恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

業界に蔓延した悪習

:このエントリー内容に関しましては、自分の経験と知識、そして知り得た情報から「こうであるはず」と述べているだけですので、あくまで「私個人の意見」としてお読み頂ければ幸いです。


西城秀樹氏について雑感。

私は歌がうまい歌手は大好きだし、彼のパワフルなパフォーマンスも嫌いではない。母も「御三家」の中では彼のことを一番褒めていた。

そういう実力、そして病後の努力は認めつつも、私が晩年の西城氏に「いまひとつ乗り切れない」のは「今の自分の歌を届ける」とか言いながら、パフォーマンスが「ほぼ当て振りだったこと」なのだ。結局最後まで「真の自分を曝け出すことなく」逝ってしまった*1


昔テレビのドキュメンタリーで「声帯ガンで声を失った紙芝居屋さん」に密着するというのがあった。彼は声を失くしてしまったので、当然、喋る仕事は出来なくなってしまったわけだが、ファンの人が「彼の名調子」を「たまたまカセットで録音」しており、そのテープを譲り受けて、その音声を流しながら口を動かすという方法で仕事を続けた。あれはスゴイなと思った。

あと、フォークルの端田宣彦。亡くなる 3ヶ月くらい前、北山修のステージに出てきてヘロヘロな歌を披露し「パーキンソン病で歌えなくなった。歌というのは感性や音感ではない。筋肉だということを思い知った」と発言した*2


例えば西城氏にもこういうことをやってほしかったのだ。

脳梗塞になって、歌はどのように変わるのか、脳内で描いたままメロディは歌えるのか、自分の中で自分の音感と声帯のコントロールの伝達はどのように感じるのか。そういうことを「実例を示してリアルに語って」ほしかった。

紙芝居屋さんがそうであったように、西城氏だって、自分の歌を流しながら当て振りでも「そうしたいならかまわない」と思う。問題はそれを「お客さんの殆どが知らなかったこと」なのだ。これはお客を騙してるとは言わないんだろうか。

落馬で全身不随になったスーパーマンクリストファー・リーヴが、何かのCMで「立って歩く姿」で登場し、それが「実はCGだった」というので批判されたことがある。西城氏がやってたこともこれに近いのではないか。

そういうことについて「周りの旧友たち」は何も進言しなかったのだろうか。「頑張ってるからいい」と思ったのだろうか。そういう姿を見せることで「みんなに勇気を与える」と思ったんだろうか。でもどうかな。「脳梗塞で倒れたが歌は歌えるんだぜ!」というのがウソだったら、それは同じ病気の人に「勘違いさせて無理させることになる」。そうでなくて「マトモに発声は出来なくなったが、こうして頑張っている」のほうが、僕はよっぽどよかったと今も思ってる。

ひとつだけ彼の名誉のために補足しておく。病後に録ったという新曲は「リアルな西城氏の声」だと思う。レコーディングにどれだけ時間がかかったかわからないが、例えばワンフレーズずつ、ツギハギで積み重ねていったにしても、彼の「リアルな」声で間違いはない。だから病後も、そういうやり方でなら「ちゃんと歌えた」のだ。そういうドキュメンタリーこそ見せてほしかった。

私達は「西城秀樹」というエンタティナーに多くのものを求めすぎたのではないだろうか。そして彼も「過剰に」それに応えようとした。晩年の彼はひところに比べ人気があったわけではない。それでも、彼を知る人物、ファン、そして何より本人が「全盛期の西城秀樹」「頑張るヒデキ」を求め続けた。そうして「等身大の」西城秀樹を知る機会は永遠に失われた。重い現実だと思う。


ココからは余談になるが、というかココからが本題の気もするが、実はこれは「いろいろ複雑な問題」を含んでて、そもそも 実力勝負なはずだった歌謡界〜演歌界で「当て振りを解禁した」誰かがいる わけです。「生声じゃなければ喉も疲れない」から「営業を今までの倍入れられるから」とか。「声の老化もバレない」とか。それは「とある演歌の大物」であると言われている。

僕はそういう話を、記憶が正しければ「90年代終わり頃」には仲間から既に聴いていて「えーそうなんだ…」とびっくりした覚えがある。バレないのか?と尋ねたところ「聴くのは老人が多いから大丈夫なんだ」と。

ところが2ちゃんとか見ると、もうみんな耳が良いですから「殆どの人でバレてしまって」いる。そして「そういうことをしそうにない大御所」みたいな人が率先してやっていることに、誰もがショックを受ける

自分でも分かってるのか、そういう方々は、最近相次いで「紅白を卒業」しましたね(自主卒業しなかった和田氏は衰えても自分で歌っていた)。

こういう姑息な芸能界という現状が「もう20年も」続いていて、そんな中で「西城氏がこのような方法」を取ったことについて「責められるのだろうか?」ということも考える。だって他のみんなもやってるのだもの。もっと辛い自分だってやっていいでしょう。西城氏の晩年活動は、こうした「歌謡界の悪習」によって可能になってしまった「悲しい欺瞞」であったとも言える。彼も被害者なのだ。


昔こういう、歌手のリハビリを題材にした映画があった。ビーチボーイズの友人で「ジャン&ディーン」というグループが居るのですが(一聴して誰でも知ってる大ヒット曲がいくつもある)、そのジャンが交通事故で再起不能に近い大怪我を負い、それ以降のライブが当て振りになったが、あるときテープのトラブルでそれがバレてしまう。その後はちょっと感動的な展開になります*3

西城氏にも、たとえ呂律が回らなくてボロボロでも歌ってほしかった。「それが生き様だろう」って僕は思ったんだよなあ。もちろん本人もファンも「それ見るの辛いのは十分わかった上で」それでもね。


RIP

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*1:口パクという表現が好きではないので「あえて」当て振りと表記する

*2:本当にそうです

*3:映画の日本題は「夢のサーフシティー」。原題は「Deadman's Curve」だが同名の映画があるので紛らわしいから注意