恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

ブラック吹奏楽 〜 人の心を動かすものとは。

響けユーフォニアムというアニメが放映され、世の吹奏楽な人々が盛り上がっていた2015年。私もそれに感化され、自分の高校時代の吹部活動を振り返ることになりました。だがしかし、それは辛く暗い黒歴史でもあったと。そんな思いを4ヶ月間に渡って書き続けたハイク記事をココでまとめます。これも長いので覚悟せよ。(前編はこちら→)*1


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近所の中学の吹奏楽部の音がする。
うちの近所は中高がたくさんあり、どこでも吹奏楽の音がする。未だに盛んなんですなあ。感慨深いです。

僕の「楽しい」吹奏楽の思い出というと、やっぱり中学になる。ブリキやバルブオイルの匂い、金色の楽器とか、どれもキラキラした思い出ばかりだった。その頃は完全に娯楽だったもんね。コンクールも出たけど、参加しただけ。もちろん努力はしたけど、無理しようなんて思ってなかった。だから、全員が友達だったし、恋愛模様もあったし、お互いに認め合ってたし、青春だったなと思う。

それが 高校に行って一変する んだよね*2。軍隊みたいになって、ちっとも楽しくない。しかもお互いが敵みたいな感覚ね。で、音楽的素養がオレより劣ってますよね?みたいな輩が威張って牛耳ってる。こんな理不尽なことはないと思った(ちなみに指導者の先生は居なかった。学生指揮者。後述)。
今でも思ってるけど、中学時代の仲間はみんな、僕のことは理解してくれてた印象がある。やっぱりそれは、似た感覚の人が集まってたからだと思う。育ちがいいから舌が肥えてる的なことです。それが高校時代に変わってしまったというのは、そういう「階級」の変化があったんだと思うんだよね。
今思い返すと、その感覚って「就職したとき」みたいなのと似ている。人間が「使えるか使えないか」で選別され、戦士みたいに鍛えあげられ、目的に向かって一心不乱、っていうのは、まさに日本企業であり軍隊でもある、と。それのプロトタイプが高校の時の部活だったんだな。
僕は、管楽器がうまくなる、ということにさほど興味がなかったので、上達しなかったんだよ。だから「使えない」チームに分類され迫害されました。それでも支えてくれた少数の仲間は「楽器はうまくないが素養はある」ことを認めてくれてた」人だと思ってる。僕の復讐心は高校時代に生まれたものだから、まさにそういう環境だったんだろう*3
みんな頭よかったのにね…。そういうことは理解できないのねえ。まあ、戦争だって、すごく頭のいい人が起こすんだもんね。頭のいい悪いって関係ないね。
 
高校の部活について面白いことを思い出した。
僕らの区域では全国大会常連の強豪校*4がいて、そこに絶対に勝てなかったのが僕らの高校だった。おもしろいことに、部の先輩や同期の人々がみんな、その高校の演奏を指して「完璧だけど心が入ってない」「感動させる演奏なら自分たちが上」みたいなこと言ってたんですよ!
おいおいおい、って感じでしょ。今思えば、実際には僕らの高校も一緒じゃん、ということなんですけど。さらに言えば、これらの発言は「なりそこないのアンドロイド」が「完全なアンドロイド」に嫉妬して悪く言ってたにすぎないんだよね。まあ、こっちの部活内が統一されてなかった、ということでもあるけど、そういう迷いがあるから、あっちの高校に永遠に勝てなかったんだろうとは思うけど。
今ならどう思うかなあ。素直にあっちの高校が上手いと思うんじゃないかと思います。そこはもう僕の耳も完全に「プロ耳」だもんねえ。御託並べてちっとも上手くない、うちの高校なんか「ケッ」と思うと思う。笑。
部活って練習だけじゃなくて、行事も強制参加させられるからねえ。ボーリング大会だの遠足だのカラオケだのそういうどうでもいいやつ。上級生になってからは少し楽だったけど、それは選択の自由が(少し)あるからで、下級生のうちは強制なので、ホントに苦痛。こういうところも会社と一緒ね。
ほんとに上手くなりたいなら、そんなことせんで練習だけすればいいじゃん。だから勝てないんだろw
 

引き続き。

部活のことを色々考えるきっかけを頂いて感謝しております。笑。
実は私、最後のコンクール(高3)には出場しなかったのです。ちょっとした問題が起こり、学校から出場停止を食らったのですね。もちろん自分の責任なのでしょうがないと思ってたし、別に僕一人が出なくても、代役を立てて大丈夫だろうと思ってたので気楽に考えてた。ところがね、事実はそうではなかったのよ。既に僕の立場は代替不可能となっており、誰も替わりが務まらなかったの。まあ唯一の3年パーカッション奏者がいなくなるのだから、今考えると影響は大きいとわかるけど、当時はわからなかった。
これもずっと一貫した考えでね、「僕が出来る程度のことは、代わりの人間もすぐ習得できるから大丈夫」と思ってたわけ。今と変わらないんですよ。
当時から僕は「自分という存在の特別性」をわかっていなかった。「僕が出来たんだから君にだって出来るよ」という具合に、気軽な気持ちで後輩に代役を任せてしまった。結果的にその代役が大失敗し惨敗(でも強豪校うまかったので僕じゃなくとも勝てなかったと思う)。
部活の、特に3年は全員号泣してたね。その時に初めて「この人達にとってコンクールってものは、これほどまでも重要な事だったんだ…」と初めて理解した。ほんとに甲子園と同じなんだね。

この事については僕もずいぶんトラウマになったけど、ちょっとここ最近これ考えてて、実はコレって「無意識のサボタージュ」だったのではないか、と思ったのよ。先輩や同期から当初邪険に扱われ、パートを散々移動させられて結果的に閑職扱いのパーカッションに回され、しかしそこで才能を発揮し、僕の重要度がみんなにやっと知れ渡ったところで、一番大事なときにボイコットする、という「仕返し」をしたのだと気づいたわけ。日頃から僕を大事に扱わないから、肝心なときに裏切ってやった、ということでしょ。これは。今頃オレの重要性に気づいてもおせえんだよ、ってことですね。
あとは、前に書いたけど部活をアンドロイド派閥の連中の思い通りにさせたくなかった、ということもある。そこまで戦略的なら、この僕を説得して落とすことは何故しなかったんでしょうね。できなかったんでしょ。事実、僕は説得されなかった。最後まで逆らい、重要なミッションを失敗に終わらせた。僕を甘く見た結果だと、今はそうわかる。そういう詰めの甘さが強豪校に永遠に敵わないという「永遠の2番手」ということなのだし、部としての目標を設定すれば誰でも無言でついてくる、と思ったら大間違いだよ、ブラック企業じゃねえんだよ、ということでもある。*5

コレに味をしめたのか、僕はこの後も自分の唯一無二な立場を時々利用した。僕がいなくなったら困るだろう、という状況の時に、立場を利用して「無理を通す」ということを時々やった。僕のゴキゲンを取らないとボイコットしますよ?みたいなことを平気でやりましたね。まあ、クズですけどw そうなったのは自分を大切にしなかった親や周りの責任もあるだろうって思ってたので、悪い事してるっていう意識はなかった。当然の権利の主張だと思ってたね。

90年代にキャバレーの経験の後、僕が変わったのは、こういう意識の部分でもある。自分の意見やわがままを通すとき、そういうひどいやりかたで無理を通すのではなく、もっと正当なやりかたでしなければオトナとはいえない、ということを学んだわけ。そういう意識や性格が矯正されてきて初めて僕は、次のステージに上がれた。こういう経験があるので、僕は今でも「楽器の上達に大事なのは性格」と言うんですね。今もそう思ってるよ。ちゃんと練習してるのにもかかわらず、いつまでも下手なまま上達しない奴は、性格に問題があるんだ、と。その持論は今も変わってないな。

 

そうそう。話がちょっとずれますが「無意識のサボタージュだったんじゃないか」と感づいたのは、ポール・マッカートニーの長大伝記本を読んでた時だった。
ファンには有名な出来事だが、今の人があまり知らない大事件。80年に初来日した時、ポールのボストンバッグの中から大量の大麻が発見され(ものすごく分かりやすい場所に入っていた)、そのまま成田空港で逮捕されてしまった。10日間拘留されて国外退去。売るためではなく自分が吸うために持ってきたので不起訴、という意味不明な理由だったけど、まあその時点で彼は英国の「Sir」の地位にあったので、国内で裁判まで持っていくのは難しかったでしょうね。ろくでなし子先生とはずいぶん違いますねw

まあそれで、ライブしに来たのにそんなマヌケな理由で逮捕されてさあ、と情けない気分になったけど、肝心のその動機については全然語られてなかったし、考察もされてなかった。ただポールはマヌケ、ということで終わってた。
で、その伝記本の中で、ちょっとだけ語られてたわけです。大雑把に書きますと「当時 9年続いたバンド(Wings)が重荷になっていた。リハも上手く行かず、自分が考えるレベルの演奏ができそうになかった。心の奥底で、この公演が中止になればいいかも、バンドもポシャればいいかも、などと考えていたところもあったかもしれない。日本は麻薬に厳しいと知ってたが、そんなことを思いつつなんとなく大麻をバッグに入れて来てしまった。」みたいな感じ。
つまり、無意識のうちに「ポシャってしまえばいい」という気持ちがあり、もちろん入国管理ゲートですり抜けられればそのままライブ出来ただろうけど、見つかったら見つかったで、それも面白いかも、みたいに考えてたということがわかる(ただ本人としては逮捕監禁までは考えてなかったと思う)。

 

コレを読んだ時、自分が最後のコンクールに出られなかった経緯を思い出したのね。担任から「あなた出場できないかもですよ?」と言われた時、それはやばいと思った反面「それも面白いかも」と思ったのも事実だったのです。担任に警告された時に、実はそれを回避することもできたんですよ。でもその処置を取らずに放置して、そのまま「出られません」という最終通達まで放っておいたのは、心のなかで「これポシャったら面白いな」って考えてたってことなんですよ。当時の自分はプライベートでいろいろあって、かなり捨て鉢になってましたからね。ああ、それならそれで僕はかまいません、的に思ってたんだよね。
僕はそんな感じでノンキだったけどね、ところが周りは大変なのよ。だから「えっ??」って思った。僕のことなんかどうでもいいんじゃなかったの?何そんなに慌ててるの??みたいな感じです。そして、コンクール終了後にみんなが号泣してるのをみて初めて「実は大変なことをやらかしたのかもしれん…」と思ったという。
さっき期せずして「この人達にとってコンクールはすごく重要な事だった」と書いた。「僕らにとって」ではない。僕は部活に所属していながら、部員と僕は違う人達、という考えがずっとあった。泣いてる部員たちを見ながら、他人ごとだったのは、そういうことだった。この「何事にも他人ごと」という僕の習性は、今後もずっと変わらなかったね。何をやってても「当事者意識が薄い」のよね。これが矯正されるのがキャバレー以後。そこで初めて、自分も音楽に参加している構成メンバーである、という意識を持ったの。「責任感」という感覚を「発見」したわけだね。

 

思うに、僕にしろポールにしろ「ちゃんとした逃げ方を知らなかった」と今なら言える。僕のことはさておきポールも?と思うかもだけど、実は彼の意味深な発言が残ってる。初めて自分のバンドを組んだので、それをどう始末していいかわからなかったらしい。知らないうちに重くなってしまったんだな。
この事件で、ポールってホントに(ジョンやジョージと比べて)アホなんですね、ということで世評は収まった。特に公演を楽しみにしてた人はそうでも言ってないとやってらんなかったでしょうね。

これは損したように見えて、実は得してるんだよね。なぜなら本当の理由を言わずに済んだからさ。本当の理由(バンドがお荷物になった)なんか言えないもんね。だから、あえて「アホである」というほうを受け入れたんでしょうね。

僕も 3年の事件の時「本当にお前はアホだな」と周りの全員から呆れられた。それでよかったんだよ。まさか本当の理由は言えなかったから。そうしてあえて愚鈍を装うことで、責任を軽くするという知恵ですよね。
こういうことよくあると思う。ここまで重大じゃないにしろ、例えば嫌々やってて気が進まない集まりに遅刻とかする時「うっかりさん」を演じてたほうが、本音を言うよりいいでしょう。そういうのも無意識のサボタージュなんだと思う(なので私、時間にルーズな人を昔は許さなかった。やる気が無いという無意識の表明だと思ってたからだ)。

僕はその後もしばらくそうやってアホで軽率な人で居続けた。見抜いてた人もいたかもだけど、まあそれで楽しく生きたよ。その裏でしっかりいろいろ準備はしてました。そうして準備ができた時、一気に縁を切って船橋に越して新しいことを始めたってことですね。そこでキャラも一気に変えた。部活にも吹奏楽関係にも顔を出さなくなった。そうして本当の自分がやりたいことをするようになると、自然に遅刻とかルーズなところも治ったね。

3年のコンクールに出られなかったことについて、僕はずいぶん長い間、責任を感じてたし、トラウマになってたし、申し訳なかった、という思いがずっと心を占めていたけど、最近になってやっと、イヤそんなことないんだ、不本意なら異を唱えて、辞めたり不参加でもよかったんだ、と、思えるようになった。
ブラック企業でも何でも、逃げたら負け、などという根性論で、ムリクリ耐えて心を壊すことはないんだ、とね。たしかに無責任だったかもだけど、僕にそうさせた相手側にも詰めの甘さがあったでしょ、と。ここで散々書いたように、これほどまで嫌悪してたんだから、そんなの賛同できなくて当然だったんだよ。あのサボタージュは正しかったんだ、と。あの時勝ち抜けなかったことについての責任を、僕一人が背負うことはなかった。と。

自分も結構策士なんですよね。今思うとそれが当時の僕のライフハック()。子供の頃から色々バッシングされて生きるうち、上手く逃れて生き抜くすべを見つけたんだと思う。それがアホでいることだった、と言えるのかもしれない。もちろん今はそうは行かないですけどね。

 

吹奏楽部で自分は他人事だったという話。もうひとつ理由があります。
僕自身の音楽活動は、こんな場所で終いじゃなくて、この先もっともっと自分のやりたいことを続けて行く気があったから、特にコンクールごときに思い入れなどなかった、ということがある。別にこれで終わりじゃない、ただの通過点だし、という感じ。
だからと言って本気じゃないわけではなかったんだけど、みんなの無闇に熱い様子(にしては実が伴ってないことへの苛立たしさ)に着いて行けずに、なんか違う、と思ってたことが大きかったと思う。だからその辺を首脳陣は僕に理解させる必要があったはずなんだけど、そこは「目的のためには当たり前でしょ」を通したから、それは僕に通じなかった、結果、冷めていった。そうして、出られないなら出られないで、別にそれでも構わないや、っていうことになったんだな。
今振り返ると、これは正しかったとも言えるし、間違いであるとも言える。というのは、たとえどんなことでも嫌なことでも「何かを全力でやった経験というのは、決して無駄にはならないから」です。特に若いうちは、なんだか分からないが一心不乱に打ち込んだ、というようなことが、次への道を拓いていくことへと繋がっていくので、なんにせよ「ちゃんと完遂する」というのは大事なんだね。当時の僕はそれはわかってなかった。自分が不本意なことは決して全力を出さなかった。なので僕の才能は晩生になったのよね。まあそういう成長度合いって人それぞれだから、それでもよかったのかもしれないけど、そのへん割り切ってコンクールも全力参加してたら、その後の人生の拓かれかたは少し変わったかもしれないね(その代わり今こうしてないかもしれない。さっさと燃え尽きてしまって)。

僕は、他人には、テクニック至上主義じゃなくていい、ゆるくていい、などと言うけど、自分自身はストイックで、決してそんなことは思ってないのね。「自分にそれを課すのは誰も責めない」からいいでしょ。筋トレを 他人に強要するのはいけないけど、自分に強要するのは別にいい でしょ、的なことです。

これは僕自身が常に人より上に居たい、という表れだなあと最近思ったの。別にテクニックじゃないですよ(でも自分は上手いですよ)というような地位に居るのが楽なんですね。そうね、たとえば超大金持ちの人が「世の中カネじゃないよ」というのに似てます。自分は持ってるからそう言える。
僕自身は他人に突っ込まれないように有利な位置を維持する一方で、他人には、そんなことはどうでもいいんだよ、と言う。僕が当時欲しかったのはそういう地位でした。それは前に書いたことと繋がっていく。自分はどんどん上手くなったから、この自分の説得力を使って「体育会的な脳筋吹奏楽を否定することが出来る」と思った、と。
子供の頃から蔑ろにされることの多かった僕にとって、一番欲しかったのは自分の存在感、説得力でした。それに目覚めたので、どんどん上手くなっていった、ということだと思う。

それって、こないだの響けユーフォ8話の「特別になる」という話と繋がってくるね。

 

3年になってパーカッションの能力が開花し頭角を現したけど、それだけじゃなかった。3年の時にはもう「非難GoGo」とかアカペラとかが出来てたし、そういう宅録ミュージシャンとしての創作活動を始めてたのよね。だから、これが最後!と頑張ってた他の3年部員と、その価値観が合わなかっただけでなく、自分には吹奏楽しかない、という感覚ともずれてたわけ。
じゃあなんで部活を辞めずにいたのか、というと、それは自分一人しかいないパートということの責任感ももちろんあったけど、それ以上に「オーディエンス」としての部員が必要だったから、というのがある。
当時の僕の作品はすべて、リスナーを想定して作っていた。こういうの喜ばれるだろう、と思って作って、実際にそれが受けていた。もちろん内輪受けではなく、一般にも通用することをちゃんと考えてた(だからファーストに全部収録できた)。そういうシミュレーションとしての「仮想リスナーという部員」が必要だった、「フィードバックのサンプルとしての部員」が必要だった、ということです。
こういうこといちいち振り返ると、今とやってることが一緒なんだよね。僕自身は極めてパーソナルでありながら、しかし開いている作品が出来る、というのは、こういう他者の目(耳)を常に意識してる結果だと思う。
まあ悪く言えば、部員ですら、仲間と思ってなくて「サンプルのひとつ」というように考えてたわけだから、コンクールも他人事だし「別にいいや」と舐めてたのも、そういうことだからなんだよね。だからアンドロイド連中なんかに負けたくなかった。脳筋で音楽なんか出来るわけない、と。音楽ってのは自分でクリエイトして構築していくもんだ、っていう。誰かの言いなりで他人の音楽を創りあげるなんざ真っ平やねん、と思ったということだな。

 

リスナーとしての吹奏楽部員は優秀でしたよ。それは今もありがたいと思う。当時は一人宅録に対する偏見が今よりももっと強くて、暗いとかオタクとか、個人主義よくない、利己的で自己満足(バンドじゃなく一人なので)とか散々言われた。こういうのを面白がってくれたのは、ほぼ部の仲間だけです。

ロックの人って今もだけど意外に頭固くてね、聴いてる音楽とは正反対なのね、だから僕みたいなことを絶対認めてくれない。すごく狭い人たちなんだと思う。ちょうど最近、西寺郷太氏のインタビュー読んだけど、まさにあんな感じで、周りに理解されない。
吹奏楽の人はそうじゃないからね、何でもオモシロイと思ったら聴く。ジャンルも偏見なかったね。ノイズとかミニマルとかも聴いてたよ。だって吹奏楽の課題曲自体、そんな現代的なのばっかりじゃん。だから耳のキャパが広いのよ。だから実験的な曲とかでもぜんぜん大丈夫だった。耳が貪欲な人相手は楽だったなと思う。褒める点はそれくらいかなw

 

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★人の心を動かすもの

さて話は戻りますが、このように3年になり、僕と他メンの存在感が拮抗するようになって、そのままだったらよい関係だったと思うのですが、部活の方針と僕がずれて目標がぶれたことにより、コンクール不出場となり、そのことで僕は負い目ができたわけ。事実はどうであれ、ダメ金になって打ちひしがれ泣いてるメンバーを見て、僕としてもなにか感じずにはいられなかったでしょう。
それからもうひとつ。
「そこまで突き動かされるものとは一体なんなの?」という謎ね。特に音楽的才能が突出してるわけでもない、それで身を立てようとか思ってない、そんな17才前後の人々が「なんでそこまで熱くなれるのか」。その謎を解きたくなったのだ。

何事も他人事だった僕は「そこまで熱く燃えられる彼らがアホぽい」と思いつつ、同時に羨ましくもあった。その辺に音楽の謎があるんじゃないかって思ったんだな。だから僕は、宅録楽家だけを目指さずに、吹奏楽もやっぱり続けていこう、そう思ったのが上京の時だった。
前に書いたけど、大阪では創作はしてたけどライブの機会がなかった。後期ビートルズみたいでそれもいい、と思ってたけど、やっぱり物足りなくなるんだよ。ステージとかライブやりたくなるわけ。で、東京では最優先はまずそれ、ということで、市民バンドの吹奏楽に参加した、という流れでしたね。
でまあ、以前長々と書いたような出来事があり、僕の中に音楽の生命体みたいなものが宿ったということですね。
それは「共有」という概念だった。当時の部活のメンバーはみんな、何かを、たぶん目標とか想いとかかな、それを共有してたんだな。で僕は、他人が嫌いな人だから、誰とも気持ちの共有なんか出来ないと思ってた。僕の場合は別にそういうことがなくとも、音楽に対する完成目標がしっかりしてたので、そんな概念がなくとも「普通程度に」よい音楽にすることが出来たの。
しかし、その後ずっといろんな活動を続けてきて、この「共有」という概念がないと、その上、つまりもう一つランクが上のステージに上がることが出来ないと気づいたわけだ。それがなくても、良質な音楽はすることが出来るんだが、その上の突き抜けたもの、それが出来ないんだわ。
だから逆に、あの部活の連中は、テクニックや才能は並でも、その熱い思いだけを全員が共有してたから、コンクールの瞬間だけ非凡な演奏、みたいなミラクルが出来るわけ。それはたった一回のみの奇跡だとしても、その突き抜けた表現こそが、人々に訴えるのよ。今アイドルから何から、みんながやってることはそういうことでしょ。それがないと、ただの仕事人なのよ。それが安定して綺麗ってこと。でも人に訴えかける表現とか作品てのは、もうちょっと違うわけだ。そういうことをやっと掴んだわけですね。

人と音楽を作るって「想いを共有すること」なんだよね。最初のコラボ「それぞれの夏休み」制作を経験して、そのことが初めてわかったわけです。その後のコラボや仕事も、それが出来たものは上手くいった。演技とは擬似的な恋愛である、と前に書いたけど、音楽作りも一緒だったのだね。1対1のパーソナルな共有。僕が得たものはそういうことだったのだ。

そう考えると、あんなアンドロイドのなりそこない連中と「想いを共有」なんか出来るわけなかった。そういうことだったのだ。

 

イチローの話。前半は前に読んだが、後半は読んでなかった。
www.nikkansports.com


僕が吹奏楽で味わったことも、こういうことだよね。理不尽なことに対する怒り。
ルサンチマンよくない、というひともいるけど、僕にとっては少なくとも、これこそが重要であり、今後も自分の中で解決しない限りは、これをモチベにしていくと思う。結果論だけど、それでよい作品がどんどん生まれるなら、それでいいではないの。

補足するなら モチベはルサンチマンだが音楽は愛 なんだよ。むしろ、音楽愛を大切に扱わなかった理不尽な先輩や空手女子に対する否定の実証活動なんだから、今後もそれは積極的に背負ってどんどんすべき。そういう開き直りですね、今は。前も書いたが、恨みは消えることは決してないから、それを受け入れて一生付き合い続けていく、という覚悟です、と。

甲子園ってプロへの道でもあるんやね。吹奏楽コンクールはそうではないから、本当にプロや専門家(教師とか)を目指す場合、吹奏楽部には入らないという選択もある。実際、知り合いで管楽器を吹いてプロを目指してる奴がいたが、そのために部活を辞めたメンバーがいる。多人数での「合奏」って楽器演奏の形態の一つにすぎないから、ソロのひとは別にしなくていいしね。そういう点などが高校野球とは違うな。別にコンクールは避けられない道ではないわけだ。

それはそれとして、僕自身の気質を色々考えてたんだけど、やっぱり誰か他人の引っ張るプロジェクトというのは、あまり好きじゃないってことなんだと思う。自分は好き勝手に自分がしたいこと、表現したいことをしたいので、第3者が牛耳るようになると、それは自分ではない、という考えになって、そこから足抜けしたくなる、という。そういう癖がずっとあるんだなと。もちろん今もです。他人に好き勝手されたり、自分に制作の自由がない場合、それはしたくないので辞めます、と言うよね。
遡ると、それの一番最初あたりの出来事が、高校の部活で、好きなことが出来なくなっていった過程だったんじゃないかなと思った。上級生が引退して自分らの代になった 2年生後半から3年の6月くらいまでは、いろんな行事もあって個性も発揮できて面白かったわけだけど、一つ一つ行事が消化されていって目的がコンクールのみになっていった時、結局、幹部連中の思い通りに進んでいってしまった(コンクールのためにはそれしかなかったから)、ということが不本意だったんだろう。今思い返しても、あれはずるいよなあ、と思う。さんざん討論して、自由組と気合組の折衷的な部活になったと思ったのに、最終的にはコンクールという目標が残ったから、否応なしに気合組に取り込まれ、みんながそうなるしかなくなった、みたいなこと。みんなガタガタ言ってても、コンクールが近づけば、みんな一つの目標で一塊になるしかなくなるって、幹部はわかってたと思う。だからずるいと。

僕らの代でラッパ吹いてた satoくんという奴がいるんだが、その彼だけは、それでも逆らい続け、部に来なくなったりしていた。でもコンクールにはなんとか説得されて出たけどね。で、僕の方は、部活には頑張って来続けたが、無意識のサボタージュで、コンクール不出場になった。僕も satoくんも、みんなからは「しょうがねえなあ。しっかりしろよ」的に言われたけど、今思えば、僕も satoくんも、悪いことをしたわけじゃない。でも何か、悪いことをしたような、負けた、逃げた、みたいなマイナスの見方で見られてしまったのね、当時。

今書きながら面白いことを思い出したが、いつだったか、横綱になった相撲のひとが、親方の部屋から逃げ出して破門されたという事件があって*6、そのことについて家で話してた時、僕が「何か無理強いさせられて逃げたくなったんだろう。同情するわ」と言ったところ、父が「嫌ならオトナなんだから断ればいい。ずるずる続けて肝心なときに逃げ出すとか、無責任」って怒ったのよ。その時は父に反論できなかったけど、今思うと、相撲みたいなパワハラの体育会で、親方に逆らうことなんか出来ないでしょう、と思ったし、嫌ならそう言えばいい、というのは、威圧でまとめ上げるタイプのひとの常套句だよな、と。
それは響けユーフォの話にも繋がってきて「嫌ならそう言えばいい」と言いながら 部全体で進む方向が決まってしまった時、それに逆らったりするというのは実質できない じゃないの、と思うのね。そういう大きな流れには「一個人は逆らえないようにできてる」のよ。多数決も同じ。民意が反映されている、というのは 欺瞞 だっていうこと。

 

ちなみに。satoくんの後日談だけど、説得されてコンクールまで出たけど、決して改宗されたわけではなくて、引退の最後の挨拶の時に、何かの文献を持ってきて、その中の数行(人間はヨーグルト、とかいう文章だった)を全員の前で読みあげ「宗教的で、目標のみに邁進するような部活のあり方はふさわしくない。後輩のみんなはそれを今後も考えててほしい」と、堂々と述べた。僕は横で聞いてて、すごいなあと思ったよ。彼はブレなかったのね。僕のほうは、ぶれたというか、その謎に迫ってみたいと思って、近づいていったのね。それは僕のその後の活動になったということです。

 

★合議制の難しさ

最初のほうに書いたが、僕らの部活には指導者の先生がいなかったのです。生徒が運営し、指揮も生徒がする。強豪校では珍しいと言われてた。名門校というところには必ず、名物指導者というのがいるので「生徒のみ運営」っていうのはあまりなかったのよ*7
だからそこには民主制を期待するし、逆に、同じ学年のやつに仕切られるなんて真っ平、とも思うのよ。なんでお前に「命令」されなあかんねん、みたいなことです。特に僕は常々自分を天才と思ってた人ですのでねw
先日のイチローの話でいうと、例えば僕らの部に指導教官や顧問がいたら、僕の活躍や素養を見抜いて、その後の進路、例えば音大はどうや?とか、吹奏楽の盛んな大学は?などと言ってくれたりした気がするのね。でも、そういう客観評価をする人間が誰も居ないのよ。全員生徒で「一律まっ平らの平等」と思われてるから、僕らの上から「あなたはこう、あなたはこっち」などとちゃんと評価して振り分ける人がいない。これが僕の不幸だったんじゃないかと、今思ってる。
みんな同じ立場の生徒どおし、相手の才能なんか認めたくないのよ。だから僕だって、強豪中出身の幹部の思うまま進んでいきそうになったとき「なんでこんな奴らに思い通りにされなきゃならんのだ」と思ったからサボタージュしたわけでしょ。もし先生がいたら、そんなことはなかったね。
こうなると、上にどっしりした指導者がいて導いていく、というのは、内紛を抑えるためには有効だったとも言える。僕がやっと理想の指導者に出会えたのはキャバレーの仕事の時だ、と散々言ってるけども、もしこの部活にも先生がいたとしたら、理想の指導者たり得たかもしれない。ということ。

そういえば先日、小学校同期女子の子と会ったとき「3〜4年のときのそっちの担任はいい先生だったね」と僕が言って「そうだった?」っていう話になった。今まで僕がいろいろ会った「先生」という立場の人で、3〜4年のときの隣の担任だけ、この人はちゃんとしてる、と唯一思った先生だった。実際その先生は優秀で、その後、何かの教育使節になりクウェートに派遣されて行った。いい先生はみんな出世していなくなるねえ、と話してたな。そんな先生。だから、残り物はダメなのよw
そういう人材に会えれば違ってたかもだな、と思いつつ、そんな人材に恵まれすぎて、オトナになってから迷いまくり、新興宗教にハマってしまった空手女子みたいになるのも、それはそれで大変やなあ、と。結局自分の道は自分でしか決められないんよね。

 

職業に貴賎なしという言葉があるけど、部活末期になると、反主流派の連中はそのようなこと、例えば「天は人の上に人を作らず」みたいなことを、しきりに言うようになっていた。つまり、既に自分らは部活内ではマイノリティになっている、ということを自覚してたんやなあと。
進学校だったので中学クラス上位の連中が集まってる高校なわけだが、部活でも同じで、高校に来る前は、それぞれの中学の部長や幹部だった、というメンバーが多いわけ。それが幹部揃いの高校部活で力関係に敗れて「ヒラ」部員になるという屈辱感かなあ。だからみんな、つまらん、辞めたいなどと言ってたんだな。高校時代に既に社会の荒波に揉まれ、挫折を味わっていたのである。
僕はもともと幹部じゃなかったし中学時代は遊びでやってたので、特にそういう意識はなかったが「一方的に進められるのは不快だった」というのは同じだったかもだね。
かと言って、そのグズグズしてるメンバーと同一視されるのも嫌だった。自分の音楽性はまともだという意識がちゃんとあったからだな。もちろん、敗者メンバーにもそういう自負はあったと思うんやけど、僕の中では「主要幹部以外に自分と能力が拮抗するメンバーはいない」と勝手に思ってたから「僕を勝手に負け組の仲間に含むのはやめてくれや」と思ってたなw そうやって往生際が悪かったから、ギリギリで不出場とかいう体たらくになったんやなあと思う。さっさと負け組になれば、諦めもついたかもしれないのに。そこは僕のつまらんプライドかなあと思う。

嫌で理不尽なことはたくさんあった部活だったが、今思うとどれも、社会というもののひな形であり、疑似体験だったといえるのね。生徒運営という形が非難されたり、理想ではないと叩かれもしたけど、顧問付きでは経験できなかったような、ドロドロを味わえたのは、それはそれで貴重な経験だったかもしれないし、何かのためにもなったのかもしれない。
まあでもやっぱり「もっと音楽道に真っ直ぐに生きてみたかった」という思いは、悔いとしてありますね。自分の素質と才能にもっと早く気づいてればなあ、と。周りのオトナもね。

 

上京してからも吹奏楽に関わり続けたのは、そういった高校時代の嫌な記憶を上書きしたかったからだろう。実際今の僕は、吹奏楽の思い出というとまず最初が江東区の高校のことであり、そのことを歌った「少年の10月」でも「これは中学時代と、都立高校の部活のことを歌った曲です」とMCで説明するし。響けユーフォニアム11話を見てて、市民会館みたいなところが出てくるけど、これを見て「あー上野文化会館ぽい」と思って、やっぱり都立高時代の思い出が大きいんだなと改めて思ったんである。あとは江東文化ホールとかもあったかな。決して故郷のホールとかは出てこない。
東京での吹奏楽活動の最晩年、僕らの所属してた団体に、なななんとアルフレッド・リード(!)が来て指揮する、という演奏会が開かれることになった。こないだのライブでもその話で盛り上がったけども、いろんなおもしろいことがありつつ、無事盛り上がって終わった。僕はコンクールに出場しなかったけど、最後の最後にパーカッション奏者として、団体のみんな(含む高校生)と、リードの指揮でコンサートに出られたなんて、もうこれで十分じゃないか、と思ったの覚えてる。特に気負いもなく、みんな楽しくやったよ。勝ち負けじゃなかったからね。これが音楽ってやつだなあ、と思った。その時のメンバーとは今も仲がいいし、そのうちの一人が「うちに来て夏休みを歌った子」だ。やっとそこで、僕の青春が終わった。

響け11話を見てて、もうひとつ感じた事があった。トロンボーンが吹けずに指導される場面がある。これがもし、先生じゃなく、僕らみたいに 同じ学年の生徒指揮者が言ったとしたらどうか。ムカつくなあと思うんじゃないか。
それより「何がおかしいのか気づかない」ことだってありうる。この先生は、彼が吹けない原因を的確に指摘できたが、僕らのように生徒同士で果たしてそれができたかどうか。僕らの場合「何かおかしいけど、何が原因なんだろう?」みたいになることも多かった気がする。そうして よくわからないけど、ちゃんとしろってことになって、精神論になっていく
そういえば僕が 2年の頃も、末期には指導者先輩たちが、もう何を言っていいのかわからず、どう仕上げていいのかわからず、ともかく精神論みたいになっていったのを思い出す。自分が3年になったとき、もうあの時の繰り返しは嫌だなあ、と漠然と思っていた。そう思うと、やっぱり外部指導者は必要だったんじゃないのかなあと。


ユリ*8の歌を一番最初に録ったときの話、夏休みの暑いときだったと思うけど、うちから電車で帰るとき、偶然、電停に彼女の高校の後輩たちが大勢やってきて、ちょっと盛り上がった。うちの最寄りの電停は、実は彼女の母校の最寄りでもあったんである。
部活帰りの10人くらいの後輩が私たち二人を発見して、なんか騒いでるわけ。「これ先輩の彼氏ですか」とか言ってる。内心爆笑してたが、高校生というのはいつでも変わらんもんやのう、と思ったね。
そして、東京の後輩の奴らを思い出して少し切なくなった。みんな何やってるのかなあ、あの最後の演奏会は楽しかったなあ、と。北海道で、東京で、そして今度は長崎で??いやーそれはもうないやろ。もう吹奏楽は終わったんだ。それで、もう僕は東京に戻るんだ。…そんなことを思ってたね。あの電停で。それが、あの夏の思い出だな。*9

 

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★響けユーフォニアム オンエア終わる。

「響け!ユーフォニアム」最終回、第13話『さよならコンクール』

遂に終わったんかー…。関係ないけど、私アニメ見慣れてないので、みんなの顔の区別がつきませんw なんとなく全員を大雑把に見てる。ラッパの特別女子だけはなんとなくわかるけど。

コンクールの本番は僕は1年2年の経験しかない。相手校は3年間同じ。全国経験のある強豪でね*10。どう聴いても上手いし負けてるんだけど、そんなこと言ったらダメってことになってる。なんつか宗教なの。自分を信じられないのか?みたいな感じ。
でも明らかですからね。みんな負けたと思ってたと思う。でもまんがいち間違って、こっちが勝つとかいうこともあり得るかも?みたいに思ってた人いたのかなあ。まあでもそれは演奏後の話で、もちろん本番は100%でやったです。2年の時だけど。それはちゃんと覚えてるよ。しっかり仕事をこなした。僕は完璧だった。2年の時の上級生が体育会系で封建的だったので、その経験が今もすごくトラウマになってるわけだけど、しかし指揮者(3年)個人はカリスマ性があった。だからなんとかついて行けたみたいなことろがあったなあ。
で自分らの代になった時に、同期の人達について、そんなこと思えなかったからさ、付いて行きたい、とか、全員一緒に纏めあげたい、みたいな感情がないの。それはすごく覚えてる。だから、今思えば 2年の時のコンクールで燃え尽きてしまったんじゃないかなあ。実際その時点、つまり代替わりのときに辞める下級生というのは結構いるんですね。たいがい1年は「3年のことが好きで、直上の2年のことは嫌い」なの。だから3年が引退して2年の代になると、こんな人たち嫌だって言ってやめちゃう。僕は自分らの代が好きじゃなかったので、その時点で辞めてもよかっただろうね。そんなことを思います。
あと、相手校ね、余裕なんですよ。終わったあと、うちらの「こういうところがよかった」「この時点では、負けたかも?とか思った」とか、歯が浮くようなこと言ってくるわけ。サッカーのユニ交換とか抱き合うみたいなものですw で、それをまた真に受けて「うちらも互角だった」みたいに思ってるの。そういうの、幸せだなあって思った。
でもねこういう宗教チックなのって、だんだんこっちも洗脳されてくるのよ。「みんながそう言うんだから、ひょっとしたらそうかもしんない」とか思うようになってくるの。怖いんです。まあでも、これについては、正しくもあり間違いでもあり、です。音楽の評価なんて誰にもわからないもん。
まあでもテクニックと仕上げについては明らかに負けてるよなあと思うけどね。そういうところが、前に書いた「オレたちの音楽には心が入ってる」みたいな勘違いになるんだと思うの。
それは「心が入ってる」んじゃないのよ、未熟なりにも一生懸命なところが心を打つ、ということなの。甲子園もそうだけど、強豪に当たっちゃった学校のチームとか、頑張れ!って思うでしょ?勝てるはずないけど、一生懸命なところが、見てる人の心を打つのよ。それと同じ。僕らはそう見られてたの。そうだったんだなあ、と今ならわかるね。
それでも、それすらない演奏はダメダメなんで、なんでも与えられたことは一生懸命にこなす、というのは、すごく重要なんだ、特に若いうちは、というのは、こないだココで書いたとおりです。そんな雑感。
 
★卒業後の部活大転換の話。

吹奏楽の話になると大河ドラマ的に壮大になる。
僕が卒業してOBになってからも、夏休みとかに部活に顔を出し続けた。これは僕が変だったのではなくて、そういう風習がある部活だったの。だから大学が休みになる季節になるといつも大量のOBが部に顔を出してたんだよ。それはウザいという気もするけど、実際はそうでもなく、なんというか、多様な価値観を見せてくれるオトナとの出会いはなかなか貴重だったと思う。僕の勝手な印象だけど、高校時代の封建的な運営を否定的に思ってる先輩が多かった気もする。それは「自己批判でもあった」のかもしれない。

そんなわけで僕自身もOBになって顔を出し始めて、現役世代はいつも変わらんのう、などと思っていたのだけど、数年後に大転換が起こる。僕にとっては 6年下になるけども、そいつらの代になって「こんな部活は無意味じゃないか、もっと楽しい有意義な部活にしよう!」という価値観に、いきなり大転向した!
それに至るにはいろんな反省とか、過去の活動の批判みたいなことがあったんだと思うけど、ともかくそこで一気に変わった。その後輩たちは、人としてもみんな個性的でおもしろく、僕と話も合った。それまでは「不甲斐ない、どうしようもない、でもドラムだけは何故か上手い変な先輩」という扱いだった僕が、いきなりそこから「理想的な先輩の一人」という位置づけに変わった。自分もびっくりしたw
夏休みの合宿にやってきた大勢のOBの人々は、その部活の様子にみんな大変驚き、落胆していた。何人もの自称「識者」OBが幹部に口を出したけども*11、彼ら現役は一切受け入れなかった。これが自分たちのやり方だ!と通して、定演もコンクールもやり遂げた。

その時のいろんな出来事は今も覚えてるよ。一人の長老OBは、彼らの演奏を聴いて「こんなものは音楽じゃない!」などと言ってきたし、僕以外のOBはほぼ全員批判していた。しまいには「OBだけの団体を臨時結成して演奏会を開き、これが本当の音楽だ!みたいな演奏を魅せつけてやろうぜ!」などという動きさえ起こった。

ちなみに。大勢の先輩から不評で「こんなのは音楽ではない」とまで言わしめた彼らの代の定期演奏会。なんとそれまでの定演で「いちばんの大成功」になったのですよ。集客だけでなく、見たお客さんから大絶賛でね、うちの母なんかも興奮して「今年のは面白かったねー。今までで一番よかったよ!」などと言ってたくらいだから、相当よかったんだろう。彼らの代の部活にあったのはエンターテインメント性だった。音楽とは娯楽である、ということを徹底していた。それから、等身大にこだわっていた。幹部のやつと仲良くなっていろいろ聞けたのだけど、その彼によると、当時の構成部員の実力を全部ちゃんと把握して、役割を与えたのだ、と。無理して高望みはしない、高尚な演奏技術など、競合ライバル校に任せておけばいいんで、うちらはそうでない、自分らが出来る範囲の音楽を精一杯楽しんでやり、それを見せよう、ということだった。と。なるほどなあと思ったね。

思えば僕らは頑張りすぎていたのだろう。ライバルに勝ちたい、全国大会に行きたい、などと、出来もしないことを望み過ぎて、気合でなんとかなると思っていたのだ。そんな痛々しい満身創痍の音楽がいいものだろうか?音楽ってのはそうじゃないんじゃないか、そういうことを僕もそこで学んだのだね。理論じゃなく実体験としてそれが確認できたのは、すごくよかったと思う。

どこかでデジャブですよね。これは今現在あちこちで起こっている世代間の諍いや断絶であるし、老害的なものでもあるし、そういうのの典型的な事例だったの。

僕はこういうことを過去に実際に体験して、みんなが不変だと思ってる概念や価値観は、実際はそうでない ことを学んだの。世代は入れ替わるし、昨日が白だったものはいきなり今日から黒に変わったりする。たった今、誰にも理解されずに苦しんでいても、3年くらい我慢すれば解決したりする。いま反体制でも、ある時を境にいきなり体制側になることもある

そういうことを味わった、一番最初の事例になったのです。

ちなみにその後の 5年間が僕の吹奏楽人としての黄金時代になります。僕自身の価値観が、世代に受け入れられ、そういう自由な風習の中で、のびのびとやりたいように音楽ができた。高校時代の息苦しさが嘘のようだった。そういう世界に居場所を見つけられてのびのびしていた僕と反対に、それを受け入れることが出来なかった、僕と同世代以上の人々は、後輩から疎まれ、次第に居場所がなくなり、みんな顔を出さなくなった。それは北海道でだけじゃなくて、東京でも一緒だったの。その辺に分水嶺があり、その変化を受け入れられない人たちは、みんな去っていった。同世代では僕だけが残り、そうして江東深川の付き合いも深まっていった。そういう中に夏休みの彼女、自由になるわの歌手女子、門仲マスターなどもいたわけです。僕の人生は、そこから始まった、ということなのですね。

★私の天敵「空手女子」の話。

部活同期だった空手女子が、相変わらず布教活動に勤しんでおります。部活の先輩とかの投稿から、こっちにもその活動が回ってくるのでほんとうざいw
そもそもこんなの音楽じゃない。かなり明確なプロパガンダなのに、後輩が頑張ってる、ってなると、応援してあげようとなって、コンサート企画したりしてあげるのはどうかと思う。あの手のタイプはホント政治的に上手いから、やんなっちゃうね。
プロパガンダと言ってもですね、それこそワーグナーみたいに、恐ろしく完成度が高いなら(怖いけど)、それを認めるというのは分かるんですよ。しかし(他人の音楽を貶すということはあまりしたくないのだけど)、空手女子の音楽は完成度としても、お世辞にもちょっと…なので、なのに先輩は僕の活動などと一緒にして語ったりするので「いやいや一緒にせんといてくれ」と心の底から思います。

不全家庭の子は宗教的癒やしにハマっていく、というのはよくわかるけどね。だから、恐怖政治の吹奏楽部も、彼女にとっては居心地が良かったんだろうね。つまり「純粋に音楽のみ」では活動ができない人だと。目的、つまりコンクール優勝、というよりはそれを目的とした厳しい部活動のために、とか、布教のために、とかね、そういう第2の目的がないと出来ない人だったんでしょう。そうして彼女自身も救われてるんでしょ。
しかし、私も不全家庭だったはずなのだが、そういう「縋り」に逃げないのは何故なんだろう。いや、縋って乗っかってるとは思う。でもその結果として、音楽のクォリティがどんどん上がっていったのは、その辺は素質の違いなんだろうか。この辺は今でも永遠の謎です。何度も書くけど、彼女だってロボット兵隊的には楽器は上手かったんだからね。まあやっぱり、パフォーマーとクリエイターは違う業種なんだ、ということに尽きるのかなあ。わからない。
でもやっぱりどうしても、神に縋ってお赦しください、などと言ってる間に、作曲の勉強のひとつでもしてくださいよ、って思ってしまうなあ。

吹奏楽アンドロイドの話を続けます。
僕はなんの楽器もなかなか上手くならなかったので、楽器が神業的に上手い、という人はそれだけで尊敬してたね。部活の時もそうだったと思う。特殊な才能、みたいに思ってた。だから、空手女子も一目置いてたわけだし。
ドラムがちょっとずつ上手くなって、キャバレーでコツを掴んだとき、ふと「これって他の楽器にも応用できるんじゃないだろうか?」と気づいたんだな。それで、順番にBass、ギターというように練習を始めたら、メキメキ上手くなり、打ち込みですか?と言われるようなジャストで弾けるようになって、それが当時の多重録音作品に大いに活かせた。その時に「ああ、別に特別なことでもなんでもなかった。僕でも出来た。やり方を知らなかっただけなんだ。」と悟ったのね。

その時点で、空手女子的な人々への気持ちも払拭できたのだろうと思う。

こないだはてなで「考えが早すぎて文字を書くのに追いつかないから字が汚い」という誰かのブログを読んだけども、私も文字が実に汚いのです(書道を数年間習ってたのだけど)。ともかく考えを一刻も早く文字にしたくて、だから判別不能みたいな文字になってしまうわけ。
これと、楽器の演奏は似ている、と思ったね。つまり、何かの発想が浮かんだとき、それを実際に音にする能力がないと、スゴイ下手にしか弾けないの。そういえば僕の録音は、昔は「イイ曲だけど雑だねえ」とよく言われてた。歌も同じね。ちゃんと練習しないから適当だったの。そんな余裕がなかった。
そいうのを、この時もういちど見なおして、丁寧に弾くこと、歌うことを重点的にやったわけ。そうすると、作品が見違えるように聴きやすくなり、大勢に認められるようになった。
ちなみに今もこの癖は残ってます。イイ曲であればあるほど、アレンジの仕上げが適当になる。ミルクの曲とかもそうなってるはず。

歌とか曲作りはなんとかモノになったけど、Bassやギターは、決まったフレーズを機械的に弾くのはすごく上手くなったけど、プロいフレーズを考えたりする実力は、それほど伸びなかった。その時に、やっぱり楽器って上手い下手よりもセンスと発想だなって思った。
だから吹奏楽やコピバンみたいなものがあるんだね。「産み出せないけど上手い、という人の需要はそこにある」んだよ。作品や譜面はすでにある。それを弾くだけでいいんだもの。楽器の練習のみに特化出来るんだから、それは上手くなるでしょうって思ったね。

こないだ面白い話を聴いたのだけど、今って業界が不景気なので、プロバンとかでもみんなバイト掛け持ちで時間がなくて、だから「プロより、公務員とかで時間がある人のほうが楽器が上手い」っていう、皮肉な逆転が起こってるって。
でも、思ったのだけど、プロに対価を払うって「その発想に払う」んだと思うから、それは別に「正しいこと」なのではないかって思ったな。
そういえば楽器の超テクニシャンのこと、むかし、特に欧米とかで「楽器オリンピックじゃねえんだから」って揶揄されてたのです。オリンピックってアマチュアの祭典だよね。それってじゃあ、正しい指摘だったんじゃないか、って今頃になって気づいたな。数字を競うんだもんね。

そうそう余談やけど、楽器演奏のヒトに僕がよく非難されたことのひとつに「楽器を大切にしない」ということがあった。そうなの、まったく大事にしませんw
コレ、車とかもそうだけど、持ち物をピカピカに磨いたりするの好きな人いるじゃん。アレ苦手なのよ。フェチぽくて。僕の中では「物は雑に使って最高のポテンシャル引き出す」というのがカタルシスなんやねw
まああとやっぱり風紀問題もある。服装の乱れは心の乱れ、とか言うじゃん。アレと同じで部活や師弟制度の音楽界封建制は、楽器の汚れは心の汚れみたいなところがあって、ものすごく強く言われるし、後輩や弟子は、まず師匠の楽器磨くところから始まるでしょ。アレ 大嫌い でね。関係ねえわ!って強い反感持ってた。だから今も、まったくしない。
でも最近きづいたけど、けっこうみんな、ケアとかしないプロもいるのね。もちろんするヒトもいるけどね。適当な人が安心する。

フェチって、そのまま封建制に繋がるというか、その人の内面の支配欲の顕れみたいで、ものすごく嫌です。

 

近所の高校がマーチングの練習をしてる。
マーチング、というかドリルは僕らもやっていた。それ以前も体育会系だったが、それでますます拍車がかかったのと、マーチングはメンバーの穴を空けられない(フォーメーションが決まってるから)ので、逃れられない罠にハマっていったんだろうと思う。
とは言うものの、マーチング自体は僕は好きだった。マーチングにおけるパーカッションはスターですし。
あと、あの独特のドライなアレンジは好きだったと思う。会場や演奏スタイルの都合上、キレのいいプレイや奏法を求められるからだね。オープンロール連打とかは快感ですよ。そういうのはブラストを見るとよくわかると思うよ。

 
★そして。

ちょうどタイムリーにこういう話題だしw

blog.goo.ne.jp

長崎はじまったな。由緒ある私学だし、学校存続のためにもこれは本気でしょう。そんな状況のなか、このような動きに目ざといセクハラ氏(某氏の仮名)は速コンタクトでも取ってることでしょうか(あ、でもピアノの某小姑さんが彼を阻んでいたんだった。彼がこの学校に関わったら自分は辞める宣言してるらしいので)。

冗談はさておき、その後調べたらやっぱり精華は敗退してた模様です。指導者が変わるとやっぱりダメなのかー。実力は残ってるはずなんだよね。在校上級生組がいきなり下手になるわけはない。
だとすると「やっぱり」まとめ方の問題だよなあ。まあ「音楽性」と言ってもいいのだけど、もうちょっと言うと「コンクールで受けそうな仕上げ方」という定形がある。やっぱり音楽と吹奏楽は同じようでいて異なるものだなあという実感。
 

*1:この記事は「空手女子との確執&指導者と兵隊部員の考察」記事の続きです→

karamandarine.hatenadiary.jp

*2:湖陵高校器楽部

*3:座右の銘。人生はリベンジ

*4:中標津高校

*5:指導教師が居ない、生徒のみ運営の限界でもあった

*6:北尾光司

*7:関連エントリー(中盤から)→ 吹奏楽アンドロイドと「正しいピッチ」教

*8:井塔由梨さん。実は彼女も吹奏楽経験者で、しかも楽器がユーフォニアムだった!コリデールという名前で活動中。

*9:長崎で吹奏楽に携わる、という考えが潰えたのは、ともかくひとえに「某セクハラ奏者」の存在があるからですね(ユリと同高)。あんな人と関わるとか縁を取り持ってもらうとか真っ平だと思ったので、その可能性は最初から僕の中ではナシとしていた。しかし、この時の夏休み、ユリ氏と関わって電停事件があったときに、東京の時みたいにそういう流れもよかったかもしらんなあ。と少し思っちゃったんだよね。そうすっと、耳が貪欲の若者とかに出会えたかもしれなかった。だからちょっと残念に思ったし、他ならぬセクハラの存在こそが、こうやって真っ当な他者の介入を阻んでいるんだと思うと、長崎音楽界の損失はデカイなあと思ったな(奴を嫌がってるのは僕だけじゃないから)。
僕がクラシックギター先生との付き合いを大事にしてたのは、当地で吹奏楽と縁がなかった僕にとって、それに代わる唯一のものだったからだよね。僕は今でもロックやジャズの人たちは「狭い」人々だと思ってますよ。長崎でも吹奏楽みたいな「変なジャンルw」の人と出会えれば、活動の幅は全然違っただろうなって思った。その希望が少し叶えられたのが、後日の長大バンドとの出会いだった。

*10:中標津高校

*11:今で言う「クソバイス」「クソリプ」だ