恋する段差ダンサー

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ポリティカル・コレクトネスの始まり

最近ちょっと考えてることがあって、自分が子供時代の「テレビ」や「音楽」の考察をし始めたら、そういえばこの時代って「米英制作物が圧倒的に多く」て、セサミストリートだけでなく、そういう海外ドラマばかり見ていたなあと思いだし。自分の「ジェンダー」や「差別関係の意識」って、実はそれで養われたのではないか、と気づいたのです。

今いろいろと思い出しながら調べてるところだけど、70年代に既に「普通の家庭ドラマ」や「音楽もの」でも、「男女平等関係」を扱ったり、何らかの「ハンディキャップ者」が普通に出てたり、「何かしらの身体的特徴を話題にしてはならない」というようなことをけっこう取り上げてたのよね。今振り返ると、欧米のPCってその頃から「整えていこうという流れ」になっていたのではないんだろうか。そうするとだいたい40年くらい?

その前の60年代でも例えば「スタートレック」の乗組員には、人種の選別がないように一応考えられてたし(しかしトップは白人)、そう考えると、欧米でも「一生懸命すごく努力して時間をかけて」築き上げてきているということがわかって感慨深いわけです。


ということで自分の「原風景」の流れとして。

かつてココで「僕の原風景は多摩川だった!」という大発見があり、最近になって、そういえば「東京ゼロメートル地帯を舞台にした少年ドラマ」を見てたことを思い出し、江東区あたりや隅田川あたりに出入りしてたのは「そこにも郷愁」があったからだと気付いた*1

そして新たに!自分の「ジェンダー感」や「ポリティカル・コレクトネス」といった考え方は、同時期によく観ていた「アメリカ制作のドラマからの影響だった!」ということが判明した!という世紀の大発見だったんやね。
これらは 70年代からです。60年代のドラマは、まだまだ古臭くて型どおりです。アメリカは 60年代末にいろいろあったからね。暴動とかマーティン・ルーサー・キングとか「そういうの経ての70年代」だから。
バイブルベルト系の保守的な人々が「内心」どう考えてるかは知らんよ。そうでなくて、少なくとも「表に現れる部分として」そういうことには気を使う!ということが正しいやり方だという、いつもどおりのあの国の(そしてたぶん聖書的な)方法ですね。そして「セサミストリート」もそういう方針で作られていた。

これで思うのは、僕がそのように影響受けたのだから、僕と同世代や上下の世代だって「そういうことに影響受けてた人が居るはず!」なので「世の中も変化してるはず!」なのだが、実際は「あまりそれを実感できない」のは何故なんだぜ!?ということに尽きるんやけど、まあ自分も含めて、こういうものに影響受けた派が「おんな子ども」そしてマイノリティといった「立場的に発言力がない層」だったというのが、世の中を変えていくまでに繋がらなかった理由の一つではあるのかもしれない。
例えばいま、自分のFB投稿や番組などで、こういった話をしても「うわー懐かしい!好きでした!」と反応があるのも「ほぼ女子」です。思えば当時も、こんな番組見てるのは「男子では珍しく」て、「自分の趣味は変わっていた」ということは実感あります。だって話せる友だちがいなかったもの*2

そういう趣味だったから、自然に「話が合う女子」と仲良くなり、僕はいっそう「女子的な考え方に近くなっていった」ということなのではないかと思った。
いま敢えて「女子的」と表現したけども、以前も書いたように僕自身は、こういう考え方は「一般的」になるべきと思ってるんだけど、なかなかそうはならない。日本は「隠れマッチョな国民性」だからねえ。「女々しい生き方は受容されにくかった」のよ。

それが「草食系」や「ゆとり」と揶揄される今の若者層によって、どのように変わっていくのか、それを期待してる感じです。

そういう意味でも「アラフィフ以上」には、もう期待はまったくできないなと昨今感じてます。

*1:関連 →karamandarine.hatenadiary.jp

*2:自分の家庭環境のことを考えれば、そういったドラマで描かれる「理想の社会」に希望を感じながら見ていた、ということもあったのかも知れない