コチラのエントリを読んで思ったこと。
散々書いてるように自分は「大人に好かれなかった子ども」だったから、「いい教師」に出会ったこともほぼない。「学校の授業で何かを教わった」という記憶もなく、逆に「教師の浅さをバカにした態度」だったから、ものすごく敵視された。「教師なんかアホ」だと思ってたもんなあ。
この認識が改まったのが中3の時、受験用に「カテキョさん」付けたとき。市内高校の教師だった人なのだが、学校の先生とは違い、しっかりシステム化されてて効率よく解りやすく、僕は彼のおかげで「あっという間に成績が倍くらい」になった。世の中にはプロというのはいるもんなんだなあと思ったものだわ。
その後も似たようなことは続いて、音大に行ったけど、そこの有名教授が「超絶パワハラ野郎(日野に酷似)」で、そのうえ「別に上手くもなかった」ので、コッチはずっとナメた態度で反抗し続け、結局破門になった。
だから自分も上達できなかったわけだが、それが変わったのが、いつも言ってるように「キャバレーのハコバン」だったわけで、いま思えば、そこの「バンマスも現場主義のプロ」だったのよね。
いま思えば自分は「学校という場所で教育される」ということが「とっても向いていなかった」。だからさっさと「世の中のプロ」と接して「システム化されたような教育」を受けたほうがよかったのだな。
この辺のことを思い返すと、こないだ書いた「チェーン店がいい」という話につながってくると思った*1。
感情ではない の。システムなのよ。ある種のタイプには「そういうガッツリしたシステムじゃないとムリ」なのだと。空気嫁とか忖度とか、そういうの最も苦手だったんだろうなと思ったな。
破門話の補足。
自分はその師範に「直接弟子入りしたわけじゃない」。音大に行ったら「その人が学科の代表だった」ということに過ぎない。しかし厄介だったのは、そこの教授だったのと同時に「打楽器界の大御所でもあった」という点なのだ*2。
あとから破門の話をいろんな人にしたら「あなたはお金を払って大学に行ったのに、相手が辞めろなんていう権利はまったくないのでは??」と言われた。そう言われればそうなのだ。「業界の大御所に弟子入りした」と考えるから破門もありと思ったが、よく考えたら双方の立場は「一介の大学教授とその学生」に過ぎなくて「そんなこと言う権利あるのか?」と、あとから思い返して憤りを感じたこともある。
音楽って、例えば落語とか歌舞伎とかみたいに「弟子入りと師範」みたいな関係がある一方で、そういうのとは違う「マニュアル化されたメソッド」みたいなものでも出来るもの でもある。
落語や歌舞伎や、他の古典芸能とか、そういうので「破門や!」みたいなことはあると思うけど、こと 音楽ではどうだろう?
日野皓正氏や「この師範」のようなこと言える立場なんだろうか?って今でも思うね。そのヒントが例の「セッション」という映画の中にあるんじゃないか。そう思う。
★関連karamandarine.hatenadiary.jp