恋する段差ダンサー

ハイクの「下書き」をまとめて記事にしています。

判ってほしかったら相手の言語で話す。

私が敬愛する「天使」のようなアーティストさんの20周年ライブを見ましたの。

ライブを見た感想については、同じ方のライブを6月に札幌で観たあと「このことについては決してヒトに話さない」と決めたので今回も言及しませんが、素晴らしかったのはもちろんですが、MCで「他人にわかるように説明できる能力」について語っていたのが印象的だった。音楽業界時代や、その後「札幌という地方都市」に戻ってからも、いろいろご苦労されたそう*1

そういえばそれ、ちょっと前に僕もどこかで書いたはずだったなあと思いまして。

説明能力がないくせに「他人は判ってくれない」とか言ってる「自称芸術家」は、やがて居場所なくなるだろう、そんな偏屈野郎は田舎にたくさんいる、と。そうなってしまうのを回避するため僕はコッチに戻ってきたんだと。

そういえばそんな話、先日の長崎でもしたなあ。2年の空白のあと、また理想的な関係が再構築される気配があるけど、それはこの2年で「僕もまた」首都圏仕様に戻ってきたということなんだろう。
 

「オイコノミア」テーマは障害を見つめなおす。耳の不自由な生徒達の中に入った、手話の出来ない又吉は、ある意味障害者だったと。「障害は個人が持っているものと思われがちですが、多数派・少数派という視点で見ると社会が作っているとも言えます」。(ミスターK on Twitter)


この感覚ね。
僕や小國氏が長崎で孤立していった感覚を思い出す。

圧倒的に「普通の人が多い」地方の音楽環境では「プロい感覚や耳を持ってるほうがマイノリティ」で、自分らのほうが「相手に理解されない立場」にあったのではないかと思う。
小國氏や(それに影響された)当時の僕は「こっちのほうがプロとして普通で当たり前だ!!」と強く主張し続け、相手のことを理解しようとしたり聞く耳を持たなかったのだと思う。

この「こっちが当たり前なんだからこっちに合わせて当然」という感覚は誰しも陥りがちで、僕も過去には経験あったし危険性はわかってたんだけど、結局そうなってしまった、という「残念な晩年(韻を踏んでいます)」だったのね。

前も書いたけど「相手にわかってほしかったら、相手が分かる言葉で話すべき」で、「こっちに合わせるのが当然」というのは、いま「老害」と言われてるものの本質のひとつだろうと思う。

*1:どこかで聴いたことのあるような話w