恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

好きな対象を蔑むという「文化」~ろくでなし子先生はパンクだという話



通訳がマンコチンコ連呼!パンクだな、これは。

僕の意見としては、「猥褻かどうか」って言われたら「猥褻」という言葉は嫌だ、と応える。しかし普通に芸術としても見れるし性の対象としても見れる、両方兼ね備えたもの、というように応える。
僕ら(ら、というのは例えば友人の作曲家さんとか)は、茶化したり卑下したりせず、ごく普通のものとして、それらの行為や器官を捉える。じゅうぶんエロイし、それが何故悪いのかと思う。「猥褻」という単語には何かいやらしい響きがあるでしょ。取り扱い方の問題として蔑んでることがとても多い。それが嫌なのよ。普通に性の対象で好きだと言うことでいいじゃないの。大好きですよ、私。そういうの踏まえたうえで、もっと先に進めよ、って感じがするね。性は茶化すものじゃない、極めるものだ、と思ってるからね。

たまたまなのだけど、こないだ、その「友人の作曲家氏」と久々にゆっくり話す機会があったときに、まあちょうどASKAの話題もちょっとあったのだが、その流れで、いわゆる「業界の乱れ」についての話題になったのよね。
この話題は、その彼と出会ったばかりのころ、20年位前によーく話したことがあり、なので、今回は改めてじっくり、という感じだった。まあ結論から言うと、僕らは、そういうのが苦手で、プラス、苦手なだけではなく、そういうことを嬉々として勤しんでる人々がどうも尊敬できない、という話で終始した。別に奇麗事じゃない、僕は子どもの頃からそういうのが嫌だったし、なので彼がそう言うのも、僕と同じ感覚だろうから、僕と同じく、心の底からそう思ってるんだろうな、というのがわかる。
そんなことが苦手な彼にしろ、まあ僕もだけど、じゃあよく、そんな業界に関わってこういうことを続けてられますね、と思われるかもしれないけど、実は彼や僕は、業界と付き合い始めた年齢が遅く、なので「若造」時代がなかったので、そういうことを無理強いされることがあまりなかったから、それが救いで、なんとか付き合ってこれたのである。だから、たとえば20歳そこそこで業界入りした人などは、たっぷりそういう洗礼を受けただろうし、それが嫌じゃなければスッカリ染まってしまうだろう(逆にそうじゃない人は「付いていけなかった」ということで脱落する)。
それにしても芸事メディア関係の人種って、なんでこうも風俗好きで酒宴好きなんだろうか。いや別にね、その彼も僕もそうだけど、普通に女子好きですよ?でも周りのヒト、そのアプローチが、なぜか「下品」なんだよね、どうしてそうなるのか、未だに判らない。もっと正攻法で、恋愛していけばいいのに、そうならずに、とても即物的で下品で蔑んだような取り扱い方になるんだわ。そんでそれをまた、人前で嬉々として自慢したりするところが、ホントに困ります。業界全部が男子校なんだね、あれは。と思った。*1

まあそんな僕らですので、なし子先生の主張については、すごく共感できる部分があったのね。そもそも、好きで恩恵を受けてるくせに、その対象(まんことか女子とか)を邪険に扱う、というのは、僕はどうしても判らない感覚なのだ。好きなくせに、なんでそんなに虐げるのか、というような。そういうの、ネットでの女子ヘイトも同じですけど、好きなくせに、何を文句言ってるのか。いなくなったら困るくせに。ってずっと思ってるよ。そういうのが、女子や妻とかを全般的に邪険に扱うという風習に繋がってるんだろう。女子だけじゃない、仲がよい(と思ってる)相手を、わざと貶すとか、愚息です、みたいな卑下した言い方にもそういうの現われてて、ホントに嫌でした。
そういうのココ20年くらいで変わってきたと思うんだけどね、奥深く掘ってみたら、未だに古風な世の中なのか。。と愕然としますよね。日本てすごい国なんだなあ…。

そういえば、こういうことはホントよくあるのだけど、例えば、僕のファンだと言ってライブに来た人たちが、しかしここはこうしたほうがいい、こうするべきでは、などと意見や批判をしてくることがあるのね。やっぱりいい気分じゃないです。大きなお世話だ、ほっとけ!と、すごい憤りを感じることもある。相手の言い方や態度の問題でね。
だいたい、好きだと言いながら近寄ってきて、しかし文句言うんだよ、わけがわかんないんだよ、あの人たち。そんなに一家言あるなら、どうぞご自分で創作なさいな、と思うよね。こっちはオマエのために歌ってるんじゃねえよ、ってことです。

そう考えると、マンコはオマエのためにあるんじゃねえので、自由にさせろ、という主張も近いので、なるほどね、と思ったわけです。

最後に、こういう「表現」はアリなのか?ということですが、わたし、オノヨーコ氏好きなので、こういう「表現」に別に違和感ないのよね。たとえば、ただの林檎が掲示してあって「アートです」っていうのは、見たらただの食べ物の林檎なのだが、それを提示したと言うコンセプトが大事なのだ、という表現ね。マンコも一緒で、ただのマンコですが、それを意味合いを見つけて提示してる、ということが主張になる、ということです。何か描いたり作ったり、という風に生み出したものでなければ芸術ではない、というのは、ちょっと狭量かなあ。と、個人的には思うので、これも別に「あり」でしょ。と思う。なし子先生のことはまた書きます。

*1:そういえば余談ですけど、NGSKのサークルとかでも一緒だったもんね。あれは、日本の中央部の業界の矮小化された醜い例だっただけだろう。だから以前も 言ってたよね、悪いところを真似することはないのに、なんでこんな前時代的なミニ業界みたいなんだって。だからNGSKではすべてが「ごっこ」に見えた。 ピンキリの「キリ」のほうだけ集まった、みたいな感じ。
そういえば、暴露本元祖と言われる、ダン池田の有名な本があって、古本屋のバイト時代に詠 んだことがあるのだけど、日本の芸能界は、アメリカのショービジネスになりたかったがなりきれず悪いところだけ見習って最低である、みたいなことが書いて あったの。それがそのまま、中央→地方って置き換えられてるだけだなあ、と思ってました。しかも、これが正しい、これが業界ってもんだ、とか勘違いしてる ようなところも。なんか見てて可哀想になったなあ。沈んでいく船なのになあ。。とか思ってましたよ。

「どれだけ狂えるか」を競いあうゲーム。


Terrapin - Syd Barrett - YouTube

シドバレット。
ピンクフロイドの元リーダーで精神的に逝ってしまった方。
この表現は例えではなく、リアルにそうなってしまった方です。
実姉が語ったところによるとアスペルガーだと診断されれたとのコト。

なぜいきなりこんな動画を紹介したか、というと、まあ、自分はこうもなれない、というコンプレックスやな。ともかく自分は半端もんなので毎日がつまらないという、ためにならないお話やった。

私、音楽しようと思って東京に出てから、本当に本当にいろんな人と会いました。気が合うヒトもたまに居ましたけど、ほとんどは、散々書いた様に、旧社会的価値観のうざい人々だったりしました。そういう中でも、少しでも良心がありそうな先輩を探して、ナントカ付き合ってきました。そういうことは、そうすることで回避出来ましたが、回避できなかったものがあります。それは、真性で逝ったヒトでした。そもそも芸術関係でナントカ身を建てようと思う人は、どこかマトモでなく、一般的な規範みたいなことが当てはまりません。そのかわりみんな優秀なのですけど。僕もじゅうぶん「自分はおかしい」と思って生きてきましたが、作品の優劣だけじゃなく、「逝ってる具合」で、はるかに僕以上のレベルのヒトばかりで、ついていけなかった。
いや、自然に振舞ってれば、僕もじゅうぶん、その仲間に入れたはずです。でも僕は「自分が普通のヒトに愛されたい」という欲がかなり強くあり、そうすっと、一般人にドン引きされてしまうような、そういう人間性にはなりきれなかったんです。子どもの頃から非リアで、しかし、年上の女子などに愛玩されてた僕は、そこを唯一の生きる希望として過ごしてきました。それを、今も失いたくないのです。僕の活動の主軸は、あくまで「普通のヒトに受け入れてもらえる音楽」であって、何らかの奇形を提示して、それをネタとして味わってもらうものではないんです。
で、この動画のシドバレットのように、狂い切れなかった僕は、こういう「freaks」にすらなれなかった…というコンプレックスがあります。こういう人たちは、一般社会からはみ出してしまった一方、芸術や音楽表現を愛する人々からは、常に愛され続けました。僕は「そうですら」ない、のです。そうで「すら」とか言うと、差別してるみたいなんだが、僕はこういった経験をして、「freaks」にすらヒエラルキーがあると知りました。自分が「どれだけ狂えるか」で競ってる運動会なのです。
その競技ですら勝てなかった僕は、一般社会からははみ出している人、という意識を持ちながらも、しかし「狂った社会」には加えてもらえない、という、どこにも所属させてもらえない、とっても不安定な立場になってしまった。。
僕の中に今あるのは、「全方位的に敗北した」という意識だけです。こんなに自分は変で、普通に混ざれず生きてきたのに、しかし、普通じゃない人たちにも加えてもらえない。。どこにも所属できない。ハブなんです。人生の終了にだんだん近づいてきて、そんな、何にも成りきれず、ただなんとなく生きてしまった…。そんな現実に、いま打ちのめされています。
それはね、どんなにいい曲を書こうとも、それを褒められようとも、まったく帳消しにならない。毎日鏡を見ると、何にもなれなかったハンパな自分が、澱んだボロボロの顔で映ってるのです。

まあ、今でもこの辺の気持ちは複雑で、じゃあ以前のように非常識で非社会的だったらどうなってたか考えてみると、それはまったく今のような充実した創作活動には至ってないと思うのね。僕の場合、以前も書いたけども、一般常識とか人間性とかが良くなってきて、マトモな人間になってくるのと比例して、曲のレベルが上がってきたので、そこは本当に「音楽に救われた」と言えるわけで、そうでなければ、今ごろ、場末の飲み屋で管巻いてるおっさんになってるだけだと思う。

その辺のギャップというか、自分はすごく努力して、マトモな人間になりマトモな創作を出来るようになり、そんで嬉々として業界に縁が出来た、と思ったら、社交としてそこに参加できなかった…というのは、今もすごくわからない。実際僕は、そういうお付き合いをたくさんして、みんなには「おとなしいひとだねえ」とか「マジメなんだね」みたいなことを言われて、いやいやいやいや、全然そんなことない、と思うのだけど、そういう場でふざけるとか、ノリがよく壊れる、みたいなことが出来なかったんだよね。だから結局、ようやく自分に合う世界が見つかったかも、と思って喜んだのもつかの間で、実はぼっちだったということなんだな。それがとてもつらかった。まあそのまま、はいそうなんです、と言って、そのキャラで活きていけばよかったのかもだけど、当時は若いからさ、いや、こんなのは自分じゃない、もっとオレはロックだし!みたいなのがあるわけよ。そうすると、そういう「おとなしいキャラ」でいらせられることが、すごく不本意に感じたんだな。

私そもそも、お酒強いでしょ、そうすると、飲んでも壊れられないの。まわりは、ホント何度も言ったように、酒の席はおかしいから。飲み会なんかに行ったことあるひとは判ると思うけど、先に壊れられると、こっちはそうなれないんだよね、他人が切れてる様子を、すごい冷静に眺めてしまって、全然楽しくないことになってしまう。そういうのの連続で、結局僕は「そういう人々に比べると」普通のヒトだったんだなあ、と。その挫折感が一番大きかったよ。作品力では負けないと、当時も今も思ってるけど、それとは関係ない部分で、すごい挫折感があったんだな。全然関係ないのにね。だからぼくは「こりゃ芸人は無理だわ」と悟ったんだな。

長崎に行ったとき、あそこは中央とは離れてて全然違う土地だし、だから「違う価値観でやっていけるだろう」と思った。最初のうちは、その読みのとおりやれたんだけど、ご存知のように、徐々に中枢に近づくに連れ、エセ業界ぽいヒトが増えてきて、あとは、中央からのリターン組が徐々に増えてきたのね。そうすると、その彼らは、長崎で「東京時代のようなミニ業界」を構築する(しかも古い価値観の)。
そうすっと、僕はまたデジャブですよ、前と同じで、そういうつまらないノリや酒の席に混ざれないの。そんで、ああここでも結局「常識人では生きていけないのかあ。。。」的な絶望感が徐々に増えてきて、このまま「こんな最果ての他所の土地」で死にたくない、って思い始めた。だから「東京に戻りたい!」と思うようになったんだね。


anond.hatelabo.jp

この話はちょうどタイムリやな。と。
微妙に違うけど、僕の身に起こった現象は、これとちょっと近い。社会不適合者の集まりだから、お互いに気安いかと思ったら、その逆だった。というようなことです。そこですら、相撲で言う「まわしの取り合い」的なことがあり、もっと簡単に言えば、よりいっそう「弱肉強食」だったということです。弱肉強食だった場合、気のいいほう、優しいほうが負けになります。マイノリティどうしの主権の取り合いみたいな感じになるのですな(マウンティング)。
ただしそれは、現場にもよります。いい人たちが集まってるところは、本当に「いいところ」です。たまたまよい出会いがあって、そこに当れば幸せですが、そうでない場合も多い。そうして撤退していく。そういう例は数え切れないくらいあるでしょう。ショービジネス、あるいは言い換えれば「河原乞食」はそう甘いもんじゃない のです。

僕はそういう経験を散々して、そうじゃない世界でやってみたいと思った。「長崎は新天地だから」出来ると思った。しかし「実際出来た」が、なんらかの「商売」として拡張しようと思った場合、そこには無理が生じ、あえなく撤退した。という感じかと思う。かの地で上手くいったら、新しい価値観、即ち「弱肉強食じゃない」純粋に音楽の好みやクォリティのみで語られる世界を構築できる、などと夢のようなことを思ってたけど、無理でしたなあ。

僕が愛するのは「才能のみ」で、「人」はどうでもいいのです。「いい曲を創るヒト=いいヒト」です。そういう意味での「いいヒト」なのに、既存のシステムに収まれない(僕みたいな)せいで不遇な立場に居るヒトを「救いたい」と思った。でも難しかったなあ、ということですね。

でも、それをやったことは悔いはないの。何故なら、そういう人たちは、純粋に楽曲主義で評価するヒトなど世の中(あるいは長崎みたいな田舎)に居ない、と思い込んでたところ、僕みたいな「そういうヒト」も居る、ということを知ることができたの。そして、例え東京でも、良心ある業界の「一部」は、そういう価値観で成り立ってる、ということを知ってもらえただけでも、僕が長崎でやったこと、提示した価値観は意味があると思ってる。

前に私「歌手は辞めたんだ」と言ったけど、その気持ちは同じです。芸人みたいな「歌手というジャンル」じゃなく「普通のアーティストw」に戻りたいから、こっちに戻ってきたんだと。その意味が、ツキイチを10回くらいやってやっと自分でもわかってきた感じはあるな。


昨日たまたまタイムラインでみて思い出したのだけど「パンダの着ぐるみで歌ってギター弾く人」がいるのね。
いろんな人がツアーしながら長崎にも立ち寄るのだけど、半年に一回とか必ず来る人がいて、その一人に「北島の弟子」だったヒトもいたけど、あと有名な人では「神業 Bassの人」とかもだけど、その「着ぐるみのひと」もそうなの。
地元の人は「たまに来るサーカス」みたいな感じで楽しみにしてる。その人ら「みんな上手い」んだよね、なんだけど、そういう妙なギミックというか、着ぐるみとかでやってないと、よさが伝わらないような、これだけのレベルの人でも「着ぐるみでドサ周りなのか」と。じゃあ自分なんか「ただ歌ってる」だけなのに、まったく望み薄じゃんね。。とか思ったんだよな。

やっぱりね、田舎の人が求めてるのは「普段は見れないサーカス」だからね、ただ上手くて「いやー上手かった感動したわー」じゃダメなのよ、いや、それもありなのだけど、それは「達郎くらいのレベル」まで行って初めて納得できる。そこまでじゃない人は、例えそこそこ上手くたって、着ぐるみだったり、北島ネタで盛り上げたりする以外に、人気を維持する方法はないんだわ。そういう「芸事」の世界がなんか嫌になったの。

でも、自分の姿を振り返ってみれば、滞在してた7年でずいぶん「らしく」なったなあと思う。それはプロらしくていいコトなのかもしれないけど、僕の中ではそれは「汚れた」という風に捉えた。だから、それを身体から抜きたい、という思いでこっちに戻ってきたんだ、と。その辺はここでも以前書いた心情だったと思います。そうしてまた自分本来の姿に戻ってくる、ということね。

まあでもなかなか手ごたえはなかったなあ。インチキ芸人みたいな立ち振る舞いはなかなか抜けなかった。でも、先月のライブの時に、思い切って昔みたいな構成でやってみたら、あ、これやん??みたいな実感が少しあって「ああなるほどー、長崎渡航前はこういう感じでやってたなあ」というのを思い出したんだな。先月はよかったよ、だから。今月は来週ですが、そういう感覚をもちっと突き詰めて行きたいという感じやな。さっきも書いたけど、なんか小器用になりたくないねん、その辺にポロっと落ちてる石みたいに存在していたい、つうことやね。

色々考えていくと、オレって果たして「本当に音楽好きだったんだろうか?」と思う。大阪から東京にわざわざ行って音大まで行って、そこで一番面白かった授業は「一般教養」だったよw そこで2年間色々やって「所謂アカデミックな音楽」探求は、僕の中では終了してしまったのではないかと思う。僕のしたいことは、もっと広がっていくような音楽だった。これ以上、ココを追及してもしょうがねえな、という気持ちはあったな。職人になりたいわけではなかったんだろう。

「いろいろ判った」おかげで自分が目覚めて、それがブラック企業の理念と一緒だった、と以前 ココで 書いたが、ちゃんとした企業ではそれはまずいが、しかし音楽業界などといった職人の世界では、それは大変重要なことである。そこにあるのは絶対的な師弟制度であり、音楽「道」である。
だから、親方が欲する前に、お茶がなくなりそうなら、すかさず注ぎ足しておく、などという気遣いは当然の初歩的レベルな気遣いであり、それができない弟子は破門である。
最近「お~いお茶」というのが話題になってるけど、そういう世界を家庭にまで持ち込んだのが、当時の「おやじ」という、とてつもなく怖い人々だったのである。もちろん、時代的にはそれが普通だったのだ。しかしそういう価値観も、ちょっとずつ消えて行って「表面上」なくなってきたのが最近だと思うけど、しかし前述したような職人の世界では、未だ当然のこととして残ってるんだと思う。ずっと僕が指摘してきたような、いわゆる体育会系のノリや、飲みの席での醜態、下半身関係の下劣な取り扱い方なども、全部そこから来てると思う。僕はそういうのがホントに嫌いだったので、馴染めなかったんだ、と再三書いたけど、それでも、もし僕が、音楽が本当に好きだったら、そういうことは我慢できた(本意ではないが耐えた)のではないだろうか。しかし僕はそれが出来なかった。できなかった=そこまで音楽が好きではなかった。ということになるのではないか、と思ったりしてる。
これも、なんとすきやの社長の言い分に実に似てる。彼はこう言ってるのだ。「何故みんな頑張ってくれないのか。会社が嫌いなんだろうか。。」この発言はホントにすごい。しかし、自分のことに置き換えると、様々な前時代的封建制に耐えられなかった僕は「そこまで音楽は好きではなかったのだろう」。何故ならホントにもっと好きなら、そんな「些細なこと」は耐えられたはずだからである!ということになる。

まあそんなことは置いておいても、最近ホントに、僕は「そこまでは」音楽好きというわけではなく、前書いた様に、「オレはこれしかできねええ!」というようなこともない。続ける動機がちょっと弱いのである。

じゃあいったい何が「今の僕のモチベーションになってるか?」というと、それは「リベンジ」じゃないか、と最近思ってきてる。いや、前々から、そういうことは薄々思ってるけども、いろんなことが昇華したり、叶ったりで、成就していくなか、最後に残るモノのひとつは、この「リベンジ」ということなんじゃないか。そしてそれが遂に成就した時、最後にもうひとつが残るのだ。僕はその「ラスト・ワン」のために続けているのだ。


★関連karamandarine.hatenadiary.jp

自己流の限界と20世紀からの脱出

jbpress.ismedia.jp
コチラの記事。なんだか読んで「デジャブ感」たっぷりだった。

実は私、とってもよく似た黒歴史があります。飛鳥氏が流行ってた当時、ちょうど僕はバンドでドラムをしながら、曲自体のアレンジやレコーディングなんかを簡易的に始めてた頃でした*1
それらは独学だったのだけど、吹奏楽したり音大などに通ってるうちに身に付いた技術、それから子供の頃からたくさんの音楽を聴いて培った元々の「基本素養」がすごく役立ちました。

そんなある日、友人が「結婚式で仲間内でアカペラをやりたいからアレンジしてくれないか」と言ってきました。その曲が、なななんと「SAY YES」だったのですな。

正直「嫌でした」し「面倒だな」と思いましたけど、旧友の頼みだったし、「アレンジに興味」もあったし「何事も経験」だし、と思って請けたんです。
そうして、その曲を何度も聴きコードを分析、コーラスアレンジを付けていきました。相手の希望としては、必ずしも「オリジナルどおりのコーラスじゃなくていい」ということだったのだけど、まあせっかくなら原曲を活かそうと思ってヴォイッシングとかもコピーしたのね。
そしたら「この伊東先生の記事の言うとおり」すんごく!独特のコーラスなの。「なんだいこれ??」と思いながらもコピーしまして、アカペラのアレンジが出来た。パートをみんなに憶えてもらうため、ということで「僕が全部自分ひとりで多重録音したアカペラデモ」を創りました。
友人に聴かせて「どう?」って言ったところ「この変なコーラスはなに??」と訊くから「これはオリジナルがそうなってるんだよ」と答え「変ならやめてもいいのでは?」と言った。彼は「そうね、みんな覚えられないしこれはやめよう」ってなりました。そして若干修正し、リードヴォーカル部分を友人の歌で差し替えて(その場でレコーディング)デモは完成した。

話はこれで終わりじゃないの。その後その友人が再びやってきまして「前回のアカペラは大好評だった!また結婚式があるので新しいのをアレンジしてくれないか?」と言って来た。それが、ななななななんと!!!!「始まりはいつも雨」だよwww オマエどんだけ飛鳥好きなんだよ?って思ったけど、というか「当時の大ヒット曲」だし、流行ってたのと話題性だよね、結婚式でやったら大受けでしょう。

まあそういうわけで、何の因果か、また飛鳥先生の曲を分析してアレンジすることになったの。これも変だったなあ。伊東先生の言うとおり「普通に音楽聴いて教育受けてたら」こんな変なことしないの。当時の僕は、もっともっと「ちゃんとした音楽」を学びたかったので、こういう「余計なもの*2」を耳に入れてたら「自分の感覚がおかしくなるわ」と思ったね。なので「彼の曲はこれ限りにしてくれ」と条件つけて、この依頼を請けました。

前回と同じように、コード分析してハモリつけてアカペラアレンジした。たぶん「自分流にコーラスは治した」はずです。だって「嫌だった」んだもん、オリジナルがw まあでも喜んでもらえたよ。いい仕事だったね。

その後、彼はもう一度、依頼に来るんだけど、そのときは「愛の賛歌」だったw おもしろいやつだったなあ(遠目)。


というわけで、伊東先生のエントリ読んだ時「ああそうそう!オレとまったく同じこと思ったわけかー!」と感動したよ。でもね、伊東先生は「何がしかの感慨」があったようだけど、僕は2曲のアレンジをして思ったのは「こういうやり方をしてたんでは長続きしない、必ず壁にぶつかる、早晩行き詰る、そのとき飛鳥はどうするんだろうなあ。。」ということだった。
我流でやってても「上手く行くのは数回」でしょ。ビギナーズラックで。「その後はどうするの?これ」って思ったんだよな。
そんで僕は、この経験を「反面教師」にしたの。自分はその轍は踏まない、しっかり基本を学んで身体に取り込んでいこう!っていう決意が湧いたのね。それが僕の90年代後半の展開の際の「基本体力になった」んだと思ってる。
もともと子どもの頃からセサミストリートやクラシックの音楽全集で「基本的な音感は身体に入ってた」んだと思うけど、その後も「道を外れずに」しっかり外しのない製作を続けられたのは、この時の経験があるからだよ。

この話は今までしたことなかった気がするなあ。こうやって回想していくとさ、その後なんで「彼の事務所に行かなかったんだ?*3」とかの疑問が解決するでしょ?
当時の僕は「まだまだ中途半端」で、音楽的欲求は「もっともっと」と望んで求めてたの。…「もっと?」なんだろう。。「美しさ」「高み」「完成度」いろいろあるけど、ひっくるめてすべてでしょ。
「胸を借りる」という言い方があるけど、彼の門下では「そうならない」と思ってたんだろうね。こんなところで落ち着いてる場合じゃない、まだまだ知りたいことは山のようにある。と。そんな感じで。いろいろ懐かしく「蒼い自分」を思い出だすなあ。


そうして、この続きが「まっすぐな aiko スイッチ」になるわけだね*4

そうなのよ。今思うと当時の私。「まだ!」aikoも林檎も聴いてなかったんだぜ??!!って気付いて、愕然としたわね。

今の自分の音楽活動のこと考えると あいこも林檎も聴いてない自分なんか「まったく」想像も出来ない し、そもそも「何も出来てない可能性」だってある。
もうね「全然!違う人間と言ってもいい」。自分の音楽歴の中での「あいこ以前と以後」は「まったく別な人間」ですね。

だからね、やっぱりよかったわけですよ。お誘いを遠慮したのは。あの時点で「上がり」になったら「今の人生ない」ですよ。
あの時点で「いや、今は上がりじゃない、もっともっと何かある、もっともっと求めたい、探したい、見つけたい!」と思ってたわけだよね。違うんだ!と。「まだ見つけていない宝物があるはずなんだ」と。

そしてそれは見事叶ったのよ。そのことが、上に貼ったあいこの文章、それから同じダイアリのトップにある「林檎の文章」に書いてあるのね。すばらしいよねw

*1:その頃にやったのがこれ。
d.hatena.ne.jp

*2:など ないよねー。じゃなくてw

*3:1998年に彼の所属事務所と少し関わったことがある

*4:d.hatena.ne.jp