恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

早熟男子 〜「孤独の勝者」感

前回こんな記事を書きました。

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書きながら自分でも思ってたのだけど、こういうのって日頃わたしが嫌ってる「暗黒の昭和時代もの」なんじゃないのか、なんで「好き」みたいに取り上げるのかって。
確かにそうだ。昔は実際にこういう世界のこと嫌ってたし、それを構成してる人間、この世代の人々の考え方や風習そのものを忌み嫌ってた。

当ブログでも散々話題にしていたわ。

ネット無礼講 カテゴリーの記事一覧 - 恋する段差ダンサー


じゃあ今はそういうの消えたの?と考えると、そうでもないのだが、じゃあ受け入れられるようになった理由は何なのか。


いろいろ考えてみた結果「この辺がきっかけなんじゃないか」と思われるフシのある番組があった。それがこれだ。


渥美清の伝言


この動画はダイジェストだが、本当はもっと長い。その長い完全版を私はリアルタイムで偶然見て、「この当時の人々の」「オモテからは見えない」裏の姿を知ったのである。
男はつらいよ」シリーズと言えば、もう「典型的な」古風日本賛美として取り上げられるコンテンツなわけで、もちろん私だって「好きなわけがなく」「1本たりとも見たこともなく」避けていた世界観であった。そんな私でも、この番組は心に来るものがあったのである。
当時の私はというと、長年やっていたドラマー〜ホテル業を経て、音楽家としてオモテに戻ろうとしていた時代だった。創作活動はよく「つるの機織り」みたいだと例えられたりするが、これも同じく「オモテの華やかさと裏の苦労のギャップ」について、演じる本人が告白した、とても貴重な証言だったと思う。自分自身の当時の立場になぞらえて、かなり突き刺さってきたのである。

その後しばらくして、渥美氏の長男から「父からのひどいDV」告発という事件があるのだけど、それを知ってしまった今でも、この番組に対する自分の気持は変わらなかった。井上ひさしではないが、渥美氏に関しても「さもありなん」と思ってしまったのは、やはり世代のイメージが最初からあったためだろうか*1


さて本題。
私は常々「自分は早熟だったので苦労した」と語っています。極めて幼少から「オトナの」音楽を聞き、それらの良し悪しを聞き分けていた。自分の好きな音楽を語るとオトナからは「子どもなのにそんなの聴くの?」と驚かれ、当然同世代の子どもからは理解されなかった。
とても早い段階でロックやポップスを聞いて好きになったせいで、世の中の流行や作風が変化し「昔のほうがよかった…」と思ってしまう時期も、同世代より数年早く訪れた。早くも小学5年くらいから懐古厨みたいに「こんなのちっともよくない。前のほうがよかった」などと言う子どもだったのである。そうして高校時代には既に「世の中の音楽は全然よくない」という状態に陥った。

これが90年代〜2000年代サブカル昭和ブームで、自分好みの音楽性が世の中に復活し、引いては自分自身の再生のきっかけになったのだ、という話はココでよく書いた。そこに戻るまでは本当に長かった。

2000年代になってネットを始め、自分が子供の頃に好きだった音楽のファンと当時の話をしてみたい!と思うようになった。ところがだ。そうしてみたところ「自分と趣味があう年代が、ほぼ痛いアラ還世代ばかりになっていた」という現実を突きつけられる。そらそうだ。自分は早熟だったのだから、気が合う趣味の人々が、みんな「すごく年上」なのも当然だったのである。

私はそんな簡単な事実に気づかなかった。それが地雷だと気づかずに迂闊に近づいてしまったのだ。あとはもう前述カテゴリーで散々書いたとおり、昔「立派に見えた年上」のお兄様がた、今は「劣化オトナ」に成り下がっていた人々に散々な酷い目に遭うという。もうホントに何度も書くけど「こんな人達だったの…」という落胆はかなりなもので、今でもトラウマだ*2

結局やつらと「心通じ合う」的な気持ちは終始持てなかったのであるが、当時「すごくオトナで頼もしい」世代の「現在における社会での体たらくな現実」を知ったことで、自分の中に「ああ私はもう彼らとは違うんだ。」という感情が生まれた。同じ時代に生き、同じ空気を吸ってたはずなのに、今の彼らと自分は、感覚がこんなにも違う。

…そう気づいたとき、自分の中に「一息つけた感」みたいな気持ちが生まれた。
ずっと孤独だったが、その孤独と引き換えに、私は今、こういう特殊能力を授かり仕事にできている。これで正しかったんだ、私はやっと彼らに追いつき勝てたのかもしれない…と思った。

自分が「上から目線(俯瞰的な)」でモノを見れるようになり、初めて「昭和レトロ」を「微笑ましく」鑑賞できるようになった、ということなんである。

これが例えば、今も自分が「ホモ・ソーシャルやアラ還ミソジニーに振り回されている」というような辛い立場だったとしたら、野良猫ロックも寅さんも、穏やかに見ることなんか出来なかったはずだ。今の自分が「そういうものと無縁になれたからこそ」そういう作品を楽しめるようになった、ということなんである。

気持ちの余裕。

それこそが自分を成長させた最も大きなものだったのだな。と。

梶芽衣子さん@ヨコハマ

長崎時代、最初の1年間だけケーブルテレビを見ていた話は以前も書いた。NECOやファミ劇でオンエアされてた古いドラマを見て「自分の郷愁は多摩川にある!」と気づいた、というやつだね。

そこで見たどれかの映画で、70年前後のヨコハマが出てきて、路面電車などが映っていた。実は自分は昔から「ヨコハマ」というものに興味もなく縁もなく、ごく最近まで「どうでもいい」みたいに思ってたのだが、最近、街の成り立ちや地形など、長崎と共通する部分も多いことに気づき、俄に興味が湧いてきたのだね。

まあそんで「70年前後のヨコハマを確認したい」と思い、10年前のケーブルテレビの記憶から、手持ちの動画で「ヨコハマが舞台」というと、まずこれが思いついたので久々に見てみた。それがこの「野良猫ロック マシン・アニマル」である*1

米軍基地&廃墟マニアの私としては、安岡力也が出てくる前作も好きなのだが(ラスト、立川基地内での銃撃戦がすごい)、今作の「ベトナム脱走兵を逃がす」という題材が「私の愛したウルトラセブン」と共通していて、その辺が惹かれた。逃げる兵隊、好きです(ジェンキン寿司)。
また今までの3作に比べて「あまりシリアスではない」というところも重くなくてよかった気がした。バイクでのチェイスシーンなど、「何かいいことないか子猫チャン」を意識したと思わせるようなところもあって楽しいです。ラストの虚無感も好きだな。

というわけで、このシリーズの圧倒的魅力は梶芽衣子さんにある。…と見た人ほぼ全員が語ってるので、私が特別ここで言うこともないですが、まあそのかわりに「スクショでもどうぞ」といった感じです。


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定番となった「ハット」着用。


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郷鍈治さんと。
宍戸錠実弟で、妻は「ちあきなおみさん」だった。
郷さん葬儀の時「私も一緒に焼いてくれ〜」と棺にすがりついたのは有名。


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和風黒髪ロングヘアーという「完全プロトタイプ」の完成形。


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当シリーズもうひとりの主役。藤竜也さん。
今作は割と真面目な役です。


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ヨコハマで全員集合。
脱走兵の「チャーリー」が捕まっちゃった。前述の「私の愛したウルトラセブン」でもそうだったが、脱走兵は「とことん情けなく」描かれます。


というわけで最も荒かったと思われる70年前後のヨコハマ。なかなか楽しめたのではないかと思った(しかし、記憶にあった「見たかったシーン」は出てこなかったw)。


★続き

 

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*1:野良猫ロックシリーズは全5作。そのときに全部見ているが、個人的に惹かれたのは「長谷部安春」監督の作品。もうひとりの藤田氏版は70年代特有の湿っぽさと汚さがあって自分は無理だった。

因果応報インターネット〜批判で「逆世論」が育っていく話。

岡田育氏の夫である梅田望夫氏が「日本のWEBは残念」と言ったから、日本のネットは残念になり、中川淳一郎氏が「ネットはバカで暇人のもの」と言ったので、日本のネットはバカで暇人のものになった…。

その手の批判めいたことを言う人は、実は「そうなってほしい」と望んでいるから「そう言ってるのではないか」と私は思ってるのです。

なぜなら、実際にそうなったら「残念ではなくて暇でもバカでもない」彼ら本人が得をするから です。自分たちだけが特別で「周りにはバカでいて欲しい」のが彼らなんです。だから批判しながらも、実際は「そうなってほしい」わけ。


なんで今こんなこと急に言ってるのかというと、能町みね子氏が「高輪ゲートウェイ反対署名」を集めてる、というニュースを見たからですね。

はてなブックマーク - 高輪ゲートウェイ撤回署名5万弱


確かに登場当初は「なんやその駅名は!?」みたいな感じでしたが、今やどうでもいいというか、すっかりみんな忘れてると思います。
そんななか、必死に署名活動をしてる、というニュースが出ると「まだやってたんだ」「ちょっとシツコイかも」な世論が形成され「そんなことに逆らってるほうが変」みたいな空気になって「高輪ゲートウェイ」は逆に認められていくのではないか、と思うのです。

私、最近よく安倍バッシングについて「10年前にメディアが下痢などと茶化したせいで今の台頭がある」と言ってるのですけど、コレなんかもまさしく同様で、今の世の中の流れって、叩けば叩くほど、その叩く相手のほうに有利な民意が形成されていく傾向があるのですよ。そういうのって「10年前からの流れ」なのに、頭がいいはずのメディアも野党もわかってないのが、本当に気の毒に思います。


そういえば先日、春風氏のこんな記事が話題になっていました。
ブコメの反応はこんな感じです。

はてなブックマーク - 有名税|春名風花|note


通常の私であれば「クソリプひどい」「ミソジニーほんとクソ」みたいに言うのだが、この人の場合は逆になってくる。当ブログ過去記事や上記ブコメでもちょっと書いたが、ろくでなし子さんとか、あとは「ウシジマいい肉」氏もそうなんだけど、この種の人々は「わざとクソリプ煽るようなことを書いている」という印象を持ってる。
芦田宏直氏とかも同じなんだけど、わざと「バカ」を引き寄せるような発言をし、「釣られた人間を茶化す」という「高尚なお遊び(ストレス解消)」を、昔からずーっと続けている人々なのです。
もちろん発言内容は周到に考えられてるので、その「アオリの内容に矛盾や間違いはない」のですよ。ただ「言い方の問題」で、彼らの言う「バカ」とされる人々が反応しやすい表現でわざと言う わけ。
これはある種の「マッチポンプ」と言ってもいいのではないかと思うのですよね。「はるかぜ先生」「ろくで先生」「ウシジマ氏」などという方々もこれに当てはまるというわけ。彼らはみんな「バカで暇人で残念なネット民」を餌にし、毎日生きている人々なのです。

恐らく、こういう言動って 常に自分が渦中に居ないと「生きてるーって感じ」がしない みたいな、ある意味「病の一つ」なのだろうと思う。はあちゅう先生も似たところあるよね。観察として面白いなとは思うが、ああはなりたくない。


今のツイッターというのは、始まったばかりの10年前と違い、ひろゆきが言ってたとおり「積極的発言ユーザー層」がとても偏っているので、「スルー」力や「さばく」能力がない人には、使うのは難しいツールになってると思う。
私はよくあれを「感情増幅装置」と言ってる。だから自分の中に、ちょっとでも「拘り」や「偏った考えがある」という人は、それを「増幅してしまわないよう離れてたほうが無難」だと思う。

それが、上記「ネット釣り人たち」の「餌にならないため」に自分ができる唯一の自衛法じゃないかなと思った。


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