそ見せてほしかった。

私達は「西城秀樹」というエンタティナーに多くのものを求めすぎたのではないだろうか。そして彼も「過剰に」それに応えようとした。晩年の彼はひところに比べ人気があったわけではない。それでも、彼を知る人物、ファン、そして何より本人が「全盛期の西城秀樹」「頑張るヒデキ」を求め続けた。そうして「等身大の」西城秀樹を知る機会は永遠に失われた。重い現実だと思う。


ココからは余談になるが、というかココからが本題の気もするが、実はこれは「いろいろ複雑な問題」を含んでて、そもそも 実力勝負なはずだった歌謡界〜演歌界で「当て振りを解禁した」誰かがいる わけです。「生声じゃなければ喉も疲れない」から「営業を今までの倍入れられるから」とか。「声の老化もバレない」とか。それは「とある演歌の大物」であると言われている。

僕はそういう話を、記憶が正しければ「90年代終わり頃」には仲間から既に聴いていて「えーそうなんだ…」とびっくりした覚えがある。バレないのか?と尋ねたところ「聴くのは老人が多いから大丈夫なんだ」と。

ところが2ちゃんとか見ると、もうみんな耳が良いですから「殆どの人でバレてしまって」いる。そして「そういうことをしそうにない大御所」みたいな人が率先してやっていることに、誰もがショックを受ける

自分でも分かってるのか、そういう方々は、最近相次いで「紅白を卒業」しましたね(自主卒業しなかった和田氏は衰えても自分で歌っていた)。

こういう姑息な芸能界という現状が「もう20年も」続いていて、そんな中で「西城氏がこのような方法」を取ったことについて「責められるのだろうか?」ということも考える。だって他のみんなもやってるのだもの。もっと辛い自分だってやっていいでしょう。西城氏の晩年活動は、こうした「歌謡界の悪習」によって可能になってしまった「悲しい欺瞞」であったとも言える。彼も被害者なのだ。


昔こういう、歌手のリハビリを題材にした映画があった。ビーチボーイズの友人で「ジャン&ディーン」というグループが居るのですが(一聴して誰でも知ってる大ヒット曲がいくつもある)、そのジャンが交通事故で再起不能に近い大怪我を負い、それ以降のライブが当て振りになったが、あるときテープのトラブルでそれがバレてしまう。その後はちょっと感動的な展開になります*3

西城氏にも、たとえ呂律が回らなくてボロボロでも歌ってほしかった。「それが生き様だろう」って僕は思ったんだよなあ。もちろん本人もファンも「それ見るの辛いのは十分わかった上で」それでもね。


RIP

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*1:口パクという表現が好きではないので「あえて」当て振りと表記する

*2:本当にそうです

*3:映画の日本題は「夢のサーフシティー」。原題は「Deadman's Curve」だが同名の映画があるので紛らわしいから注意

「萌え」でオタクが「イタリア人」化される件 〜 10年目の完結編

まずは私が書いた昔のブログの名エントリを。 

d.hatena.ne.jp


なんと現在、ここから10年!経ってるわけですよ。自分もはてな歴長いんですね…。

 

で。

今回たまたまなんですが、以下のようなツイートをしてる方を発見したのです。

 

これを読んで、自分が10年前に危惧してた将来のオタク*1の姿。実際の今どうなってるかというと、見事に私が予想したとおりというか、むしろ実際はもっとひどくなってる気すらする、と思ったわけですね。

僕は子供時代から、自分自身がずっとイケてない系男子であり、ウェーイ系でもなくスポーツも出来ず、所謂オタク*2だったことから、自分と同類であると思われる虹系オタクの皆さんにも少なからず親近感とシンパシーを持ってきました。また、そういうふうに育つのは家庭環境も大いに影響あるだろうと思い、酷いDV家庭だった自分のことを彼らに重ね合わせて、同士みたいな感覚すらありました。

ところが実は違ったのですよね…。

 


僕が子供の頃や若い頃は、今以上に「オトコは男らしく」みたいな、日本全国が九州であるかのような価値観が主流でした。そういうものに価値観を見いだせなかった僕は、そういう世界に混ざることが出来ず、彼らに合わせることも出来ず、辛い子供時代を送った。そうしてやがて、自分が生きる世界の価値観は自分が決めるしかない、と開き直ったわけやね。

「男らしいもの」という価値観の反対にあるものは「女らしいもの」やわ。子供の頃から女子に惹かれてた私は、彼女たちと話していくうち、男系社会に於けるマイノリティ「女子」として、どう生きていくか、日々四苦八苦したり試行錯誤したり、そのように戦いながら過ごしているのだという事がわかったわけです。

僕は女子ではないし、性的にも完全にストレートな人なんですけども、そういう「女子の人たちが、この先生きのこっていくためのノウハウ」は、男らしくなくホモソーシャルに馴染めなかった「主流ではない男子」である僕にも応用できるのではないかと考えた。それに気づいたのは17歳くらい前後だった気がするのよね。部活の後輩女子からたくさん相談とか受けてね。そんな事があるんや…大変なんや…みたいなところから始まって、ちょっと待てと。これって自分にも当てはまるのではないか、と。そういう気付きがヒントだった気がします。

日本はずっとホモソーシャル的な価値観で牛耳られてた社会ですから、ともかくサラリーマン系おっさん、具体的には新橋で飲んでるような人々っていうんですかね、そういう人種が一番楽しいように、得するように出来てたんですよ。雑誌も新聞もそう。だから電車内の広告や、スポーツ新聞とかも平気で胸が出ていたりとかが普通になってた。

本来であれば、そういう主流から外れた僕らは、そうではない新しい価値観を提示して、別な社会のあり方を提案すべきだったのよ。少なくとも僕はそう考えた。それには「女子的な考え」が非常にヒントになるだろうと。サバイバーである彼女たちの生き方に、たくさん学ぶことはあると思ってたのね。

ところが、実際に反主流系男子がやりたかったことは、もともとはオッサンが支配していた、それらの既得権益を自分らが奪還することだったのよ。エロもウェーイもお前らだけの特権じゃないんだぜと。逆襲だったのよね。そこで2次元エロの反撃が始まり、数の力でどんどん旧おっさんホモソ的なものを脇に追いやっていったの。

これは一見新しそうに見えるけども、まったく新しくない。つまりオッサン向けのエロ広告とかが、単に虹の「駅乃みちか」とか「碧志摩メグ」みたいなものに置き換えられたにすぎないの。しかも彼らが、旧弊オッサンよりタチが悪いのは、それらの表現について「エロくない!健全な表現!」と言い張ってること。そんな主張は極めて悪手で逆効果にしかならないのに、自分の性欲に気付いていないとでもいうのか?*3

結局。かつてのおっさんホモソーシャル系のエロ表現であったセクシー女優系が、彼らによって虹に置き換えられ「自分自身の性欲にすら自覚を持てない虹系男子ヲタの人々」に既得権益を奪取されてしまった、ということに過ぎなかったのだと。

これには心の底からガッカリして、結局お前らの欲しかったものは、自分らが楽しく生きられる世界かと。自分らだってホンの20年くらい前までマイノリティで迫害されてて生きづらくて苦労してたはずなのに、手に入れたかったものは誰もが生きやすい新しい価値観の世界ではなく、旧オッサンらが支配してたホモソーシャルを自分らの世界観で占領することだったのだと。そう思ったのだな。

私が考えてた、同じマイノリティどおし、別な価値観で新しくやり直しましょうよ、みたいな「お花畑みたいな希望」は完全に幻になったわね。

ただね、昔と今が違うのは、かつての弱者だった女性が力をつけて発言力も機動力もあるからね。世論も味方しているし。そうすると、旧弊な社会感を支配して「やったぜ」とか思ってる人々は早晩行き詰まる。このまま進めば10年後の姿は完全にただのキモい老害に成り下がり取り残されていくだけであろうと。

結局どこへも行き場がないんだわ。
でもそれは自らが欲した世界でしょ。
もう僕は知らない。

というのがココ最近の私の悟り。


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*1:オタク。或いはヲタの定義については現在いろいろある。10年前の価値観としても定まっていたわけではないが、個人的にはココでの定義としては「男性であり、かつエロ系2次元マニア」を指していたし、一般的には、それプラス声優ファンやロリ系嗜好を指していたと思われる。

*2:一般的な意味での「インドア派であり偏執的で、マニアがいっそう濃くなった状態」を指す

*3:個人的にはこの主張が一番キモかった