恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

女子力高い系男子 〜 完成への長い道。

ブラック吹奏楽の話はその後も尽きることなく。よほどのトラウマと恨みが自分の中にあると思われw そんなわけで。高校時代の回想含めて、自分がどのように女子力高い系男子になっていったのか、だらだらと長文で考察していくエピローグ。

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今の僕が「女子と親和性高い」っていう話、昔からそうだったわけではないんだよね。いろいろ思い出すけど、子供の頃は普通に男子とも仲良くしようとしていた。
ただ「相手が受け入れてくれない」わけだ。理由はわからない。まあ子供の頃の男子の価値観て「スポーツが出来る」「リーダー的素質がある」「明るい」などということに限られるから、いずれも当てはまらない僕は、男子にとって「仲良くしてもしょうがない相手」だったんだろう。
もうひとつ、コレは友人に直接言われたんだが「スキンシップしてくるのがイヤ」なんだと。昔の僕は「男子にけっこうベタベタしてた」んだよ。それが嫌がられたようだ。そう考えると、僕はよく「ホモセクシャルな方に好かれる」という話をするけども、それも「僕自身の醸し出すオーラ」から来ているのかもしれない。
それから、コレは思春期になって気付いたのだけど、僕の場合「付き合う相手をマウンティング対象」として見てるところがあり、そういうのも嫌がられた気質だと思う。まあ「恐怖政治だった父の影響」だねこれは。

というわけで、幼少時から10代は一貫してそんな感じだったので、次第に「受け入れてもらえる女子の方に交友関係が偏って」いき、前にここで書いたように「彼女らの考え方などがすごく面白かった」から、どんどんそれに惹かれていったんだ、ということになったのね。

「当時の男子の常識」としては、自分の性格は今で言う「草食系」であり、周りから「女とばかり仲良くしてる」などと 大いにバカにされた りしたものだが、今の世の中は「ある世代以降」スッカリそういう常識がなくなったので、それはいいことだと思う一方、当時僕を「それでもオトコか!」などと説教した先輩たちは、今頃なにしてるんだろう、会社とかで居場所なくなってたりしないだろうか、などと思う。


タモリの戦後*1みたいな話を読んで、その読後感と回想など。

まあ実は、子供の頃の僕はちゃんと男子ともコミュニケーション取ってたし、「人付き合い悪いしコミュ症だった」とよく言ってた割には、実際はそこまで酷くもなかったのである。ただ、その方法が「本当に好きだった相手とベタベタしたい」か「マウンティングで下に見てた相手のみが対象」という2種類のみだった、ということなんである。そら嫌がられるわな。

僕はずっと一貫して「自分は断じて性的にストレートである」と言い続けてきた。それは正しいのだが、じゃあ「男子に興味なかったか」と言われればそうでもなく、実際、今でも好きな男性は、俳優で言えば田村正和や福山といった「美男子のみ」である。ジャニにはあまり興味ないけど、例えば吾郎ちゃんとかは好きだし、テレビで TOKIO が出てたりしても観てて楽しいので、やっぱり美形男子は好きだと思う。

そういう自分の気質が相手には受け入れられなかったんだろう。それはよくわかるw 小学生ですよ。そら嫌だろう。でも僕の中では一貫してそういう「仲間内」ということを意識してた様子があって、それが結果的に自作曲の作風(非難ゴーゴーなど*2)へと繋がっていくんだな。つまり僕の目指してたのは「コミュ内のヒーロー」だったのである。

まあそういう経緯があってな「男子にはすこぶる評判が悪かった私」が「何故か女子には好かれ」そっちのほうのコミュでイキイキと発揮されてきたわけやんな。そうして親密になっていく過程で「彼女らの思考がおもしろい」と気づく。そこから、草食系的な流れになり、少女マンガを愛読するようになり、その世界観に耽溺し、そういう作風が生まれてくる、と。
更にその過程で「女子」というよりはそれは「マイノリティ全体の思想でもあるのだ」と気づき、そっちに寄っていく、という過程でもあるね。

しかし私、以前から言ってるとおり、親の教えの通り「日の当たる場所だけ」歩いてきたのよね。だから僕に関わった人全員を、無理クリその「日の当たる場所」に引っ張りだす傾向があるんや。その過程でいざこざも起こるし、こっちが求める「日の当たる場所のレベルとはこう!」みたいな理想に合わない相手と軋轢もあるやろ。今まで上手く行かなかった交友関係というのは、そういうことなのではないかな、と思ったりするのだな。

僕の母が常に「目上の人と付き合うように」と言ってたことは前に書いたが、僕は「年上や目上の人と付き合うのがとても不得手」だった。
僕の中には常に「相手を見下すという視点」があり、それが目上の人と付き合うと出来ないので嫌だったのかもしれない。それ以前に、何度も言うけど「僕は年上から可愛がられなかった」ので、そういう交友自体ができなかった。なんでなのかね、コレの理由は未だにわからない。

そしてコレは最近も続いてるのだ。男子どおしの仲間の輪に絶対入れないのである。みんな何故かよそよそしく「僕が早くどこかに行ってくれないかなあ」というような態度を示す。

ここで長崎のことについて色々書いてたけど、ところが実は、彼の地では「そういうことはそれほどなかった」のである。つまり長崎では同性に「割りと受け入れられてた」のだ。東京から来た僕のことが面白かったのかもしれないし、音楽的に気に入ってくれてたのかもしれない。そういう点ではとても居やすかった土地ではあった。それを僕自身が満足してるかどうかは別として。

話を戻すけど、そういうわけで、年上に相手にされなかった僕は必然的に、遊ぶ対象が年下とかになってくる。みんな自分の言うこと聴いてくれたから楽しかったけど、母はコレについて常に苦言を呈しており、ずいぶん年齢が上(30代以上とか)になってからも「オマエはホント年下としか付き合わないんだからねえ」等と言われた。子供の頃からずっと同じこと言われてるんだよw その一貫性はすごいけど。

子供の頃はそうでもなかったけど、小学5年くらいからかなあ、徐々に「自分は特別」という意識が芽生えてきて他者を完全に見下すようになった。それはマンティングというより「劣ってるからオマエを馬鹿にします」という態度なんである。それがそのまま20代中盤くらいまで続いた。もちろん非難されたりしたから、矯正したりしましたけど、それはあくまで表面上だけです。内心では常に相手を見下し続けてた。

それが20代中盤から、徐々に「本当に優れた相手」と出会うようになり、そうすると流石に見下さなくなった。その時初めて、自分の中で「こいつは自分と同じランク」と思える相手に出会ったということなんだろう。だから彼のことはちゃんと尊敬した*3

そうして振り返ると、前に書いた「好きな男子ならベタベタする」というつきあい方も、当時は気づいてなかったが「その彼は見下してなかった」。つまり自分の中で「その彼は尊敬できる」と思ってたんだろうね。だから好きだったのだ。

女子の方は、というと、これも何度も書いたが、馴染みやすかったのと、考え方に惹かれたので「男子よりは全然ちゃんと付き合った」。またそこに見下した感情は殆ど無かった。ときどきはそういう気持ちもあったよ。例えば最初に付き合った彼女さんは理解し難い性格を持っていたので、すごい見下していた。結果的に振られるけど、まあ当たり前でしょうw
で、その次に付き合った彼女さんが神みたいな人だったので、そこで内面がずいぶん矯正された。その彼女に対しては見下すとかそういう気持ちは全く無かった。相手はどう思ってたか知らないけど、少なくとも僕の方は「過去いろんな相手に対して思ったような気持ちは一切なかった」。
そのへんで自分の性格が丸くなっていき「表面上は穏やかに付き合いができるように」なっていった。そうして社会性を習得していったのだな。コレがなかったらホテルの仕事もできなかっただろう。ホンマ感謝してます。

まあしかし、そういう日々も続かないのね。そういう穏やかな日々からは「何かの創作物」というのは生まれにくいからです。だからまた修羅の世界に戻っていったのだね。その頃に、別な女子に対してだけど「オレは幸せになるのは諦めた。キミは頑張ってね」と言ったことがある。


上で書いた「付き合った相手(男女)を日の当たる場所に引っ張りだす癖がある」というのは、コレはなかなか深い気づきだったなと思う。「マイノリティをマジョリティのルールに合わせさせる」というのとはちょっと違うんだと思うんだよね。そうでなくて、何か「小さな世界でチマチマやってることがすごい嫌い」なんだと思う。そういう意味では「互助会嫌いな自分の気質」ということも判りやすい。コレはまた考えていく*4

ホテルを辞めたあと、旧同僚や辞めたメンバーなどが集まって昔話したことがあったのね。狭い職場だから、派閥とかあって、なになに一派みたいなのあったよねー、お局とかもいたし、みたいな話をしてたとき、僕が「僕はどんな感じだった?どこと仲がいいとかあった?」って訊いたら「いやーアナタは一匹狼という感じで何にも所属しない感じだったよね」と言われた。それが理想的よ~などと言われたけど、そっか僕は一生懸命、まんべんなく付き合っていこうと頑張ってたけど、それは「社会的には一匹狼というような観られ方」をするのやなあ、と思って感慨深かった。多分その後も今も、ずっとそのスタンスが変わってないんだろうなって今思ってるな。

 

★ブラック吹奏楽の話。ふたたび。
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前にずっと吹奏楽のこと書いてたけど、それも含めて、私こじらせたのは多分、高校時代だなとほぼ結論出したよ。中学までは「感覚のいいセレブな子息」が揃ってて「ずいぶん教わっったこともある」し「ほとんど見下す相手とか居なかった」のよ。
それが高校で「専制政治」部活に放り込まれ「高圧的な奴らに囲まれ」、自分の中の「他人は全員アホ」という感情が すごく増幅されたんだと思う。
ブラック部活についての回想を書き続けてて判ったけど 未だに恨んでんのなw 私。まあ酷かったもんなあ。顧問の先生が居なくて「ただの」1個上の先輩や同期にそういうことされた、ということの恨みが相当でかいんだよな。

そういう意味では、中学以降、20代中盤で「こいつは出来る!」と思うやつ(R氏)に出会うまで10年間「交友関係の空白があった」ってことだな。いま思えば、その間の「挫折感や絶望感」はホント大きかった。僕がアラサーに向けてブレイクしてきたのはちゃんと理由があったってことだねえ。

吹奏楽の話が出たので、また一瞬そこに戻ります。6月ころ吹部「ではない」高校同期男女と飲んだ話はしたと思うが*5、そのときに生徒会主催のキャンプの話になって「そういえば!そういう青春行事みたいのあったねえ!」となって、再会女子のほうが「自分は一回だけ行った楽しかった」と言い「アナタも参加したらよかったのに」みたいな話になったので「いやいや吹部にいると、そういうことは全く参加できないんだよね」と。
そうそう、そういう学校行事みたいなものは「尽く無理」なのよ。すべての時間を吹部に割かなければならない欠席とかありえない、というブラック部活だったからね。

そんな話をして思い出したことがあって、1年の時同じクラスのやつが 1名、吹部に入ったのよ。その彼が「夏休みはキャンプに参加したいので 3日くらい部活休みます」と申請したところ、同期先輩多数から「はぁ??なに言ってんだオマエ!ばかやろう」みたいに袋叩きに遭うということがあったのね。取り付く島もないの、そんなもん参加なんか出来るわけ無いだろう常識で考えろ!みたいに、そんなことを言い出すこと自体が非常識、みたいに言われてね。僕らその時 1年だから、そんなことわからないでしょ。

彼だけじゃないと思うが、新入部員の中には(たぶん毎年なんパーセントか)、中学時代の「ゆるい部活みたいのを想定して」入ってくる人もいたと思うんだよな。それが尽く否定される。で、それが嫌でやめると「あいつは根性ない」と批判される。

そういえば僕自身も1年の時、似たことがあって。ちょうど夏休みのある一日に、あるアイドルが街にやってきて大きなコンサートすることになってたのよ。部活の友人と二人で「行こうな!」と楽しみにしてたのに、そんなこと無理だとわかって本当にがっかりした。いや、僕は最後まで行くつもりでいたんだけど、その彼は行けるわけないと察して、その話題を極力避けるようになった。彼は 3年で部長になった男(N氏)だからね、さすが出世する人間は違うなあと、後々まで思ったものだ(同中出身で唯一の友人だったが)。

まあそういう運営が、必ずしも「僕より優れているわけではない人間どもw」と思ってた奴らによって行われてたわけだな。そら恨むわw

キャンプに行けなかった彼はそんなんで、さっさと辞めちゃうかなと思ったんだけど、3年まで続けたなあ(失調症みたいな奴だったのだが、それでも続けてた)。で、散々不満たらたらだった僕も結局 3年まで続けて「大事件起こす」みたいな顛末になるんだけどね*6
それは過去の例から「辞めるとどういう言われ方するかよく判ってた」からでもある。それだけじゃない、それ以降は校内で部員に会ったりしても「冷たい目で観られたり無視されたり」するし、友人だったやつとも疎遠になる(辞めた人間と親しいこともよく思われないので)という、裏切り者的な扱いになるからだね。

僕はだから、辞めた奴に対しては、そういう常識に敢えて逆らって、その後も親しく話すようにしてたよ。当時から「そういう人間」なんだよね私。外れた人に対して親しみが湧くの。今思えば「自分がそうなれなかったから」それを実行したメンバーには敬意を持ってたのかもしれない。

ということで、親の言うとおり「年上」と接しようと心がけたが「相手に拒絶され悲しかった」というところから、高校時代はもっとエスカレートして「どうでもいいような先輩から舎弟のような扱いを 2年間受け」同年代からそれ以上の人間に対する「深い遺恨の感情が芽生えた」わけだね。
それ以降「自分以下だと思う相手は一切尊重しなくなった」し「いてもいなくてもいい存在」というふうに考えるようになった。

戦慄ですね。ヒトラーみたいなヒトは、こう育つんだねえ。


余談ですが、高校吹部が陰湿だったという話で、おもしろいことを思い出した。
ココでよく書いてた空手女子だけど、当時、各パートで反省やら雑談やら書いたりして「回覧するノート」みたいのがあったのね。
で、ある日先輩が「おい、ちょっとこれ見てみ」と言うので見てみたら、その空手女子が、すごい極太の文字で先輩女子の悪口を書いてるのよ…。それも具体的に「〜こういうところは直してほしいと思います」とか「じゃない」の。もう普通に罵倒。バカとか死ねみたいな感じの(もっと凝った陰湿さがあった)。
最初なんだかわけが分からなくて「こ こ こ…これなんですか??」って訊いたら「だから空手女子がこれ書いてるんだよ」と。で「これ仲いいからふざけてるんでしょうか??」と訊いたら「いや。そうではないと思う。」と。
その先輩女子、ちょっと可愛い系で人気あったのですね。まあそれは抜きに、下手だったとか性格悪かったとか、ひょっとしたら問題とかあったのかもしれないけど、それにしても「パートノートに」そんな中傷みたいなことを陰湿にデカデカと書くでしょうかね…。
それでいて、普段の空手女子は「人格者みたいな、真面目一本槍みたいな人」なんです。その普段の姿と、そういう陰湿な悪口が自分の中で結びつかない…。
その辺から当時の私「ああこの人、ちょっと違うんだわ…」と思うようになったのね。

そういう違和感が現在まで続いてたわけで、今はまあ「アリガタイ宗教」を語りつつ、自作の酷い(個人の感想です)出来の宗教歌を歌ってまわってるんだけど「ともかくこの人はダメだ」と。それは高校の頃から判ってた気がしますね。

何度も書くけど、私「中学までと、高校時代との文化的ギャップ」で「そうとうストレスになった」んですよ。なんかそういうドロドロした世界って「中学以前には縁がなかった」んですよ。そんな世界でノホホンと暮らしてきて、いきなり高校で「人間の現実と本性を見た!」みたいなことがショックだった。それは今ちょうど「差別用語がこんなに反乱してることがショックだ」というのと感覚は似てるのかもしれない。


というわけで同期の子と同期の人のお店で会った話に戻るけども、彼女とは小学1年から一緒だったのよね。その後、僕らは「普通に」同系列の中学にエスカレーター進学するのだけど、なぜか彼女だけ別中に行き、そこで一旦離れてしまった。その後また高校で一緒になったという複雑な流れ。この顛末はまた濃い話がたくさんあるので別項で(小学校の担任クソ)。

で思ったのだけど、そういえば私、同期が嫌いと言っても「付き合ってるヒトもいるわ」と考えて、そっか、今も繋がってる相手は、全員「中学までの同期だったのだ」と気付いたんだな。
なんで気づくのが遅かったかというと、その同期の人々はほぼ全員「同じ高校に進学した」からである。だからその縁だと思い込んでたけど、違った、そもそもその前の小中時代から一貫同期だったんだわ。
そう考えてくと、僕の人格や交友も「そこまではまあマトモだった」んだなって思ったのよね。
それからもう一つ。あれほど濃い高校時代を一緒に過ごしたにも関わらず「吹奏楽の連中とは一切の縁が切れたのも象徴的」だって思ったのな。この辺の話は過去エントリで散々書いたので割愛。

で、吹奏楽部「でない」高校時代の同級のヒトなどとは割りと友好的だったと気付いたのよ。特に 2年からのクラスとは修学旅行も一緒だったし、それなりに楽しく過ごした。また、何故かクラスの聡明女子(O平さんという)に目をかけられ、それをステップに僕の地位が改善していったということもあったのね。
そこではみんな「僕の独創性や特技なんかを認めてくれてた」と思う。そして、こっちでは特に「見下すという感覚は生まれなかった」。
だって学力は拮抗してるし、音楽という意味では、同業がいなかったし(クラス替えで吹部は僕一人になった)、見下すも何も「比較がない」のよね。
だから、もし僕が「吹部を離れて別な人生を歩く機会があったとすれば」この高2の時が唯一のタイミングだったと思う。もしそうなってたら、例えば、そのO平さんと付き合ったりとかしたのではないかな(ちなみに彼女は京都の大学に進学したので、大阪の僕は京都に何度か通ってよく会った。その後は3年くらい前、札幌で再会した。彼女は恩人だったし愛着があったんやね)。

そう考えると「僕の人格を壊していった」のは明確に「吹奏楽部だった」とわかる。

ただね、コレは他の「汎ゆる稽古事にも繋がる」と思うけど、人格を壊されるくらい嫌々習得させられたような、例えばピアノとかフィギュアスケートみたいなものとか、そういうのが、のちのち芸は身を助くってことになるんだよ。
僕の場合もそこで「嫌々習得させられたパーカッション&ドラムの技術」が「その後の自分に大いに役立った」ので、その人生を消したり否定するとかは出来ないわけね。
だから「ある一定のレベル以上のそうした特殊技術を持つスペシャリスト」に対しては、本当に敬愛以上の気持ちがある
その「華やかな表面の裏どんだけのトラウマや理不尽なことがあっただろう」と思うとね。
ただ、当時はそれすら「思っちゃいけないこと」とされてたから、今より不幸だっただろうね。そういうパターナリズムみたいな考え方について「疑問と思ってはいけない」という時代だったから、それが成就しなかった人の場合、ずいぶん精神を壊してしまっただろうと思う。

そして、そういう人が家庭を持つと「連鎖で子育ても失敗する」とかだろうね。うちの父みたいにね。とってもとっても難しい問題だなと思う。

自分の人生に於いて、この高2の時のことがなければ、ホントに「暗いだけで吹奏楽しかない高校時代」だったろう。「そこまで吹部に拘らなくともよかったのではないか?」と思うかもだけど、前にも書いたが友人(N氏。後の部長)がおり、しつこく誘われたこと(終いには廊下で早く入れ!と切れられた)もあったけど、今思うともう一つ理由があって、それは「中学時代のセレブ人脈が潰えてしまったのが大きかった」のではないか、と思う。
中学までは別に吹部でなくとも「クラスのみんないろんな音楽を聞き、それについて文化的に語ったりしてた」のだ。
それが「高校で全部なくなり」そういう話を続けたり世界に浸り続けるには、それなりのコミュニティ、つまり専門の部活に入っていなければならなかったのだ。
だから結局僕は、音楽の「話を」続けたいために吹奏楽部に入った のだと思う。しかしそこは、予想に反して「鬼の特訓システム」だった、というだけのことなのだろう。
何度も言うけど、高校時代の部活仲間で「中学時代の感覚を超えた持ち主などひとりも居なかった」。みんなロボットのように楽器をポロポロ吹いてただけ
こんなの「文化部」とは言わねえよ、と思っていたし、実際に今でも「吹奏楽部は一般的にも体育会系に分類される」とされている。中学の吹部は違ったけどね。

もうひとつ。僕はよく「同性に嫉妬される」のだ、とよく言うけど、この高2〜3の時の「クラスには」それがなかったなあと気付いたのだ。みんなが僕に「特に何も思わない」から「こっちも何も反応しない」。したがって「穏やかに過ごせた」のだな。
それも部活と大いに異なった部分だった。部の時は常に「先輩男子に嫌味を言われ」「嫉妬されて」いた。呼びつけられて「オマエ女子に可愛がられてるからっていい気になってんじゃねえぞ」と恫喝もされた。
しかし「クラスの方ではそんなことは一切なかった」。例えば先述のO平さん、彼女を好きな同級生が居たのだが、あっさり振ってしまい、僕と親密になっていったことから、内心「これはやばいぞ…」と、自分への嫉妬や批判を覚悟していたのだが、そんなことも一切起こらず、みんな振られた彼のことを「しょうがねえなあ、しかししょうがねえな」などと言っておもしろがっていたので、なんかみんなオトナだなあと思ったものだ。もちろん彼本人も、僕に「特に冷たかったりよそよそしくもなかった」。まあそんなことより、大進学校なんだからみんな勉強のほうが一杯一杯だったんだろう。

この辺の経験がのちのち「普通の人っていいもんだな」と思うようになることに繋がってる気がするね。前も書いたが、僕が音楽する人でなく一般人になるなら、コレが唯一のタイミングだっただろうなと思う。「別に吹部なんかやめてもいいや、ココで楽しいし」と思ったのもこの頃だからね。

まあともかく、音楽系の先輩・師匠・年上系は尽く鬼門。ともかくろくなことがない。ろくなことがないってことは、ろくな奴がいないってことなんで、自分が下っ端になる以外にない 20代前半までは不遇が続くわけだな。この恨みは決して忘れませんよ。ええw

嫌なことばかり書いたけど、ひとつだけ擁護。
僕がパーカスになり最初に指導してくれた先輩(A氏)。この人はそんな部活にあって、そういう専制的恐怖先輩ではなく「穏やか」な人だった。その先輩は子供の頃から音楽経験があり「精神論」にはあまり被れてない人だったというのもあっただろう。それプラス、部の中では「パーカションは緩いパート」だったんだよ。だから自分もなんとかモノになったんだろうね。なので同パートの彼らに対してはありがたいと思ってる。それでもヤッカミがなかったわけではないけどね。

そういえば、部活OBでも何年かにひとり、音大生になったりプロの楽器奏者(クラブ専属バンドなど)になる先輩がいたが、そういうヒトは「話しても穏やかだった」という記憶がある。なので「そういう先輩に対しては」僕も「嫌な気持ちは一切なかった」な。やっぱり「マトモな人がマトモな道を歩む」のだよね。
そういうこともあって、音大時代もろくな奴がいなかったし師範もクズだったが、まったく絶望はしてなかった。ココはヒドイけど「ちゃんとした場所を探せば」きっとマトモな人は居るはずと判ってたからだな。僕の音楽人生前半は「そういう世界やヒトを探し求めてた時代だった」と言えるんだろう。

そういうわけで、高2時代以降の穏やかな暮らしとともに、いつの間にか僕も「無闇にベタベタしたり見下したり」などという、同性に対する極端な接し方もなくなっていったな。そのことは「相手に寄る」んじゃないかなと思ったな。

補足なんですが、もちろんちゃんと判ってますけど「周りがろくな奴がいない」というのは「イコールその時の自分のランクもろくなもんじゃない」ということになるのですね。そこにもっと「早く気付いてれば」進化も早かったかもだけど、それが判るのはキャバレーバンド時代なんだねー。まあ、判っただけマシですが。

あと、上に書いたが「それが成就しなかった人の場合、ずいぶん精神を壊してしまっただろうと思う」という話は「ほんとに不幸なこと」で、例えば学校の先生で「芸術系、音楽や美術などの教師がエキセントリック」だったりするのは、こういう理由によるものだと思ってる。他にも「家庭でピアノ教室とかやってるヒト」などもそうでしょうね。

つまり「自分が受けた精神的なストレス」も「成就すればこそ!」で、それが出来なかった場合、その行き先がなくなるわけだ。「頑張れば報われる」ということの矛盾がそこにあって、コレ、僕は今、芸術や芸能について語ってるけども、今は「社会全体に当てはまる」んじゃないだろうか。
「頑張ったことは必ずなにかの役に立つ」と言われて頑張ったものの、役に立てる機会など訪れないまま人生を終える ヒトだってたくさんいるのよって話。業が深いですね。

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パラレルワールド

ひとつ思い出したことがある。小学校から「越境通学」だったので、僕の中では常に2つ、もしくは3つの世界が、それぞれ交わることなく、パラレルに進行していた。つまり「学校の世界」「近所との世界」そして「家庭や親戚関係の世界」だな。まあ家庭と外を分けるのはよくあるから、ここでは「社会的に 2つの世界を行き来してた」という話に絞ります。

最初はどうだったか覚えてないし、故意にしてたのかも定かで無いのですが、私それらの、それぞれの世界を「別キャラで」演じてたんですよね。これはハッキリ覚えてる。
「学校での自分」「近所の連中と遊ぶ時の自分」というようにかなり明確に分けていた。
で、ちゃんとそれを統制して「お互いが混ざり合わないよう」にしていた。

どっちも楽しかったよ。そして小学校高学年から塾に通い出すのですが、そこの世界がすごく楽しかったので、そっちの世界で僕は「特技を発揮」してたね。そこの知り合いから少女漫画を紹介されたし(その相手も男子)、その頃の「塾での世界が今の自分にけっこう影響は大きい」と思う。
そういう楽しい新しい世界だったが、それを「学校生活には決して持ち込まなかった」。別な世界であると割りきって「別キャラを演じて」いた。中学になるとそれに部活が加わって「それも混ぜないよう」気をつけてた。

それで高校になったとき、不幸なことに「それら全部が混ざってしまった」んだよな。例えば塾で一緒だった奴が同じ高校に来てしまったりとか、クラスのやつが部活に入ってきてしまうとか、そういうことが起こり始めて「それぞれの世界ではキャラを分ける」という自分の生き方が通じなくなってしまった。
このことで高1の時の僕は「ずいぶん辛かった記憶」がある。どう接すればいいのかわからないわけです。だからすごいコミュ症になったよね。

で、それが高2からのクラス替えで「全部解消」されたわけですね。塾で一緒だった奴も消えて、部で一緒だった奴も消えて、純粋に「クラスはクラスのみの世界」になった。そうして「他の世界とスッカリ切り離す」ことができて、再び楽しく過ごすことが出来るようになった、ということだったんだな。

この「キャラを分けて生きる」というやり方で僕は「どう救われてた」んだろうか。

どれかのキャラは嫌で「無理クリ演じてた」んだろうか。

確かにそうかもしれない。たぶん、開放的だったのは「近所や塾での活動のほう」だったと思う。でも「じゃあそれだけでよかったか」と言われれば、それも違う。
学校は訓練の場であったし刺激の場だった。自分が「他者から影響を受けて伸びていけたのは学校の環境があったから」だね。

つまり「学校の世界はインプット」だった。そして「塾の世界はアウトプット」だった。そんな感じがする。

そんな感じで、子供の頃から「複数の別な世界を別キャラで行き来する」ことで、ヒドイ家庭でキツかった精神状態のバランスを取ってた のかもしれない、とも思う。

今でも「ネットとリアルで分ける」というのはよくありがちだけど、私こうやってネットで大量の文章書くけども、実は僕にとってのこういうネット活動は「インプット」ではないかと思ってる。

 

★特別視され続けた子供時代

ということで、話は微妙にリンクしていくわけですが、こうして振り返ってみると、街唯一の国立付属小中、そして軍隊部活&高校時代、と、僕は「普通ではない」学校の生徒として12年間過ごしたわけだね。学校内ではみんな条件は一緒だったからよかったけども、一歩外に出ると、常に「あの学校の生徒」というように「特殊に見られ続けてた」わけだ。いつしか僕は、その「常に自分に付きまとう枕詞的な偏見が」すごく重くなっていたのかもしれない。

大げさじゃん?気にし過ぎなのでは?と言う人もいるかもだけど、いや断じて違う。近所のおっさんから、同年代の知人、親戚一同まで、みんながみんな実際にいろいろ言ってくるのですよ。「あの学校に行ってるのか」と。で、その後、様々な言葉が続く。「意識の高い親なんだな」「それは将来楽しみだな」「さすがエリートやな」「えー。それでも○校なの?そんなふうに見えないけど(悪い意味)」というような言葉を、常に容赦なく投げつけられた。
僕は12年間そうして「自分の立場を意識し続けて」生きてきたのだな。だからこそ「別キャラでパラレルに生きたい」と思っていたのだろう。
上で書いたように僕は「別キャラだった時のほうが開放されていて自由だった」と今思ってる。12年間「優れた教育システム()」にいてガチガチに育成されており、その「アウトプット」が近所付き合いや塾など「外部の世界」にあり、その「双方のバランス」でなんとか無事やり過ごしてきたのだ。
そうやって長年にわたって「自分のキャラが分離してることに慣れ続けていた」ところを、ホテル時代以降「統一したい」と考え「それには裸になる以外ない!」という結論になった、という流れだったのだと、そう思いますわ*7

 

★自分の中の精神論との矛盾

ちょっと話は微妙にズレていくんだけども、私「恐怖政治な家庭」や「部活運営」に対して強い憤りを感じてたでしょ。
でも結局「それの成果である」と思われる方式で「名門高校に合格できてしまった」り「ドラム演奏や音楽素養について一定レベル上を習得出来てしまった」ということで、「自分の中でずっと矛盾」を抱き続けてたのよ。
つまり否定して憤ってたけども、結局そういう「自分が否定していたシステム方法論を使って出来てしまったことが幾つもある」わけね。
例えば、僕がもし別な中学高校に行ってたら「今こんなことできてない」し、恐怖政治な部活を経験してなければ「キャバレーとかで頑張れていなかった」のではないか、っていう思いが常にあった。

そういう習得や成功体験が「別な方法で可能になるんだろうか?」もしくは「結局、道はひとつしかないのではないだろうか」そういうことをずっと考えてる。

そしてそれは、自分だけでなく、他人と接したり指導する場合にも当て嵌まるでしょ。そういうノウハウとして「唯一の方法しかないのか」「他にはないのか」って常に自問自答してるわけ。そういったことの壮大な実験が、長崎でやったレーベルだしミルク仕事でもあるということなのね。

過去記事で僕は、恐怖政治を否定 したくて、「そうでなくても上手くなれますよ」というサンプルを後輩に見せた、と書いたけども、そういうことが「もっと上のレベルでも出来るのだろうか」ということを実験してる、ということなんだな。

よくわからないけど「常に答えは相手の中にある」ということのような気はしてるんだよね。

つまり「指導やプロデュースという仕事」は、ある意味「シャーマン」というか「イタコである」ということなのよ。

それを「望んでるのは」僕じゃない「受け取る側」なんだっていう。
だから「求められたらしてもいい」のではないか、と思ったりしてる。

つまり強制は恐怖政治だろう。でも僕だって「合格や技術の向上を自分で求めて初めて上達した」のだ。だから「そういうこと」だったのかもしれない。

ただこれは危険性も孕んでいて、例えば、最近話題になった吹奏楽の指導だけど、今は強制的な物言いはしない代わりに「生徒に結論を出させて、それで導いていく」という巧妙なやり方をするのだけど、それはつまり「ヒトラーとかのやった手法」だし「オウムだってそう」だった*8

トップが1から100までああしろこうしろと「トップダウンしたわけではない」。その集団のメンバーが指導者の「空気や心を読んだ」わけだよね。「こうしたい」と思ってることを言い当てて、それを実現してやる、というのは、こういうことにも使えるので怖いわけです。

「答えは相手の中に既にある」という考えは、僕自身ずっと「僕の音楽は相手のデジャブである」と言ってるのと似ている。

パンクやロックに比較して、一見ソフトそうなのに「ポップスという音楽が怖い」のは、そういうところなのだ。僕は「恐ろしい音楽を作ってる」のである。そういうことは常に自覚していますよ。

ということで話は戻っていくけども。
それが成就しなかった人の場合、ずいぶん「精神を壊してしまっただろうと思う」という話は「部活が終わって引退した部員の顛末」やらを見るとよく分かるというのは前に吹奏楽の話で書いた。

「頑張って→成就し報われる」という循環は限りなく麻薬に近い、というか「そのままドーパミン」だと思うから、そういう方法論でしか何事も成し得なかった人って、ホント大変だなと今も思ってる。

ちょっと前までは、それについて「自分だけ勝ち逃げしてしまったみたいで申し訳ない」感もあったのよ。でもしょうがないからね、そういう自分の感覚を活かす活動をするしかないと思ったのが、ココ数年ですね。

そういうことは全部、長崎時代に気付いたこと。そういう人たちとの関わりで「僕みたいな人でも役立つ場面もある」ってことをね。だから結局ココでも「別なやり方を提示した」僕がいたわけだ。
つまり散々書いたけど、昭和的絶対主義師弟制度や業界ミソジニー「じゃない」やり方でも可能になるはずだ!という提示です。そういうものとの戦いだということなんやな。

それに「説得力を持たせるのは空論じゃない」。

「実際にドラムが上手かったから誰も僕に文句が言えなかった」という部活時代の話ね。コレと同じく、今の自分も「各種クォリティは絶対に下げてはいけない」と常に考えてる。常に当事者であること、だな。

今もろもろ振り返ると、そもそも僕は「父に認められたかった」が絶対にそれは叶わず。「年上に認められろ」と母に叱咤されていたが、それも叶わず。「精神的に路頭に迷ってた」んだと思う。
それでも「同級や後輩など」に認められたり「女子と感覚が近い」ことが判ったりという救いがあって、それとは別に、誰も想像もできなかった「僕の音楽的素養」ということも自分の拠り所になり、なんとか生きてきたのだと思った。

前にも書いたのだけど、確かに父は凄まじく絶対権力的存在だったが、そんな父ですら「音楽と異性に関する僕の行動だけは止めることは出来なかった」。どんなに押さえつけられても「何度も何度もそこは突破した」。
この貪欲さっていうのかな、それだけは「自分すごいな」と今でも思う。だから今でも、「僕は音楽と女子に生かされた」と言ってるわけです。他は全部諦めたのに「その2点だけは絶対に辞めなかった」という執念が、自分の生命力そのものなんだと。

 

★自分にとってのホモソーシャル

ということで、この壮大な話は最初に戻っていくんだけどもw
男子で、僕が仲よくしたいと思った相手は、覚えてるのは3名くらい。今振り返って「どういう奴だった?」と言われたら、一言で表すなら「頭がいいやつだった」だなあ。これは全員そうだった。別に親に言われたからそうしたというわけではない。やっぱり僕自身が「クレバーなタイプ」に惹かれるわけですよ。あとは前も書いたが外見もスッとしてカッコよかったです。みんな。

だから今考えると「性的な意思はない」んだけども、端的に言うなら「惚れてた」という表現が割と正しい。それにその頃は「異性としての女子を好き」と思ってたことはあるけど「心が通じ合うとかおもしろいとかいう感じ」では惹かれていなかったので、そういう面で心が通じ合えると思ったのは「やっぱり男子」だったんだなと思う。

ちなみにそのうちの2名は転校していってしまうのだけど、その前くらいに壮絶な取っ組み合いの喧嘩とかしたなあ。あれは今でも理由がわからない。転校してしまうのが寂しかったのかもしれない。よくちょっかいとか出してたし、相手はずっとウザいと思ってて、最後に爆発したのかもしれないが。

小学校高学年になると、だんだん記憶もはっきりしてくる。それ以降のことで一番覚えてるのは、前も書いたがやっぱり「他人を自分の思う方向に誘導していこうとする傾向があった」ってことだ。よく言えば「自分がしたいことがはっきりしてきた」ということなんだが、そのためには「こっちの言うとおり相手に動いてもらわなきゃ」ならない。
そういう意味では、かなりきつく指示したり「そうじゃねえんだよ!」などと文句言ったりしたはずです。そういう記憶はある。高圧的とまでは行かないけど(ジャイアンではないということ)、こうしなければならない、ということは、そう相手にさせたということです。だから結構明確なリーダー気質だったんだなと思ってる。

中学になり音楽を始めると、そこがいっそう顕著になったのね。一緒によくやってたギターの友人がいたのだが(吹奏楽の部長N氏)、僕が当時楽器を弾けなかったから、その彼に全部やってもらわなきゃならないんだけど、ともかく全部「こうしてああして」と指示なのよ。
普通バンドとかグループって共同で作っていくもの(とされてる。民主主義)なんだけど、そうじゃないのよw 「僕がこうしたいからアナタそうして」しかないのw
最初は彼も楽しそうだったけど、受験が近くなってくる頃になると、だんだんやってくれなくなった。そのうち「吹奏楽だけの付き合い」になっちゃったね。
今振り返って彼をどう思ってるかというと、ギターも上手かったし(中房レベルとしては)、理論や音感も優れてはいたが「肝心なもの何かが足りない」んだよなあ、とずっと思ってた。そこが不満で納得していなかったから「こっちが指示するような関係でしか成り立たなかった」んだろうなって思う。
だから、こんな不満ならば、いっそ全部「自分ひとりで出来るようになったほうが早い」と思って「独り宅録」とかのスタイルになったんだよな。

で、楽器ができなかった代わりに、ソフト面が充実してきたのがちょうどその頃で、それで女子と仲良くなって来たのよね。当時の書き残したノートとか見返しても、小学校高学年から中学にかけて、ものすごく「言いたいことがたくさんあった」っていうのがわかる。
そうそう、同時期に「別世界キャラ」がもう始まってるので、そこでいろいろ発揮してたしなあ。だからいろんな人と本当にたくさん話をした。その頃の感性は自分でも「すごくいい」と、その後もずっと思ってたので、当時から高校時代までの「そういうノート」は全部とってあり、その後の創作に活かした。

外でそういうキャラを発揮できた、というのは、つまり「そういうキャラが受け入れられてたから可能」だったわけですよ。それなりに人気もあったから、みんな僕と話してくれたんだし、そこから派生して「電話フレ」とかもいたなあ。その後のメル友とかLINE友みたいなものです。そういう充実の活動。

それでも私「男女交際とかそういう関係」は一切しなかったの。「それやるともったいない」って思ってたのもある。特定の人と交際し始めてダメになっていったり、人気を失っていく知人をたくさん見ましたから、そうすると「話やコミュニケーションで楽しめなくなる」じゃん。だから「あくまでソフト面だけで充実」していた。

「精神的つながりがすごく重要」って思ってるのは、この頃のこういう経験のことがある。「楽器のセッションやセックスでの繋がりも楽しい」のだけど、それらはあくまで「精神的につながっていること前提」というのは、この頃のこういう経験が下地ってことですね。

そういうわけで、思春期を謳歌していた私。そんな活発な活動が親に遂に見つかって、その塾を強制的に辞めさせられてしまった、という波乱の中3時代へw

 

★早熟&非モテの中3時代

中学時代は、それでも 3人くらいは好きな子がいた。告白はしなかったけど、誰かに言ってると必ずみんなに伝わるんだよw で、そういうの好きな奴がいて、僕にけしかけたりする。そういう恋愛指南ね。みんないちいち言うことがいっぱしで、頭でっかちな感じだったけど面白かったなあ。もちろん想いは成就することはなかったし、別にそれを望んでもいなかった*9
当時キモキャラだった僕は、相手が「僕だと嫌だろう」と思ってたので、囃し立てられた相手のことは「スマンのう」と思ってたけどね。
ちなみにそんな当時の同級女子が今の私のラジオの担当ですね。彼女はほんとに「恋多き女子」で当時から華やかでした*10
で、何か悩んだりすると「悩みや愚痴を僕に言う」んだよw で、ひとしきり話し終わるとスッキリしたのか必ず最後に「(付きあうのは)アナタでもいいんだけどねえ…」などと言う。まあ「そんなようなこと言う対象」なのね、僕のキャラがw*11

もう一つ、当時すごく印象深かった同級女子がいる。吹部でも一緒だった子で、一時期、僕が好きだという噂が立ったくらい仲はよかったけど、残念ながら彼女が好きだったのは、前述の部長ギタリスト(N氏)のほうでね、僕はやっぱり「悩みと愚痴を聞く係」。でも彼女との話はそれだけではなかったの。もっと深い話までたくさんした。具体的には男女のいろんなことや性関係のことです。あ、実践じゃなくて第二次性徴の話だな。赤裸々にたくさん話した。あれはどうだったそれはこうなった、みたいな話。あとは普段は何してる、自慰はどうした、みたいな話です。
そういう内容の話を彼女も平気で全部僕に言うわけ。僕も特にどうということなく興味深く聴いて「自分の場合はこう」とか話して。だからやっぱり僕というひとは「ある種の女子は話しやすい相手」なんじゃないだろうか、と思ったな。それに気付いてきたのも小5〜中3あたりまでです。
ちなみにその女子は、なんと高校受験の時に落ちてしまいまして浪人。1年後同じ高校に入学してきました。部活に入部してきてしまったので、そこで僕の後輩になってしまった。もし同期のままだったら、もっといろいろ話せたのになあと、少し残念に思う。

2つのキャラを並行してたと言ったけど、そのとおり並行させたままで、どっちもそういう感じだったのよ。小中の方はそういうインプット。で外ではアウトプットなのね。なんつか「悩みのレベルのヒエラルキーがある」とでもいうか。小中での上記の経験と情報が、外でのそういう悩み相談に応用して、他の子たちの悩み解決に役立てられたわけです。そういうことで培った僕自身の考えや、話し方なども、女子が相談しやすかったキャラになっていった理由の一つだったかもしれない。そのように「僕の中でソフト面が蓄積されていった」わけですね。

高1の時に「そういうキャラ分けが一緒くたになってしまって、たいへん生きにくくなった」と前に書いたけど、その1年はホント辛かった。誰も僕のことを「そういう対象として役立ててくれない」わけ。
最初のうちは、さすが随一の名門校だから先鋭が集まってるし僕のことなど屁でもないのやろ、と思ってたが、あとから考えると、そうでもないんだな。なぜなら高2以降はそうじゃなかったからです。だから、高1の時だけ「すごい男子校くさいホモソ環境」だったんだなと思ってる。まあ実際比率も7割男子みたいな感じだった。で部活は軍隊でしょ。僕みたいな「ソフト面の需要なんかない」のよ。だからすごい苦しかった1年間。

だから2年のクラス替えで雰囲気が一変したのは、本当に救われたな。そこからまた僕の思春期が復活するというわけですね。


というわけで佳境でんがな。
長々書いてきて一体何を言いたいのかといいますと「自分の中にデフォルトで備わっているマッチョイズムや差別意識が怖いのだ」という話なんやね。

何度も書いたが、まず父はそういう人間だったわけだし、僕自身も専制的部活運営などを経験して「そういう精神論を身を以て知った人間」であります。

それからこれ大事!なんだけど、そもそも「僕の世代」そのものが「そういう旧社会」どっぷりの世代であり、だから、普通にその中で過ごせば、ごく普通に「そういう人間」が出来上がる、という環境でもあったのです。

確かに、ずっと過去の自分自身の行動パターンを振り返ってきて、多分にマンティングの傾向がありますし、実際いじめっ子でもあったのだから、それを実践していたとも言えるのです。
前にココで書いたことがあるけど「自分の故郷には極力戻りたくないなあ」と思ってるのは、自分が居づらかったからというのもあるけど、もっと大きな理由は「自分がかつて苛めてた相手に対してすまないという気持ちがあるからだ」と。
相手にとって多分にトラウマでしょうからね、そんなところに僕がホイホイ戻っていって、やあ、などと言えるわけがない。
もちろん逆もあって「僕は苛められてたこともある」ので「そんな相手に僕も会いたくはない」。つまりこれは双方にとっていい話じゃないか、と思ったのですね。
僕がかつて「やったこと」を思い出すと、相手は絶対許してくれないと思う。また自分が「されたこと」の方を思い出すと、僕はその相手に対して今も許さないと思ってる。そういう気持ちは大事にすべきだと思ったのだね。

僕が同年代以上と付き合うことについて極力回避してるのは、そういう交友の輪に入ってしまって「かつてのそういう自分に戻るのが嫌」だからなのだね。もともと「デフォルトの僕」が「そういう基質を受け継いでいる」のだから、そういう社会に入ったら、すぐ「旧来の価値観に戻ってしまう」に違いないのです。
元々の僕の中に、そういう価値観がなければ、まあ大丈夫でしょうけど、いやーやっぱり「僕の気質はマッチョイズムでレイシスト」だと思うなあ。そう解ってるから、普段から気をつけてるわけで。
でもふとしたきっかけで、そういう素の姿は出るでしょ。だから「常に避けている」。「狼男が月を見ないように気をつける」みたいな感じで、自分のそういうマッドな気質が普段でないように、そういう環境やトラブルを避ける。
だから「縁を切る」とか「ブロックする」とか、そういうことをするのです。これは、「自分が壊れないようにするための予防」なのだし「対処療法」なのだということやね。

そういえば、ジョンレノンも、ずいぶんマッチョでバイオレンス好きでレイシストだったよね。それを「自分で解ってるから」その後気をつけるようになったんでしょ。
豹変かよ、フェミニストなのは嘘なのかよ、みたいに言う人もいるけど、いいじゃないの。元々の気質は決して治らないよ。「だからこそ気をつけてる」わけだから*12

そんな僕ではあるけど、まあ大変だったことも何度もある。長崎では「九州イズム」に染まらないよう必死で耐えたし、そのせいで交友も失ったけど、いや「染まるよりは全然いい」です。染まってしまったら「僕という存在の意味が無い」。前も言ったが「東京からやってきた私」というものを、みんな受け入れてくれたんだからね。「現地人になってしまっては意味が無い」のよ。

あとは、誰かを指導したりとかのときも、ずいぶん大変だった。

「どこまで言っていいのか」「コレを言い過ぎるとマッチョイズムになるのではないか」「パワハラになるのではないか」ということを常に自問自答して気をつけながらやってるので、ほんとうに疲れますけどね。

でもそこ端折ると意味が無いので「僕は僕のやり方」を通していくしかない。そうして僕の「型」というものが出来るんやね。

「童貞の気持ちがわかるには非童貞にならなくてはならなかった」。
「奴隷的師弟制度を否定するには一度マッチョイズムの実践をしなくてはならなかった」。

そういう意味では「女子のことを知るには男子でいなくてはならなかった」ということなのかもしれない。

対象に惹かれ続けるには「その対象の謎がいつまでも解けず、永遠に判らない」という状態が続かなければならない。判ってしまったら興味を失くすからだ。相手と違うからこそ、その相手に惹かれ続けるのである。

 

★アンチ「ミソジニーホモソーシャル」意識の目覚め

僕が思春期以降、女子的な考えに惹かれていって、いろんな人達と性的なことも含めた濃い話をしていた頃、そのことを知った先輩や同期の連中からは、(当時の常識で)当然のようにこう言われました。「それはお前が オトコとして扱われてない ってことだぞ!?」とね。情けないと思わないのか?とか。だから彼女出来ないんだろう、とか、そこをワンチャンと思ってグッと行け、とか。まさに「据え膳」の話です。それに手を出さない僕は、男子としては欠陥だという扱いだね。

当時の古い風流やそういうミソジニー的なことに関して、いつごろから変だと思い始めたのか。実はそのことの記憶があまりないのです。ただ、こないだ書いたように、中学生前後の時代に、女子の話をいろいろ聞かさせる機会が増えて、それで「自分たちが普段いかに不当に扱われているか」を熱弁されるうち、徐々に変わっていったんじゃないかと思う。そしてそれと、ちょうどその頃出会った「少女漫画的世界観」がリンクして、だんだんはっきりしてきたんじゃないかと思う。

で、それと同時に、だんだん男子を軽く見るようにもなっていった。コレが前に言った「マウンティングでしか付き合えなくなった」という経緯です。中学時代のことだから、そういう自分に「優越感もあった」と思うよ。男子はもうダメだ、父もあんなだし、男子の社会はてんであかん、みたいに思って行ったのだな。コレもある種の中二病だったのかもしれない。
そういう傾向は、ずっと続いた。そういう自分は「こじらせているという実感」はもちろんあった。でも「こういう考えはきっと創作に役に立つ」という信念で、とうとう貫き通した、ということだよな。

ちょうどそういう自意識が目覚めた頃、僕は荒井由実を聴き始めたのです(当時はもう松任谷ですが敢えて荒井を聴いた)。
今の僕は「ヤマハ系ピアノ女子」を好きだと公言してるけども、僕が故郷にいた頃の時代は、ああいう音楽は「男子の聞く音楽ではない」と言われていた。いまだと信じられないけど明確に分けられていたのよね。グリコのおまけが「男の子むけ 女の子むけ」と分かれていたように。

だから、僕が荒井由実を聴き始めたと言ったら、部活の知人とかに「えー?!なんで(オトコの)アンタが荒井由実なんか聴くの??」と驚かれたわね。で、何人かの女子には嫌な顔もされた。「男子のアンタにユーミンなんか聴いてほしくない」みたいな感情が表情から伝わってきたな。当時の実際のファンも女子がほとんどだったはずです。そもそも、男子に人気が出るためには「ビジュアル的にも売りがないとダメ」なので、彼女の存在そのものも、男子にとっては「変な声で変な顔の変な人」扱いされてただけです。そういう需要は「ビジュアルが関係のない同性向け音楽」だと思われてたのね。

当時は「男子はアイドルを好き」だったりするほうが「まだ健全」と思われてた時代だったね。僕も「しょうがないから」部屋にグラビアアイドルのポスター貼ったりもしてたわ。

それが、この自意識の目覚めが起きて「音楽も女子向け」とされてたものに興味が移り「読むものも少女マンガ」に移っていったということでしょうね。同時に由実とか、他にも、ビジュアルを「売りにしていない人」や「そういう消費のされ方じゃない売り方の人」のほうに興味が移っていった、ということになるね。

故郷を出て大阪時代から東京時代前半の下町時代までが、そういう風に「積極的に女子文化を掘っていった時代」だった。そうして僕の中の「女尊男卑的思想」が固まっていったのですな。

この辺で、ちょっと思うことがあるんですけど、そもそも「異性に対してビジュアルを貶す」という感覚はどこで身につくのだろう?と考えたことがある。「肛門期」みたいな感じで「異性と仲良くすることに違和感を持つ時期」が来て、それの反動として生まれるんだろうか。
でもそもそも異性の好みって「あくまで個人の好み」であって「客観数値みたいな評価ではない」と思うのだが、適正体重と同じように、何かの数値以上のビジュアルは「不細工と認定される」というのも変な気はするよね。
しかし「当時のオトナのあいだでは」みんなそう言ってたんだよな。だから「誰かのことを好きだ」と言う場合「すごく勇気が要った」よ。
自分が好きであるかと言う前に、他人にその相手を「不細工認定されないかどうか」ということを心配しなければならなかった。
性格悪いとか悪人だとか言うならアレだけど、そのまえに「外見上でそういう風に評価されなくてはならない」のだから「彼女さんを作る」のも、そういう意味でのハードルは高かった覚えがあるね。

前にも書いたが大阪時代は、幸いにも、そういう価値観とは無縁の「高尚な時代」を過ごした。そうそう、そこでは「女子向け」音楽やマンガを嗜んでる男子もたくさんいた。やはり芸術家の感性は違うものですなあ、と思って、少しホッとしたわね。

それが東京に行って、180度ひっくり返った。みんな僕と同世代だったが、まるで10年前の子供の頃のような価値観をみんな持っていた。それが逆にかえっておもしろくてね。
彼らの言うヘイトな言葉や差別用語とか、好んで聴いてたよ。特に僕の出身地北海道では「西日本に多い差別」の概念がありませんので、「うわーみんなホントにそう言ってる…」と思って感動したね。なので僕にとって、今ネットで散々言われてるヘイトなスピーチや差別表現などの殆どは「本州に出てきてから知ったものばかり」です。

そういえば、北海道の家にはあまり瓦屋根がありません。本州に出てきて、瓦屋根の家が多いので「時代劇??」と思うくらいびっくりして。みんなそんなに古い家に住んでるのか、だいじょうぶなのか、と思ったくらいでしたが、同じように「そういう差別表現」も「古い映画とか本でしか見たことがない」もので「現在社会にはもうない」と思ってたからね「本当にあったんだ!」と知って、心から驚いた、というわけですね。

まあそういうわけで、女尊男卑から、女子向け作品とされる創作物への傾倒と、差別というものが現実にあったという発見と、そういう新しい感覚を上京後の20代にたくさん吸収していったということなんやね。

 

★大恐竜時代

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僕がこうした考えになっていったきっかけの一つとして、実はあるアニメの放送が大きかったということを思い出したのです。それがこれでございます。大恐竜時代(石ノ森章太郎 - Wikipedia - https://t.co/0lPoe2HOcX)。
これはたしか偶然見たんだと思う。なので頭から見たわけでなく、冒頭数分は欠けてみたはず。それから、その後再放送などを二度と見なかったので、リアルタイムな記憶以外は、書店でたまたま見つけて買ったこれのムック本を読んで反芻した記憶しかないのね(ウィキペで調べたら再放送はなかったらしい!)。

当時はもうヤマトとかあったから、アニメというと「マニア(オタクという言葉はなかった)」が観るもので「ちょっと痛い」という一般的な決め付けが「すでにあった時代」です。にも関わらずこれを見たのは、僕自身が女子的なもの、少女マンガ、などといった、それまでとは違う「サブカル的なもの」に惹かれていったという流れがあったんだと思う。なので世間一般の見かたではなくて、僕の当時の思想や交友関係の流れから、途中でやめずに全編見たんだと思うのですね。

今思い返すとこれの内容は画期的で、それまでの「昭和的で男系社会みたいなものを否定していこう」みたいなことで、まさにもう「今の僕が常日頃言ってるような内容」になってるわけです。そういえば僕の曲で「恐竜に捧げる歌」というのがあるんやけど、すっかり忘れてたけど、これがモチーフになってるんじゃないのかな。もっとも、恐竜時代をモチーフに現代社会を皮肉る、みたいな創作物はゴマンとありますから、特に珍しいこともないです。

さて個人的に、このことについてスッカリ忘れていたのは、実は「この作品の評価」にあります。僕があとになって、いろんなアニメオタとか大学の先輩とかに会った時に、好きなアニメとして、僕がこの作品を出したらですね、もう、その話をする相手全員が全員「石ノ森作品の中ではあれは駄作で陳腐で、まったく重要な作品じゃない!」と こき下ろす のです。そうやって否定され続けたので、僕はスッカリ消沈してしまい、この作品についての話題を避けるようになっていって、そしていつしか忘れてたんやなあと思った。

いろいろ思い出すと、ココに出てくる現場のおっちゃんキャラとか、さながら九州男児みたいなんだよね。あれから35年も経ってるのに「石ノ森が言いたかったメッセージはまったく古くない」。というか古くならないのは、未だに「日本に当時と同じ風習が根強く残ってるから」でしょ、という事実が、ちょっと絶望はするけども。それでも自分は「未来は明るいはずだ」という希望は捨てたくはないかなあ。などと思ったね。

 

★高校時代の一般意識に衝撃〜まとめ

もうひとつ。コレはずいぶん前に書いた気がするんだけど、僕がそういう思想になった、高校の時のある出来事があります。
ある日ですね、同期の女子二人組が周りの男子にいろいろアンケートを取っていたのです。何かのレポートにするらしいと。で、やがて僕のところにもやってきて、何を尋ねていたのか、質問の内容がわかったのですが、それは「結婚したとき、妻には家にいて欲しいか、働きに出てもいいか」というものでした。

その質問聴いて「あれ、いまどきそんな保守的な質問するの?」って、少し意外に思った。当時は時代も少しずつ変化してきて、もうそんな封建制の世の中一色という感じでもなかったのよね。

だから僕らも新しい価値観の中で生きてると思っていたし、これからもどんどんそうなると思ってたし、それに他ならぬ我が家の母が働きに出ていましたので、僕としては一瞬の躊躇もなく当然のように「働きに出てあたりまえじゃん」と答えたのよ。そうしたら!その二人の女子が声を揃えて「えええええええ!!!!」と大声をだす。コッチはびっくりして「ななな、なにか悪いことでも言った???甲斐性ないとか思われた??」って思ったら、なんと「嬉しいねー!」と。そして続けて「他のみんなはほとんど全員、妻は家にいて欲しい、と答えたのよ!だから、これはすごく貴重な意見だよっ!!」と。

それを聴いて今後はこっちがびっくりして「えええええ!?そうなの??いまどきそんなヒトばかりなの?」と言った。ホントにびっくりしたねこれは。

二人が去ったあとも、なんだか考えさせられてね、地元随一の進学校でありながら「実情は意外に保守的だった」こととか「僕の考えは少数派だった」こととか、つまり「うちの環境も特殊だった」ということとか、まあいろんなことを思いました。
そんなことがあって、なかなか社会意識というのは簡単に変わるものじゃないのだなあ、と再認識して。その後マイノリティ関係のことを常に意識するように心がけていったということなんやね。
何かというと「今の世の中は少しはよくなった?」と確認しながら活動するクセが付いたのね。それが、ホテル時代くらいまで続いた。

このことは今も何かにつけて思い出すね。例えば夫婦別姓をことさら否定する輩とかも「そういう一味」なのだろうかとか思ったりね。

…九州ではどうだったかなあ。でも妻もみんな普通に働いてたし、そんな旧社会の因習に憤りを表明しながら活動してきた年季女子ばかりだったから「確実に昔とは違う」と思ってましたけどね。

だから、某くたびれハテコが言ってるような環境は、あれは「年齢層が高い」んじゃないかね。もしくはよほど閉じた世界の人々なのか。
オレもさんざん九州の悪口は言ってたが「あそこまでじゃない」。若い人たち、進歩的な人たちは、当地のヒトでも、あんなの大昔の話だと知っているし、誰も気にしても居なかった。

まあこっちは「芸術メディア関係」でもあるし。福岡と長崎は違うと言われたらそれまでだがね。でも少なくとも、内心は何を思ってようが「いまどきそんなことを実際に口に出したら叩かれる」ということは判ってるくらいの賢さはみんな持っており、敢えて言うヒトなんかおらんかった。そういう意味では、僕は環境に恵まれてたかもしれないね。


「やっと」まとめになりますけどもw

そんなわけで、若い頃から現在まで、僕は一貫して「旧社会感に憤りを感じる表現者たちのアシスト役となっていた」ということなのです。そもそもの始まりは一人でも、その周りの考えを同じにする者たちや、似たもの同志が集まってきて、そういう輪を形成するのだろうね。だから「僕の周りには古い考えの人が寄ってこなかった」わけです。

特にココ10年は僕も実力的に頭角を表していたので、何か不満がある旧体制の人でも、何も言えんかったやろうね。それは僕自身が「常に凛としていることを信条に生きてた」ので、そのお陰もあるでしょうね。

そう考えてみると、前にここで書きましたようにですね、かつての吹奏楽でやったこと、つまり「旧体制を壊すため率先してその世界に出入りして、旧価値観を覆す活動を続けた」という話と同じことになるのです。
その時も、先輩の多くは僕に文句があったに違いないが「僕のドラムがそこそこ上手かったため文句が言えなかった」という図式だったんやね。それと同じことが長崎でも起こったということだろう。

こう書いていくと、僕はずいぶんな活動家のように頼もしく見えるけども、まあ、よくご存知のようにw 「決してそんなことはない」のよ。

ただ、常に「疑問を持っていることに対して退かない」ということがあるんだと思う。で、同じような考えのフロントタイプの人がいたら「それをバックアップするようなアシストを率先してやってる」というだけなんですね。

自分が出来ることは限られてるが「その人の障害になるようなものを取り除く手伝いくらいはしましょう」ということです。

僕の基盤は、長年培われた「そういう価値観にあった」のだね。

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*1:『タモリと戦後ニッポン』近藤正高さんにインタビューしました - アオヤギさんたら読まずに食べた

*2:高校時代に作ったオリジナル曲

*3:BassistのR氏である → 好敵手の出現で大いに伸びた話

*4:考えた。→ karamandarine.hatenadiary.jp

*5:

karamandarine.hatenadiary.jp

*6:カテゴリー過去記事参照

*7:「裸になる」に関しては別項で

*8:吹奏楽カテゴリー別記事で詳細

*9:当時の僕は「自分が好きになるのはいいけど、好きになられるのは嫌」だった。だから告られたのは全部断ったはず。3件くらいだけど。

*10:midori さん

*11:ちなみに、決して私は付き合う対象ではありません

*12:マッチョの非マッチョ化。