恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

カバーするなら「ちゃんと」しろ。

カバーとかするとき「これは自分流だからコードも適当でいいんだ」とか言ってると、いつまでも「必然」という概念を習得しないままに終わる。
なんでそうなってる?こっちでもよくね?というものについて「そうなってる理由を探っていく」というのが最も勉強になりセンスも磨かれていくことだからね。自分流になるのは、そういうセンスが身についてからの後でも出来ることなのだよ。
…ということを、(去年の12月ころ)某プロミュージシャンの酷いカバー作を聴いて思いました(ほんと彼って音感ないよねーw)。

すごいたくさん音楽を聞いてて歌も上手いのに、変な音感の曲しか作れないヒトって「なんなんだろう??」って、ずーっと疑問に思ってたんだけど、やっとわかった。
「ちゃんとコピーしてない」からだ。なるほどなあ。たくさん聴いてても、コピーして歌うとき適当にやってれば、それは身につかないわよね。。あー。。

 

karamandarine.hatenadiary.jp

 前にこういう記事書いたけど。

去年から今年にかけて、たくさん若いアーティストのライブ観たでしょ。私それまで、少ない自分の鑑賞経験で「若い子はコードや音感も適当だから、きっと変な音感の曲ばかりなんやろな。。でもそれがいいと思えないと新しい時代に着いて行けないから頑張って聴いてみよう」的に、半ば修行のつもりでライブ巡りを始めたの。

そしたら!とんでもねえ、ですよ。

みんな素晴らしく完成度の高い楽曲をどかどか繰り出してきまして、どの子もスバラしいわけです。適当だとかとんでもねえ!まったくそんなことねえ!それどころか、こっちが改めて勉強になることばかりで。

そんで、今まで思ってた「若い子は適当だから」みたいなのは完全に偏見だとわかった。そして。それが当てはまってたのは、その個人にすぎなかった、ということだったのね。たった一人の事例を見て、若い子全部に当てはめていた

…これは長崎での経験もあったと思うのよ。
つまり、あそこでは「実力ないのに変な飛び道具で人気がある」という事例を沢山見ていたので、人気がある=本当に実力がある、という正統な常識をすっかり失念していたのね。
今回のライブめぐりでは、それを思い出すことが出来た。みんなちゃんとしてる。たくさんのファンが付いている。そしてそれには理由がある。そういう「非常にまっとうな成り立ちだった」というのが非常に嬉しかったです。

だから逆に、今の自分の立場がショボいと自覚症状ある場合は「普通に実力不足」なんだと思ってそれが正解で、他の要素なんかなにもない。「ともかく王道でいくしかないんや」ということを改めて気づかせてくれて本当によかったなと。うん。がんばるわ。


適当なコピーするヒトって、その姿勢もさることながら「気持ち悪くないの????」ってすごく思うんですけど、どうなんでしょう。耳的な意味で。

ちょっと前までは「若者の新概念ではそういうのは既にどうでもいいのだ」と勝手に思ってたけど、全然そんなことはなかった。
既成概念や形式に縛られていることは「自由じゃない!」って敬遠しがちなんだけど、実際はそうじゃない、逆で「自由になっていくんだ」ってことは、90年代の僕自身が実体験したんだから、きっと「マトモな」若者アーティストもみんな同じように思ってるはずだなって思った。

「自分の活動を他人にどうこう言われたくない」というのは、僕も思ってたことだから気持ちはわかるけどね。
しかし例えば(何度も例に出してスマンが)日向文さんみたいなヒトもそういうキャラぽいけども、でも「彼女の音楽はすごくまっとうだった」もの。彼女くらいのランクに自分が至って「自分の活動だからとやかく言われたくない」というのは、すごくわかるけども、出来損ないの人が「好きにさせろ」って言ったって「それ雑音だからかんべんしてくれませんか?」ってなるだけじゃないかなあと改めて思ったな。

で、そんな輩とばかり対峙しなくてはならなかった長崎を離れられて、本当によかったなと思ってます。ははは…。(*_*)

これって最近よく話している「外見に恵まれた人はファッション努力を怠りがち」というのと似とるんやな。さほど努力せずとも周囲に認められるから、何かを研究したり習得したりというクセが身に付かないっていう。

歌とかも同じなのよ。声がいいから、上手かったから(既成の曲が)スルッと認められてしまった、珍しい楽器を演奏してたからそれだけで重宝された、歌詞に説得力があったのでそれだけで受けてしまった、みたいな体験を10代からしてると、そこから突っ込んだ努力はしなくなってしまう。だから、いつまでも同じ所をグルグル。音感も治らない、派手なだけで実力が伴わない、自作の曲がちっとも向上しない、みたいなことでしょう。

まあね、一芸に秀でてるのはいいことなんだけど、その扱い方を誤ると、というか、それは「扱ってない」という言い方が正しい気がするけど、ともかく、そんな簡単じゃものじゃねえよ、と思うのですわ。

…まあ自戒を込めてです。私も頑張らないと。という意思表明。

 

★自分の中で「カバー」の概念が変わったデュオとの出会い

たまたまさっき、あっちに移住したばかりのころによくライブに行ってた博多の男女デュオさんのライブ音源、10年ぶりくらいに聴いたのだけど*1、本当にこの方たちは上手くて、やっぱり長崎と博多は違うわな…としみじみ思って、なんつか、そもそも 頑張りや努力の方向 が「長崎の人と博多の人では違ってて」それが、不思議な事に、現地にいる時だけじゃなくて(長崎から)上京後も変わらない人が多くてw なんか切ないなあと思った。

このデュオはほぼカバーしかしないのです。

で、基本的に私それまで「カバー歌う人は聴かなかった」のですよ。カバーなんかつまらないじゃん。なんでするの?って思ってたのね。

ところが、このデュオだけは不思議に聴いたのです。これはワタシ的に、目から鱗的な出来事でして「こういう」カバーなら聴けるんだ!!!って、なんか価値観ひっくり返るほどの出来事だったんやな。

おそらくこのお二方、まずすごく耳がいい。そして音楽に対して真摯なんやな。まずは完コピして、その後に自分流にアレンジしている。それが「聴いててわかる」わけです。コピーは適当にして、あとはオリジナル味付けに逃げる*2、みたいなことを一切しない。カバー中心!と決めてるから潔いわけです。へ〜って思ってね。それが今回10年ぶりに聴き返して、やっぱり当時と同じことを思ったので、ああ僕の中の価値観は変わってないわ、大丈夫だわって思ったな。

10年ぶりに聴いたキッカケは、先日久々にFBでメンバー*3と話したからです。その節はいろいろあったですね、でもとてもよい出会いでご縁でしたね、というような。

こういう方が普通に存在してるんやな。博多も都会ですよ。長崎から 2時間弱くらい片道3千円くらいしたけど、当時、通ってよかったなと改めて思った。

 

★もったいないヒトとは

1月だったかな。長崎出張行った時、知り合いのバーに行って、そこのマスターといろいろ話したのだけど、すごい素質があって期待されてたのに、上手く発揮できなかった人に対して「惜しい、もったいない」っていうのは実は一番傷つくんだって。

その時の話は、10代から「すごい上手い、こいつは絶対プロになる」と周りから思われてたドラマーの人が、結局その後伸び悩みパッとしなかった、という話題からだった。
僕もその彼のことは好きだったんだけど、いろいろと惜しい人で「もうちょっとこうしたらもっと違ったのにねえ…」と僕が言ったら、マスターが「自分も同じ気持ではあるが、しかしそれを惜しいもったいない、っていうのは、それは違うんだ」って。
その「惜しいもったいない」という部分をなんとか出来なかったからこそ 「何にもなれなかった」んだからって。だから周りの僕らはそういうこと言っちゃダメなんだって。なんか考えさせられる話だったよな。

そういう話をして、そうだな僕の周りにもたくさんもったいない人はいたな、でも「そこ止まりなのはそれも才能だから」って。
こっちが何か言ったら、そこが改善されて、次のステージに上がれるのか、といえば、別にそんなことはないんだよね。そういうのは、この20年、散々あったことだった。それが長崎であろうと別に変わらない。むしろ、既に地元ヒーローとして固まってしまってる人が、そんなこと言われても、今更変わっていくはずはないのだった。

そこのバー、大学生バンドのイベントをよくやってる場所で、僕はこっちリターン直前のラスト1年くらいの時に知った店だった。もっと早く知っていれば、もうちょっとあの土地で落ち着けたかもしれないなと少し思ったけどね。

惜しい人がいるってことは、全然「惜しくない人」もいるってことで、それよりは全然いいわけですけど、観るぶんには実は「惜しくない人」のほうが逆に気楽な面もある。つまりこっちは何も考えずに済むからです。

まあ例えば「アイドル」とかも下手だけど、それは別に「最初から下手なものだし、そういう芸なので」と思って楽しんで見れるわけだけど、「惜しい人」を見ると「あーなんでこうなるかなあ…もったいないなあ。こうすればいいのになあ」とかいろいろ考えてしまって、そういうアイディアを自分に活かせてるうちはまだいいけど、だんだんそれが積み重なるとスゴい苛々してきて病んでくるんだよな。
なんか常に周りを棘で囲まれてるみたいな。もっとこう「着心地いい服、着たいんですけどっ!?」ってなる。僕がときどき博多に逃げていたのは、そういうことだよね。気楽に等身大で過ごしたかった。ということやな。

まあ長崎もまだ幸せなほうだよ。なぜなら博多が近いからね。もっと奥地に住んでる人は、ホント大変だろうと思う。いや、たぶん「大変だ」ってことすら気付けないまま、なんだか気持ち悪い毎日だと思って過ごすんだろうね。

まあ結局のところ、殆どの人は「自分が好きで得意なことしかしない」のだから、よほどの強い意志でもない限り、そこを堂々めぐりすることになるんだな。「派手なオカズが好きなドラマーはそればかりやる」し「歌うのが好きな歌手は曲作りの研究もせず、ただ歌い続けるだけ」だ。

むかし坂本龍一氏が「楽器の練習はスポーツと似たところがあり、肉体を動かしてキモチイというアドレナリンに騙されて上達できない場合も多い」と言ってたのを聴き「ああなるほどなあ」と納得したのを覚えている。まあでも「気持よくないと続かないのは事実」だから「そこをコントロールしつつ、ちゃんと上達するのは、やっぱり才能」なのではないかなあと思ったりもする。
その辺の配分について「もっとこうすればいいのに…」とこっちが思ってしまうことが、つまり「もったいない、惜しい」ということになるんやろな。

 

★「変な音楽」と「足りない音楽」は違う

そういえば 3年前くらい、知り合い女子が出たライブ下北で観たのですが、そのときは、所謂「変な音楽」ばかりする若者がたくさん出てました。コードも進行も突飛で、しかし「それがまたセンスがある」ので実に面白かったなあ。

私ふざけた音楽とか大好きなので「センスがある変な音楽」は大好きなのですよ。むしろ「既成概念に縛られない新しい概念が出ないかなあ」と常に願ってる部分がある。
そういう音楽と「明らかに知識が足らずに欠損している音楽」というのは違うんです。突飛なことが出来ない凡人は「デッサントレースから入っていく以外にない」んだってことやろね。

その時の出演者はみんな「変でありながら、自分ならではの処理がすごく上手く」これは敵わないなあと思ったな。

その時の話で、面白い出来事があった。そういうヘンテコな20歳前後数名男女が出たあと、ラストのトリにアラサーと思われる男子が出てきたのですが、いきなりステージ上で「今日の今までの出演の奴らにさあ。ちょっと言いたいんだけどさあ。。」と説教を始めた、という事案が発生。内容は精神論、ライブをする心構えみたいな「今は昭和でしょうか、あなた長渕かよ?」みたいなことを、実に偉そうに語っていたのです。
そうして一通り説教が終わったあと演奏を開始したのですが、それがまた本当に「長渕の出来損ないみたいな音楽」で、そのうえ実に下手でして。「こんな清々しいブーメランは 20年ぶりくらいに観た!」みたいな感動でした。

で、それを受けた他の20代タイバンメンバー。その後も、その件について一切誰も言及しないw みんなオトナw そこは昔と違うんやね。

その日はその後、オールで打ち上げやって僕も朝までいたんだけど、普通に楽しく終わりました。なかなか稀有な経験やったなあ。と。

*1:milky note さん


milky note - Don't Let Me Be Lonely Tonight

*2:いわゆるメシマズになる料理の根本原因

*3:ギター川上さん→ギタリストぽんきちのブログ