恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

暗黒の川北ラプソディ

釧路時代の10代までは概ね暗黒時代だったと散々書いているが、特に就学したての 6歳の頃が最もキツかったように思う。まだ幼少だったから感受性が強かったというのもあるが、何より護ってくれるべき親が離れてしまったというのも大きかった気がする。どういうことかというと父があまりにも不甲斐なかったため、私の就学と同時に母が職場復帰したのである。そう。つまり共働き。いきなり6歳にして「誰も待っていない家」に帰宅しなければならないという日々が訪れる。

通った小学校というのもわけありで。父の勝手な要望により「国立の小学校」に越境通学させられたのである。田舎住みの6歳いきなりの都会へ列車通学!

そして放課後も容赦なかった。「ぼっち帰宅」が 1ヶ月ほど続いたあと、放課後から親の帰宅時間まで(特別な計らいで)私は学校近くの保育園&母子住宅に預けられることになったのだ。新入りで本来よそ者の私を施設民が暖かく迎えてくれるわけがない!私に対するイジメが容赦なく開始された。そしてそれは我が家が学校の近くに引っ越すまで半年間続いた。

その学校と放課後に預けられた施設はともに釧路市の川北にあった。そのエリアは駅(線路)を挟んで釧路の中心街とは反対側に位置しており、駅の向こうであることから当時はそのエリアを「駅裏」と称していた。「裏」という名前がすごいよね。「ココは街の中心ではない。あくまでサブであり裏キャラです」と言ってるのである。そんなエリアだから「猥雑」だったり「負のもの」は全部こっちに集められていたような印象があり、私の子供時代の体験と相まって「暗黒エリア」というイメージが後年まで残り続けた。

今思えば田舎住み(村民)の私にとって、これは人生初の「上京体験」だったのだろう。私は「都会の洗礼」を受けたのだ。6歳の身にはかなりきつい洗礼だった。だからこうして今も引きずっているのである。ココで散々書いていた「暗黒の釧路時代」というのは、もしかしたら「田舎から釧路市に"上京"して受けた様々な洗礼」に対する拒否反応だったのかも知れない。6歳まで別な場所に住んでいたのであれば都会に馴染めなかったのは当然なのだ。そうして馴染めなかった自分は独自の感性を構築していくことになったのであろう。ふむ。


というわけで。
そんな暗黒の地「川北地区」を訳あって最近巡ってみることになったのだが、これがまたなかなかヘヴィーな体験となったので当時の思い出など含めつつ書いてみようと思う。まずは私が駅から学校まで通ったルート。そして当時預けられていた施設の様子などを写真とともに紹介してみることにする。


列車で駅に到着。私は鉄道好きなコドモだったからココまではOK。

問題はこの先なのだ。
まず小学校が駅の北側地域にあったわけだが、駅出口は街の中心である南側にあったため「線路を渡る」ということが必要になる。これは今もどこの駅でもそうね。鉄道が街を分断してるのはよくあること。車も人も線路を超えなければならない。

それで釧路の場合。その反対側に渡るルートが「地下道」なのだ。地下道ってどういうものかわかります?もちろん地下を通るんだけど。当時のことですよ。照明は暗く衛生の観念も乏しく。そして当時の「駅裏」は猥雑な飲み屋街ときたもんだ。

そんな街と駅を繋ぐ地下道が小綺麗であるわけがない。
臭い汚い暗い怖い。
4Kの洞窟みたいな地下道を6歳が毎日通るのである。

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これが現在の地下道の入口である。
綺麗にリニューアルはされたのである。

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入り口もカラフルに飾りイメージ刷新の努力は認められますが。

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市民が描いた画などが展示してあります。子供の絵もある。でもやっぱり天井からの圧迫感と暗い印象は残る。ちなみに釧路駅は大きく線路の本数が多いので地下道はやたら長い!最初のうちは怖くて途中までしか進めなかった。

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当時の子供目線から撮ってみたがやっぱり暗くて怖いのである。

ちなみにニオイですが。
今でも忘れられないです。特有のニオイがする。
そしてそれは今現在も仄かに残る(気がする)。

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地下道出口。
今は出てから左右に分かれるのですが当時は左右の出口が別だったのよね。
私たちは学校のある側、右を登っていった。

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出るともうそこは猥雑歓楽街のミニ商店街。
このミニ商店街は飲み屋長屋も併せて3本並んでた。
呑んだくれたりストリップ場に通うおっさんなどがたむろしてた場所。
そこを6歳が(略)。

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もう今はすっかり寂れて廃墟街。
建物だけは残ってますが、徐々に解体が進んでる模様。

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商店街を抜けて駅裏の大通りに出る。
いかにも「裏」という感じの猥雑な歓楽街通りだった。

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子供目線で撮ってみる。今でも怖いんだけどw
ちなみに半分くらいは廃業して廃墟状態。
アーケードにありがちな屋根があったかどうかは覚えてないんだよな。
どっちにしろ「暗い汚い」歓楽街だったことは確か。

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そしてランドマークやわ。
日劇という成人映画専門館がありました。
たまにストリップとかもやってたんじゃないかな。
エロなポスターなどもバリバリ張り出してあった。
そんな中を6歳が(略

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途中で踏切の横を通ります。
地下道を通らなくてもココ経由でもよかったんだろうけど、当時は踏切事故も多かったので地下道を通るように決められたのかも知れない。今は歩道橋が架かっています。

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そして第4の難関へ。
これは線路を超える巨大陸橋なんだけど、この下を潜って行かなければなりません。
ココは臭くはなかったけど隣りが材木置場で木の匂いがしてたなあ。

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木の匂いが漂うなか陸橋の下に向かってゆく。
子供目線でどうぞ。

そして陸橋の下。
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ぜんぶ子供目線写真で撮ってみた。
秘密基地っぽさもあるけどやっぱり圧迫感が。
そして暗くて怖い。変質者でも隠れてたらどうするのか。
ここを通り抜けて学校のある側へ出ます。

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陸橋を出たところ。
右側、今はイオン系スーパーだけどココも材木置場だった気がする。

関係ないけどこのスーパー。
お客層があまりよろしくなくてですね…。
安いけど。
そういう意味では行きづらいお店やね。

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そのまま大通りを学校の方に向かってゆく。
けっこう車通りが激しく幹線道路だった気がする。平地で遮るものもないので風が吹きすさんでキツかった思い出。当時の駅裏地区はイメージからして荒涼としてたからなあ。

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次の交差点を右へ。
ココで見えてくるのが保育園と母子住宅(母子寮)。私が放課後に預けられていたのはここだったのである。なんか綺麗なマンションぽいのが建ってるけど実は違ったの(後述)。

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そして一つ目の角。
左が空き地だけど当時は団地があって何棟もアパートが建ってた。さっきの保育園&母子寮は右。学校はこの先か手前(写真を撮ってる場所)にあったと思われるのだが、ちょっと確証が持てなかった。

当然もう当時のものなんかそのまま残ってないと思ってたのよ。だからココまで来て、この様子を見ても想定内で「ああこんな感じかー。面影ないなあ。わからないなあ。。」と思っておとなしく帰宅したわけです。

が…。

なんと!

その後たまたまグーグルのストビューで見てみたところ!
当時のままの建物の様子が残っていたのです!

タイムスタンプを見ると2015年!

つまり2015年までは、この姿のままココに残ってた!ということなのよ!

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これが残ってたストビュー。2015年。
私が預けられていた「双葉保育園」がそのまんま出てくる。
当時一緒に遊んだ団地の仲間もたぶんココの人たち。
私をイジメた連中もココの人たち笑。

それにしてもストビュー。
これはすげえ…。と見たまましばし絶句してたわね。

6年前なら私ココに来れたねえと思ったもんな。
もしリアルでこれ見たら私はどう感じただろうねえ。


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そして今現在の当地。

何かの施設かなと思ったんだけど張り紙を見てみたら公営住宅だったの。
最近の公営住宅はモダンに作りますなあ。
ココは双葉の跡地なので名前をそのまま「ふたば」にしたんでしょうかね。
由緒ある名前だもんね。
ちなみにこの保育園が元は母子寮でもあったそう。

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そして手前の点字図書館。
私の記憶では当時の学校はココだったと思ったのです。学校の跡地は福祉施設になったよと聴いた覚えがあったので*1


余談だけど、この写真を撮ってたときに当住宅住民(とおっしゃる方)から、どういう理由で写真を撮っているのか?と問い質されたんですよね。もちろん理由はしっかり説明したけど納得いってない様子だった。今や思い出巡りもリスクを伴うものだわ。でも私のほうがその方より遥か昔から縁があったわけだし。住民とは言っても市営の住宅であなたは借りてるだけやんけとも思ってさ。とやかく言われる筋合いはない気もしたんだよな。ちなみに他のマンションとか撮ってて何か言われたことは今まで一度もないです。


というわけで暗黒の思い出は最後の最後まで後味悪く終わった。笑。
思い出は美しくなんかないな。


おまけ。

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現在の周辺の様子。すべて取り壊されたあと今は新しい巨大住宅を建設中でした。また新しい歴史が始まるのかね。でも建物は新しくきれいになっても、この地域の淀んだ空気感は今後も変わらないかも知れません。私が子供の頃と同じまま*2



★参考資料
図書館でこういうデータを共有してるのね。
素晴らしいことですね。

crd.ndl.go.jp

*1:その後うちにあった古地図から場所はココと確定できました

*2:この団地は2022年に完成しました

釧路臨港線。ついに鉄道模型化する。

釧路の石炭輸送列車、太平洋石炭販売輸送臨港線が廃止されてからの様子を伝えております。今までの記事はこちら。

karamandarine.hatenadiary.jp 

karamandarine.hatenadiary.jp 

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おもしろいねえw
廃止されたからこそ、こうやって遊んでるわけです。

ところで、路線を残そう運動の甲斐もなく、廃止後はどんどん線路も撤去されていってるわけですが、今回の 2020年冬。ついに、残っている貨車と機関車が留置してある部分「以外の」線路がすべて撤去され、鉄道模型のディスプレイみたいになっていたことをココに報告いたします!


例によって実家の近所ですので、散歩がてら春採駅に行ってみますと。

構内の線路がすべて撤去されているのは想定内だったのですが、残されてる機関車や貨車はどうなってるのかと思って見ますと。

なんと!

線路が残されているのが、機関車と貨車の「置いてある部分だけ」に!!
先端ここに極まれり!

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春採駅構内。
普通に貨車が泊められているように見えますが。
足元の線路を見てください。

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貨車の手前で切れています!!

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左隣の線、機関車が泊められてありましたが。

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コレもココで切れています!

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近寄って見てみます。
足元。
雪で埋もれてるのとは違います。
本当にココで切れているのです!

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機関車側の側線。
プッツリと切れています!
レイアウト製作途中じゃないんだからさ…。

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機関車に近寄ってみます。
往年の名機が「展示」されています。
この801は雄別鉄道の機関車。

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前の記事で、子供の頃も特に興味なかったといいましたが。
実はこの「アメリカ由来の」ディーゼル機関車だけはカッコいい!と思ってました。

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こんな形の機関車はどこにも走っていませんでした。


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そして反対側。
ヒブナ坂の踏切方面も見事に切られています。

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遠く春採駅を望む。
線路はココまでしかありませんの。

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記念に自分の足と共に。
ココで線路が終わっている先端ですぞ!と。

これこそ究極の「鉄道の先端であり終端」ではないでしょうか。


その後、関係者に尋ねてみましたところ、市民有志の運動にもかかわらず「残すことにはならなかった」のですが、そのかわり新たに海外で活躍すべく、機関車などの身売り先はもう決まっている、とのことで、第2の人生もきっと遠い彼の地で活躍してくれることでしょう。

そうして釧路の石炭輸送列車の歴史も終わっていきます。

去る者は日々に疎し。

そのままやねえ。頑張ってね!


★追伸

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この記事で書きましたとおり、北海道の建築物は北海道特有の厳しい自然、風雪に耐えられません。なので住民も「失われていくもの」にさほどのコダワリはないように思います。歴史を重視する余裕がない、日々暮らしていく「今現在の」現実で精一杯だ、という道民の現実は知っておいてもいいと思います!

食べられた釧路はハイカラ味。

釧路を食べられなかったシリーズ。

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苦手だった魚介類でしたが、父との思い出のこともあり寿司だけは美味しく食べたのだという話を前回書きました。

ではそれ以外に私は、釧路では何を喜んで食べてたでしょうか?

それはずばり。
こういうものでございます。

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今や釧路のソウルフードとなった「泉屋」!

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釧路名物「鉄板スパゲティ」。

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その中でもダントツ有名な「スパカツ!」

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山盛り!

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凄まじいですね。

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ジューシィなミートソースにカツ!

こう書きますと「なーんだつまんない。ベタすぎやろ」と思うかもですが。

違います!

まだ全国に泉屋がまったく知られていない、今みたいにB級グルメとかご当時グルメとかがまったくない時代から、私達はこれらを「美味い美味い」と食べていたのです。今ありがちな「作られたご当地グルメ」ではありません!私が幼少のはるか昔から、みんな好きでこれを食べてたんです!

今振り返ってみると、釧路の街が景気がよく、大勢の人が集まっていた時代、釧路は地域随一の都会でありました。人々も洒落てて垢抜けてたし、そんな街の有志子息が通ったのが、私も通った国立小学校でした。そんな私達は、まだ他の人が魚などを主に食べてた時代に、家でも外でも「ハイカラな」洋食を食べてたんです。

上記泉屋のサンプル写真がありますね。実はスパカツだけの店ではありません。洋食レストランとして、様々なハイカラメニューもあるのです。
もちろん泉屋だけではありません。トキワグリルとか、まさに昭和洋食みたいな、いま銀座にありそうなレストランがいくつもあったんですね。そういう場所にお洒落して食べに行くのが常だったんです。

友人の家に遊びに行っても、出てくるのが自家製ピザとか、そんなハイカラメニューでしたし、我が家で出されてた食事も洋食が多かった記憶があります。私の好みに合わせたんでしょうけどね。母は看護師免許を持っており外で働いていましたので、いち早く冷凍食品を取り入れた家庭でもありましたが、それもハンバーグなどの洋食が多かったです。

こういう言い方をすると嫌味になるんだけど、当時の私達は「魚などを食べるような野蛮な人たちとは違う」という選民意識というか、田舎もんじゃねえよ、みたいなプライドを(周りのオトナから)刷り込まれてた気がするのです。それくらい当時の釧路は「都会だった」ということです。そうね、帯広なんか田舎だってバカにしてたしなあ。今じゃ信じられないけどw 

まあそういうわけなので、漁業の町ではあっても景気がよかったから他の産業も十分栄えており、漁業に依存せずにハイカラな文化を嗜むことが出来たということなのよね。


他にも釧路といえば。
東家の蕎麦。

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これもベタですが、昭和天皇が食べられた、ということもあって、ハイカラ趣味としてよく通っていた気がします。泉屋と同じく、あとから作られたグルメではなく、もともと町の人々が愛していたものです。
…というか当時は、市内の蕎麦屋って「ほぼ東家」しかなかったんだよねw
すごいよね。*1

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かしわ蕎麦。

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ざる。
そう!これが有名な釧路名物「緑の蕎麦」です。
ずっとこうなんです。
だから釧路民は「そばといえば緑色である」と思ってる人も多いです*2

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七味をかけて。
ちなみに北海道では唐辛子を「なんばん」と言いますねw

なお、東家の総本店「竹老園」子息は私の同級生でありまして、今が何代目かは知らないけど、その当主の弟になります。こんな不景気時代にハイカラ釧路の文化を引き継いでいくのは大変でしょうね。頑張って欲しいですが。


あともベタばかりなんだけど「ザンギ」。
鶏の唐揚です。
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こういうものはほんと美味しいね。

釧路で、知人の家で出された「ザンタレ」は、このザンギを元に「最近」開発された新メニューですね。なのでザンタレは「作られたグルメ」になりますが、元々はこのザンギです。

というわけで私も「最近の流行り」ザンタレが気になって、街で食べてみました。これは最近です。
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お祭りの屋台でも出てくる定番メニュー。
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結構ハイカラというか、濃いメニューばかりですよね。寒いからね。温まってこってりしたものが好きなのだろう。それがまた「子供の舌」に向いてたんやろねえ。


さて余談ですが、前述の泉屋。
スパゲティもスパカツだけじゃないです。定番イタリアンやミート、ボンゴレなどの他に「泉屋風」というのがあります。最近はもっぱらこれを食べます。スッキリ塩味というか、不思議な五目焼きみたいな味です。高校時代の私達は「余りものをぶっこんだだけじゃないのか?」などと言ってましたがw そんなことはないと思います。
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このとき10年ぶりくらいに食べたんだけど、あまりに美味しくて、これだけでビール大ジョッキ3杯飲んでしまったのよw こんな素晴らしい食べ物はないわ!と感動して帰りましたね。たぶんスパカツより美味しいです。


最後になりますが、竹老園にいるのは同級生、という話繋がりで。
実は白糠にある「やはた」らーめん。ココの店主も同級生であります。
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これは厳密には釧路ラーメンと呼んでいいのかわからないけど、その流れをくむ「細麺&醤油味」というスッキリラーメンですね。中学のとき初めて食べて「これすっごい美味い!」と思ったなあ。遊びに行くといつも昼ごはんに、おやっさん(同級生父)が出してくれたんですよ。

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30年ぶりくらいで味わった醤油味。

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2年後くらいに訪問して食べた味噌味。

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そのまた数年後に訪問して食べた塩野菜ラーメン。
そしてぎょうざ。


いかがだったでしょう。

魚の味はわからない私ですが、こうして釧路グルメは意外に楽しんでたのやね。わざわざ魚介類を食べたいと思わなかった理由がわかりましたでしょうか。

故郷を出たばかりの頃、北海道は東日本なので、東京と共通性がある「東日本味」なのかと思ってたんだけど、その後、関西〜東京〜九州といろいろ移り住んでみて「北海道味は意外に西日本と共通点がある!」と思うようになりました。少なくとも「関東の味」ではないです。

そんな気付きも、全国を渡り歩いて知れることやね。
まだまだ人生に楽しいことは残ってそうだぞ!と。


以上!

*1:暖簾分けして釧路市内のいたるところに支店がある

*2:ちなみに緑のそば元祖は「かんだやぶそば」らしい→ 
sobaweb.jp