恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

無感情からの開放

田嶋陽子さん。私も好きだった。

c71.hatenablog.com

コチラを拝読して思ったことなどを*1

自分が「いろんな抑圧から開放」されて「言いたいことを言ってもいいんだ」「怒ってもいいんだ」となった20年くらい前。それからは「怒りを表明する快感に溺れて」ずいぶん怒鳴り散らしたりしたなあ。懐かしい。

このブログで以前まとめたけど、1年くらい前ですかね、ろくでナシコ先生の話題と同時期に、何かの女子タレントが「田嶋先生みたいになりたくない」とか言って叩かれてたけど、僕はあれも「一種の抑圧への抵抗」だったんだろうって書いたけど、今もそれは間違ってないと思ってる。
結局「業界ミソジニー」のなかで生きるためには、俳優や一女性である前に、まず「ホステスとして」ああいうこと言わなきゃならない わけで、それくらい根はかなり深刻だってことなんだな。それがよくわかるから、僕は彼女を悪く言うことはできなかった

いま自分がやってるアイドル関係の仕事が充実してるのはいいことだけど「そのせいで言えなくなったこと」はたくさんある。今の僕は「そういう矛盾を体内に抱えている」ので、ずいぶん不健康だと思う。「アイドルとおっぱい募金のどこが違うのか」って考えたりするしね。

そしてそれは音にも現れている。すべての型が出来上がったところに当てはめていくのは「すごい息苦しさ」を感じる。最初はそうじゃなかったんだけど「知名度が上がるに連れ」徐々にそうなっていったのよね。それはとてもよくないなと思ってるね*2

最新の2曲は「シングルではない」。なので「少しだけ自由さ」があった。僕はそこに「怒り」を込めた。この 2曲はどっちも怒ってるんだ!と言った。何の怒りでしょうね。その答えはSzPさんが出した。送られてきた「アルバム曲順のなかに」それはあった。へーこんな曲順にするのですか。。と思ったね。「彼女のなかにも怒り」がいっぱいあったね。リリースを楽しみにしてるといいよ。

当時は怒ってただけでなく「よく泣いた」。つまり僕に「喜怒哀楽の感情が戻ってきた」のである。その前は、感情というものを、無理くり亡きものとして「存在を消してた」ね。抑えてたのではない「消してた」。
抑えてるってことは存在は認めてるてことじゃん?そうじゃない。違う存在そのものを「ない」としていたってこと。それが20年前に蘇り、そこからの僕が音楽家としての本領発揮となったわけだね。

つまりまとめると「田嶋陽子さんは20年前の僕にとって憧れのヒーロー」だったけども、その後20年過ぎてしまって、まったく変わっていない(ように見える)社会を見て「結局ダメなんや…」と「再び喜怒哀楽を閉じ込めてしまっている僕」がいるわけです。

僕が今、直面してるのは「この無力感を再び打開できるのでしょうか。」といったことですね。極めて個人的なことですけどね*3

*1:2018補足。脚注も併せて読んでください

*2:2018補足。今はこう思っていない。型に嵌めてその中で自由度を楽しむことが判ってきた。この気付きは自分の中で大きかった

*3:2018補足。結論から言うと「少し打開できた」と思います。その辺はまた別エントリーとして起こしたい