恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしています。

民主的吹奏楽とアンドロイド。そして希望。

★「空手女子との確執 そして 独裁指導者と部員兵隊とは」
高校の部活時代に同期だった女子が、最近になって妙な音楽活動を開始、あちこちに顔を出すようになり、それが非常に目障りで、そこから、彼女と関わった高校時代の部活(吹奏楽部)当時のことを考察し始め、結局、吹奏楽における「楽器演奏隊」というのは、ただのロボット(アンドロイド化もしくはヴォーカロイド化)人間ではないか、というところから、コラボとは?ヴォーカリストとは?という考察まで至った話をまとめたものです。この壮大連載をハイクに書いてる途中から、奇しくも吹奏楽アニメ「響けユーフォニアム」が開始され、その半年間、これについて考え続けることになります。「前・後編」プラス「派生編」が 2本、そしてプロローグ1本の 計 5部作「大感動」巨編となっております*1

 

f:id:maicou:20180723005600j:plain

 


高校時代の部活同期で、吹奏楽を 6年間やったあと空手部に転向した女子が居た*2
この女子、別に音楽性があるわけじゃないが、中学時代の指導者が優れてたので(市内で有名な先生)、高校時代も楽器は上手かった。野球の監督とかもそうだろうけど、こんな何もわからない奴をカタチに仕立て上げるんだから、大したもんだと思ったよ。

で、ちょうど10年くらい前、ミクシー(笑)で再会したんだが、なんと新興宗教にどっぷりハマッており、ドン引き。で、音楽作りをちょっと手伝って欲しいと頼まれたので色々聴いてみたが…その宗教観に則った…箸にも棒にもかからない「困った」曲で。。最終的に「できません」とお断りしました。やっぱり「兵隊さんは兵隊さんにしかなれない」のなあ。まあでも、本人はそれで幸せなんだから、別にいいのだろう*3

さて。
高校の部活*4には派閥があり、僕らの時代は、その空手女子出身中学*5閥が主流派だった。確かにみんな上手かったし、指導法や運営も、中学時代の指導がよかったのであろう、理に適ったものだった。
自分らの代の政権になったとき、その政治力もあって部のほとんどの役職を彼らが占めたけど、部長だけ「うち中*6」のN氏になった。辛うじて独占は阻止したわけだな*7

僕は根っからの反主流派なので、奴らの色に染まることが許せず*8、何かと対抗していた。野党みたいなもんw 今でも、そうやって反対してたことのほとんどは正しかったと思ってるけど、人間味のある「音楽」ということについてだけは、彼らのほうが正しかった、だから言うとおりにすればよかったかも?と思うこともある。
つまり「取り立てて素養があるわけじゃない」空手女子みたいな人を、技術向上という一面だけに絞って上手く伸ばしていく、というのは、やっぱり並の人間には出来ないわけです。
「音楽性」は指導者が色付けしていけばいい。生徒は主体がなくとも、つまり「ヴォーカロイド」でも構わない、それより、そうやって勝ち抜いていき、喜びを与えて、それを団体で共有していく、ということだよね。それは「吹奏楽という団体競技」では正しいのだった。
団体ではなくなったとき、個々の人間性、素養、才能なんかで、その後の明暗が別れるけども、ある種の「数学の問題を解く」みたいなことと一緒で、ハードルをクリアしていく、という訓練にはなったんだろうね。だから、楽器演奏だろうが空手だろうが、彼女にとってはそこに差はなかったということなんだろう。
僕はそういう人じゃないからね、話が合うわけはなかった。でも、その方法論だけはちゃんと吸収したのだね。

 

当時の部会とかミーティングは面白かったよ。彼ら派閥の指導者>部員、という方法論について、一部の部員からは「それは独裁だ!ファッショだ!」と言われたりしていた。白熱してたよなあ。若かったw

まあ僕も似た考えで「音楽性というのはパーソナルなものだから」自発的に産まれて自分自身で「そういう演奏」が出来なければ意味が無い、という思想だった。あたりまえです。他人に「やらされる」音楽なんか意味が無い でしょう。
だから個人の才能をいつも信じてたのね。みんなで頑張って、いろんな音楽を聴き、こういうフレーズはどう吹くべきか、とか、どう解釈すべきか、みたいなことは「あくまで自分自身で掴んでいくもの」。そうして、みんなで話し合って合議制で出来上がるのが「団体音楽」と自分は思ってたの。

でもオーケストラとか吹奏楽、という団体音楽は、そうじゃないのよ。指導者、指揮者がいて、そのヒトが色付けもし、解釈も与え、曲を音楽的に作っていくわけ。
なので、僕の考える音楽とは、今考えるとバンドぽいのだよね。みんなで考える。でも、部活はそうじゃなかった、ってことなんだ。

市内随一の進学校だったし、みんな独立心あるからね、後輩とかも、そういう首脳陣の方針に納得行かない、反発する後輩たちが多く、僕はよく相談されましたよ。「どう思います??これでいいんですか?」みたいな。僕は反主流派だと思われてたので、そういうことでよく声がかかった。そういう意見を受けて、僕も部会では積極的に、反体制的意見を述べてたよ。

今思えば、首脳陣も、もっと分かるように「クラシックの団体音楽」とはこういうものだ!と説明してくれればよかったんだけど、それもないのよ。ハナから「あたりまえだろ?」みたいな考えなの。だから、どっちも納得しない。ずいぶん紛糾しました。

今思うと僕は多分に理想主義だったなあと思う。いまでも同じね。「自分と同じ感覚を他人も持ってる」と思ってしまう。だから、理解できない人や上手くならない奴なんかに対して「なんで出来ないの??」と思ってしまうわけです。以前書きましたけど、まさしくブラック企業なのね。

だから私、他人を指導して導いてく、ってことは出来ないなあと思ってます。相手次第なのよね。相手がちゃんとしてることが前提で、初めて何事も叶う。だから難しかったんだろうなあ、と思う。


「音楽とは、専制政治なのか民主制なのか」ということは、それからもずっと考え続けてたね。

吹奏楽なんかの場合、素朴な田舎の公立校などが破格に上手いことが多いけど、それは「生徒がみんな素朴」なんだと思う。だから指導者の言うとおりに素直に色付けされるのだ。
僕らはひねくれてたからね、ブツブツ文句言って逆らうわけ。そして他人の指導なんかじゃなく「自分自身でやりたい」などと思うわけだ。「拙くても、それが自分である」と。

なので、反主流派と主流派を技術で比べても、当然現実的には、カッコわるいことに、圧倒的に主流派のほうが上手いわけです。なのでこっちの主張が「自分が下手のことの言い訳をしてるように」みえる。まあ実際そうなのかもしれないが、そういうややこしい人種だったわけだな。

その時の同期指揮者は、紛糾したミーティングのあと、自分らの意見が通らないとわかり「これで、この部のレベルは、今まで自分が考えてたのより半分程度になりましたね!」と捨てぜりふを吐いた。自分の思い通りに部員が動かなかったことが、本人としては相当納得行かなかったらしい。

僕の場合、個人的な事情として「父が家庭内で極めて専制的に振る舞ってた」ということがあり、その経験から「他人を強制するのはよくない」という考え方になっていたのもある。それはその後もずっと尾を引き、他人に何かさせる場合でも「あまり明確に命令にはしない」という癖がある。あくまで「相手に自発的にやってほしい」と願ってるわけ。
そういう意味では、指揮者の彼みたいなタイプはパワハラ的であり、僕みたいなタイプは、モラハラ的であるというように分類されるんじゃないだろうか。どっちもやりたいことは一緒なのだ。それを命令でさせるのか、空気を読ませるのか、の違いのような気がする。

どっちも相性があるだろうね。僕がコラボなどで上手く行かなかった相手は、前者のような指導者的なことを望んでたのであり、長崎時代、僕のレーベルに残った2名のような人々は、後者のような付き合いを望んでいたのだろう。だから、僕と相性が合ったわけだ。

というようなわけで、僕の中には常に、そういう「悪い意味での遠慮」があって、ずっと燻っていたんだな、ということがだんだん判ってきたのですね。

 

★空手女子。

 

空手女子のことをもうちょっと補足しておく。彼女とはいろんな諍いがあってね、最後には壮絶に言い争って袂を分かったけども(2009年)、そこに至るまでの過程もいろいろあったのよ。
なんだかんだ言って、結局「楽器演奏の才能がある」ということは僕は認めてたので、尊敬してた部分もあったんだよ。一芸に長けてるヒトは何にしろ尊敬できますから。
だから高校卒業して大学に行っても、同じように楽器を続けていくんだと勝手に思ってたんだけど、なんと彼女は、大学では音楽をやめてしまい、空手部の人になってしまったのだ!
それを知ったとき僕は愕然として「キミは出来る子だと思ってたから尊敬して認めてたのに、あっさり裏切って楽器を辞めるとか、ひどいじゃないか!」って怒ったんだよ。いま思えばずいぶん勝手な言い分だと思うけど、当時は本気だったよ。「才能があり本気で音楽をやってるやつ」と思ってたからこそ、認めて話も真面目にしてたのに「真に受けて損した!」みたいな気分。こんなやつだと判ってたら、高校時代もまともに相手なんかしなかった、あくまで逆らって意見なんか聴かずに反主流を押し通せばよかった、と心から思ったね。
10年前に再会した時も、その時の怒りは忘れてなかった。だからこそ、空手からまた「安易に音楽に戻ってきた」彼女のこと、その上「創ったという音楽のレベルに」無性に腹が立ったのだ。もめた理由は、それではなかったんだけども(こっちの都合を考えず一方的に要求を押し付けてきた)、根にはそれがあったんだろう、だから積年の思いが、そこで爆発したんだろうな、と思う。

実は似たようなことは、その中学出身者では他にもあったの。みんな楽器は上手いんだけど「指導者」というタガが外れた時に、ホントにトホホという展開になる。大学で変な音楽サークルに入り、変な先輩に色付けされて、すごく下手になってしまった子とか、自分を見失って、絵に描いたように転落してった子とか。現役当時の凄さを知ってる僕らにとっては、卒業後の悲しい顛末の事例がいくつも起こったの。

そういうのをいろいろ見てて、あの人々は「単に楽器が上手かっただけ」で「自分では何も出来ない人たち」だったのだ…と思った。
とてつもない落胆だったし、いままで自分が頑張ってきたことは何だったんだろう?と。こんなんでオレなんかが音大に行っていいんだろうか、などとずいぶん悩んだよね。

そういう経験から「ただ上手いだけのヒト」について、ずいぶん冷淡に観るようになったのだ。

今こうして振り返ってみると、僕だけではなく、当の彼ら彼女らのほうも、指導者がいなくなり目標を見失ったとき、自分を見つめなおしたい、と思ったことからの、そういう行動だったのかもしれない。でも当時は若かったから、僕はそう寛容には思えなかったの。ただただ、裏切りで堕落だと思ってたね。

そういうことがあって、厳格な師弟制度とか、厳しい指導者と体育会系専制上下関係の訓練で成り立った音楽、というものをすごく懐疑的に思うようになった。「そういうことがなくとも」よい音楽はできる!と。

で、ちょうどその頃、ライブ演奏の機会が多い東京の吹奏楽団(後述)に所属したお陰でドラムが上達してきたんですよ。まあそういう素質があったんやな。で、2年くらい経って、まあ高校生を騙す(笑)レベルくらいでですけど「先輩うまいね~」とか言われるような実力になった。
で、ちょうどそういう状態になった僕は「体育会系指導じゃなくとも上手くなれる」ということを自分自身の活動で実証できるじゃないか!と思ったわけ。

だから僕は、その後、どの団体、どの部活、もちろん自分の母校含めて、どこでも、常に穏やかに愉快な先輩として、団員や後輩に接することにした。
吹奏楽部ってのは、体育会系の色が強いところだから、そういう僕に対して白い目で見たり批判的な人も多かったが、肝心の私のドラム技術が上手いものだから、そんな僕に文句は言えないのよ。なので、ずーっと静かなバトル。あいつは規律を緩める不届き者だが、悔しいけど上手いし後輩に慕われてるので文句も言えん、みたいに見られていた。

ともかく「怖くない先輩」というのが、当時としては画期的な存在だったのよ。

そういう状態が数年続いたのかな。どんどん世代も入れ替わったけど、先輩すごい、さすがだよ~と、常に慕われたw そうして僕の地位が確立して、母校時代の空手女子出身中学メンバー事件で味わった思いが、やっと報われたわけ。

「な?指導とか体育会系指導とか関係ないだろ?そんなのなくとも、自力で、自分の感覚だけで、ここまでは上達できるんだよ」と証明してみせたわけだね。

 

もともと僕が吹奏楽に入ったのは、中高一緒だった友人の勧誘だった(部長のN氏)。音楽の趣味も合ったので一緒に何かしたかったんだろうね。なので、熱心に「早く入部しろ!」と言ってきてた。
やりたい楽器も特にない、と言ったらホルンにさせられて中学 3年間はそれ。ツマラナイし、もう高校ではブラバンはいいやw と思ってたんだけど、友人と同じ高校に行って、またしつこく勧誘されたので、仕方がなく入部した。そしたら今度はクラリネットにされたw ホルンよりはよかったが、やっぱりツマラナイ。それに、使えない社員の配置換えみたいで、明らかに「自分、お荷物じゃん」という感覚があったので、ずいぶん萎えたなあ。で、高1のコンクールが終わって代替わりしてから、こんどはパーカッションに回された(閑職w)

当時から僕は、ロックやポップスをしたかった。でも軽音みたいなサークルの適当さは僕には合わなかったのよ。音楽制作ってもっとストイックなものだし、遊びみたいなチャラチャラしたサークル活動で何かできるわけない、と思ってた。で、クラシックも好きだったし、「真面目な」吹奏楽部のほうがまだいいか、と思ってたね。それに、吹奏楽でも「ポップス」は出来たからね。だからこっちがいいかと思ったんだけど、でもさすがにホルンやクラリネットではね…。

そんな時にパーカッションに回され、閑職だから嫌だったんだけど(当時は何も出来ない奴がしょうがなく配置されたパートだった)、ドラムだと、それはロックやポップスに共通するパートでしょ。なので、徐々に「これはいいのではないか」と思い始めた。それでも、僕はドラマーがやりたかったわけではない、なので、消極的選択としてやっていた、というだけに過ぎなかったのね。

大阪時代は音楽を出来なかったので、東京では演奏活動を絶対にする!と決めてた。しかし、バンドは嫌だった。散々言ってたように当時はみんな下品だったし汚い世界でしたからね。なので、とりあえず吹奏楽で。そうしたら、最近書いてたように、今までの感覚とは違って意外に楽しくて、続けることが出来て上達してきたという流れ。

僕がやりたかったのはドラマーではない。なので、その「楽しくなった」時点で、一度やめたの。楽しかったから、もうじゅうぶんだ。次はいよいよ歌で、と思って。で、バンドは嫌だったので、気の合う二人メンバーとユニットを組んで、レコーディング重視にしたの。その頃の曲が「非難GOGO」とか「八街ドリーミング」とかですね。曲レベルとしては意外によかったんですよw でもね、当時の機材はバカ高くて、自分が作りたいイメージの音にするには、学生の素人が買えるような機材では全然思うように出来ないのよ。それもあって、作品レベルも頭打ち。で、あーこれはもう、これ以上は無理だよね。ってなって。こんなレベルの活動してても、他の連中と一緒だ、って。インディーズでちまちまやって何年かしたら就職して引退して趣味になって…。っていう将来が見えてしまった。これ以上になるには、もっと別な画期的変換が必要だったんだな。だから、その活動を一旦やめた。

で、西新宿「聖地」でバイトしながら、今後どうするかねえ、と考えてたんだけど「結局ドラムも中途半端でやめちゃったよなあ」とか思って「部活の先輩や空手女子みたいな奴らを見返すことは出来なかったなあ」などと考えてたら、なんか悔しくなってきてね。

で、今後どうすればいいかわからないけど、今!出来ることをまずやろう!ドラムなら出来るんだから、とりあえず「それ」やろう!と。でもう一回、突き詰めてみるべ!と思ったんだな。そうしてドラマー復活して(2年ブランク)バンド活動を始めた。
ロックバンドとか下品で嫌だと思ってたけど、ひとつ気がついたことがあったの。それは「バンドがいやでもドラムなら我慢できる」ということです。
ドラムというパートは「バンド内では治外法権的な部分があって」曲が特に好きじゃなくともできるんですよ。頭のなかで、自分が好きな曲にビートを置き換えて準えていくの。曲自体は、そのバンドリーダーのオリジナルなんだけども、自分の頭のなかでそれを分解して、自分が好きなグルーヴやビートに置き換えていく。今で言うと、サンプリングぽい。人力サンプリング。
この発見は画期的だと思ったんだよな。これのおかげで、僕はバンド活動をすることができた。そうして不遇だった時代を耐え続け、夢の90年代が来るまで、だましだましドラムをやりながらやり過ごすことが出来た。
芸は身を助く、という言葉がありますが、不本意だったドラマー技術が、こんなサバイバルに役立つとは思ってもいなかったし、お陰で高校生にも「せんぱいカッコイイ」とか言われて青春で来たしw 人生って案外まんざらでもねえじゃん、と思ったな。

「先輩かっこいい」の話は別に自慢じゃないの。実は意外な布石になります。

 

振り返れば、非リアで何もいいことがなかった高校卒業までの私。
当時はそれを大変不本意に思ってた。しかし、上京して10年くらい経って当時を振り返ったとき、ああこれじゃあ誰にも相手にされないわ…と思った。
僕の頭のなかには常に「正しい音、正しいビート、正しい言葉」が鳴ってた。しかしそれを「アウトプットする術を持っていなかった」。

それは機材が無かったり、自分の技術が無かったり、などの理由による。他人は「僕の頭の中まで入って、僕を判ってくれるほど暇じゃない」のよ。
オトナならそれくらい判れ、と言ってもそれは無理でしょうね。何故なら、東京に出ても、そういう人に出会ったのはせいぜい3人くらいだったからです。じゃあ田舎になんか居るわけないね。それが普通。

上京後、僕がメキメキいろいろ発揮してくると、当時の知り合いや親が明らかにうろたえていた。僕の中のどこに、そんな素養が詰まっていたのか、誰にも判らなかったからだろう。
僕は僕以外の、すべての他人を信用していなかった。何を言われても聞かなかったし、指導されてもその通りにしなかった。僕は「僕自身が納得し、コレは楽しいからやる、と思ったことだけ」をやり、それが上達した。

空手女子出身中学の話を散々してたけども、僕は彼女たちみたいに他人の指導を受けなかったが「僕自身が自分の指導者になったのだ」と思った。自分を愛せるのも自分をわかっているのも、自分だけなのだ。その内なる自分が、肉体を持った自分自身をコントロールし、導いたのだ。そういう過程だったのだなと思ってる。そして90年代へ。


★その後の私。

音楽も民主制、合議制だと思ってた僕は(ドラマーをやりつつ)それに基づいた個人創作活動をしたのですが、どうも上手くいかない。そもそも、自分と同じ感覚のヒトは、そう居ない。それから、優れた感覚の人は、僕となんか組んでくれない。
それから、いくつかバンドで制作してみて思ったことがあり、それはココで何度も言ってるように、結局「音楽とはパーソナルなものである」ということなんだな。だから、他人との共同作業で作り上げたものは、自分の作品とは言いがたかった。
かと言って、みんなの叡智が結集した共同制作物なのかといえば、そうでもない。むしろ「妥協の産物」なのであった。

そういう現実を経験してね。「自分にとっての音楽」というのが、どういうものであるのか、だんだん判ってきたの。
その時点で、ちょうど90年台を迎えておりまして、自分の気付きと時代性が相乗作用で、僕の音楽が花開いていったわけですね。
結局僕は、個人制作でしか作れない、他人の参加は、あくまで自分ができないこと(ギターや女子ボーカル)という限られたもので、それ以外は必要なかった、ということなど。だね。

で、そういう結論になったとき「それが正しいことなのかどうか」それが判らなかった。というか当時「自分はすごく身勝手で、民主制ロックバンドの常識から外れているのではないか」という気がして、すごく罪悪感があった。自分、ワンマンじゃん?みたいなことです。
バンドや音楽制作において「ワンマン」というのは、「すごく」悪いことのように言われるのね。なので、自分はすごくわがままで、悪いことをしている、という感覚があった。ただ、それでしか作れないから「すません、許してつかぁさい」と思ってただけで、辞めはしなかったけども。

でもやっぱり、こうして様々な経験をして悟ったことというのは、自分は自分のやり方でしか出来ないし、それでええやん!と。むしろそこを極めていくしかないでしょ。という結論だったのだね。


★東京での吹奏楽経験で得たこと。

 

東京に出て吹奏楽団に入った話は書いたけど、出会いがそもそも三田の運動会だったくらいなので、指揮者の方針で「本番がともかくたくさんあるバンド」だったの。商店街、学区の発表会、お祭り、「〜式典」とかでの区歌&表彰式音楽演奏とかね。そういうことが続くバンドは運営にも困らないの。考えてる隙がないからね。みんなが自然にベストを尽くす。まさに「民主的」だ。
そういう経験をして「都会のセンスは上手い下手ではないな」ということを掴んでいったわけだな。誰もそんなこと望んでないのよ。少なくとも市井レベルでは。で、僕自身も自分がする音楽とは、そういう需要だと思ったのね。
そこから都立高校の部活講師に繋がっていき、それ関係の団体に所属することになった。かけもちです。その団体は本番が年一回の定演くらいしかなかった。結成したばかりだったということもあって、しょっちゅうミーティングしてたね。
そこで意見を求められたとき私、こんなことを言った。「みんなゴタゴタ言うけども、例えばガストとかに行って、どのように美味しく食べるべきか?とか考えないでしょう?それと同じで、毎週ココに来て、どうすれば一番いいのか、なんてこといちいち考えなくとも、自然に曲に対して自分がすべきことをすればいいだけ、ゴタゴタ考えることなんかない!」と。
ある意味、話し合い自体を全否定したみたいな発言だったのでちょっと物議をかもしたけど、理解してくれるメンバーもいた。これ今思うと、高校時代と同じで見事に理想主義なのよね。みんなが自分と同じで「みんな自分がすべきことをちゃんとわかってる」という前提で話してるのよ。こうすればよくなる、そう思うことを「各自実行すればいいだけ」と。そうすればよい音楽になる、と。

最近、東京で音楽を掴んでいった過程をいろいろ思い出してて、この話も、ああそうだったわ、と思って、僕は結局、一貫してこういうところは変わってないわけだな。と思った。常に相手に自主性を求め、対等にした上で関係を構築する、というのが僕のやり方だったのだろう。だから、それが出来ない相手とは難しかった。依存的な相手とは組めなかった。ということになると思う。

それが変わってくるのが90年代ね。話がなかなか進まないが、そうして「それぞれの夏休み」になっていくわけです。

 

★佳境

 

このあとの話は今まで何度も書いてたのでざっくり書く。

一時避難的にやってたドラムだけど、高校に出入りして後輩に慕われ、バンドは動員増えて営業三昧。そして友人からキャバレーハコバンに誘われる、という最終局面。
キャバレーでわかったのは、それまで否定してた師弟制度的な指導だけど、相手が尊敬できるヒトか、もしくは言ってることに納得できるなら、それでいいんだ、ということだった。
逆に言いますと、それまで僕に接してた先輩、親、上司みたいな人々は、誰も尊敬できず納得できる説明もせず、したがって言うことを聞く気にならなかった、という、ただ単にそれだけ、ということでしたね。
そう考えると、私「意外に高いレベル意識」を持ってたんじゃないかしら。まあそうですよね、頭のなかでは常に他人を否定してました。それは単に、肯定できる相手がいなかった、というだけにすぎない。
自分のステージが上がってきて付き合う相手が変わってきて、それで初めて自分と感覚が同じ相手に出会えた わけです。そう考えると技術的な上達も大事なんだな。だって、他人はそれで判断するしかないもの。その人の持ってる感覚を「目に見えるカタチで証明できるものは技術しかない」んですよ。
誰も他人の頭の中なんか興味ないの。
アウトプットがちゃんとしてない人には、普通の人は見向きもしない」の。
そういうことがわかった。これ大事(笑)。

そういう経験をして、以降、僕は他人にずいぶん優しくなったね。自分が他人に誤解されてたぶん、僕は他人を表面上だけで判断しないようにしたい、と思うようになった。自分が不幸だったから、後輩にはそれを味あわせたくなかったのよ。
同時に、僕の周りの数名の友人もそう言ってくれるようになった。僕の激変振りを見て「人間て言うのは表面上だけで判断してはいけないもんだなあ、と思ったよ。」と言われた。僕が変わったことによって、周りにも波及したのね。それはとてもいいことだったと思う。

キャバレーのあと「ドラムではやり尽くした」と思って引退したの。でも高校の後輩たちとの付き合いはしばらく残った。ドラムやめるとしてもやっぱり先輩に来てほしい、と請われてたし、別な新設高校に指導に来てほしい、と顧問の先生から言われたりした。そういうのはありがたく請けた。

そんな慕ってくれた後輩ね。何人か居たのだけど、ある日カラオケに行ったのよね。そうしたら、その時のメンバーの一人が、すごく歌がうまかったの。へーーと思って聴いてて、で、ふと、この子に僕の曲を歌ってもらったらどうなのか。と思いついたわけ。
それが「ちゅうかなぱいぱい(仮名)」だったのね。
その子、看護師になるんで看護学校行ってた。戴帽式に来てください!って言われて、横浜まで行ったよなあ。親みたいw みんなろうそく持って歩いて、キャップもらって泣いてた。不思議な儀式だった。ビデオ撮ってくれと言われてたので撮りました。
まあそんなことはいいのだけどw ともかく歌が上手かったので、歌ってほしいって誘った。それが僕の初コラボ「自由になるわ」になったの。あの歌詞は僕が書いたんだけど、でも、内容は彼女が日頃言ってたことです。なので、歌詞見せたら大喜びでね、あっはっは!これ私!とかはしゃいでた。他にももう1曲テストで「赤いスイートピー」も録ったのよw 面白い経験だった。

そしてその3年後くらい。もう一組、僕のファン(笑)の子たちがいて、先輩飲みに行ってカラオケ行くよ!(命令)などと言う。わかりましたよ、ということで着いてったら、そのメンバーの一人が、これまた歌が上手いんですよ。へーーと思ってね。
で、その2年後くらいに、曲作りしてたとき、ふと「この曲に彼女をコーラスで呼んだらどうか」と思いつく。で、声かけて参加させた。そうしたら彼女、テイクワン!だった。一度目の歌を録ったあと、どう?って言うから、どう?って言われても特に悪いところがないからなあ、これでOKとしか言えない、って答えた。この経験は素晴らしかったです。で、この曲は私の代表曲になったよ。「それぞれの夏休み」だよね。

こういう稀有な経験をして、大人数楽団の民主制とか、パーソナルなものだから共有なんか出来ない、とかいろんなことを思ってた僕でしたが、このような「あなたとわたし」という 二人称繋がり というのは、成り立つんだ…と気づいたのね。
こういうことか!こういうことなのか…。と。僕に足りなかったのは「こういう1対1の繋がり」だったのだ。と。目の前の誰かをまず大切に思えて、そして初めてそれが広がってゆくのだ、と。
僕に理不尽なことを言ってた先輩どもや君臨父などが説得力なかったのはそこなんだ、と。何故なら彼らはみんな、目の前の僕一人さえ認めなかったからさ。それなのに社会や世界をよくすることなんか出来ない。もっと言うなら、多分彼らは、自分自身も好きじゃなかったのさ。だから、誰も愛せなかったのだろう。

僕はそういう稀有なコラボを通じて、まず目の前の人と繋がることから始まる、そうして出来上がった作品だから、みんなの心にも訴えることができる、と。そういうことをココで掴んだのだね。

だから基本的に私、それ以降は「それができない人」とは付き合わないようにしたね。もう二度と「愛の無い日々」には戻りたくなかったからさ。それが僕自身で掴んだサバイバル術だったし、創作における信条にもなった。そういうことなんだ。

 

これら90年代の経験で僕が得たものは「安心感」だったのね。誰も信用できず、理解し合える人もいないし、ろくな音楽もない。だから「こんなもんはダメだ」と思いながら生きてた。しかし、そうでないという経験を自分自身がして、「そんなこともないんだ…」と考えが変わった。まともな人が世の中にいることを知り、ホッとしたのだ。

その後スカウトされて、プロの音楽現場を経験した時も同じだった。スタッフ全員がほぼ共通レベルのプロ能力を持っており、その価値観で作業が進行していた。それまでは「日本の制作現場になんかろくな奴が居ない」と勝手に思い込んでたけど、そうでもないんやなあ…と。下品な人々だけじゃない。ちゃんとまともで真面目な人達もおるんやなあ、と(なので「結果」がまともでない場合、組織の問題であることも多い)。それも安心感だったね。

まとめて一言で言うならそれは「希望」だと思う。それは例えば「宇宙人の存在」と似ている。実際に宇宙人、というか地球外生命体が居るのかどうか知らないけど、「絶対に存在しません!」と証明されてない限りは、「じゃあ、どこかに居る可能性もなくはないのね」となるでしょ。
それと同じで、人や音楽も「自分に適したものや世界、人」が、90年代以前の僕は「絶対に存在しません」と思ってたところが、それ以降に「そうでもない」とわかったことが希望になったんだよ。
だから、今、可視化されてない「何か」「誰か」も、存在しないわけではなく、どこかにある可能性がある。その「可能性がある」という希望 なのだ。ゼロではない、ということが希望になる、それは「ポケットの中の一片のパン」でもある。そういう考えを持てた、そして何よりそれを「自分自身で」気付けた、ということが僕の人生を変えたのだと思う。

 

話は核心に迫ってまいります。

「希望」を発見したから自分は生きることが出来た。つまりそれ以前は「希望がなかったから自暴自棄だったし厭世的」でもあった。そしてそれは「世の中の荒んでる人々も同じだろう」ってことです。ヘイトな人とか底辺の人とか、そうなる理由は色いろあるだろうけど、まず第一に「希望」的なものがないのだろうと。そしてそれは、僕の移住先である長崎でも同じだったということです。

今まで書いてきた僕の人生の流れ。どんどん変わってきて旧概念を捨てていったわけですが、僕はそれを「脱ぎ捨てた服」と表現してました。親や世間、理不尽な先輩、封建的団体、様々なものから無理クリ着せられてた服、それを自分でどんどん脱いでいくことで僕は自由になって行った。

例えば長崎に行って起こった出来事は「その脱いだ服が一気に襲いかかってきた」というなことです。
そんな社会で、彼の地の若い音楽家、例えば「昔の僕のようなタイプの若者」がどういう希望を持てというのか。彼らの周りにあるのは、古臭い服ばかりです。そうして、服を脱ぐ前の僕のような状態が一生続き、どんどん荒んでいくでしょ。何かに突出した人の不幸とはそこにあるのです。
そんななかで、ポッと東京からやってきた僕は救世主のように見えたのかもしれない。しかし僕だって「自分一人を保っていくのに精一杯だった」のです。カンダタ蜘蛛の糸みたいなもん。僕ひとり必死につかまってた。その細い糸に、みんなが群がってきたのさ。

こう書くと、ずいぶんな言い方ではないか、と思われるかもしれない。でもね、あくまで個人的見解だと断っておくけども、希望を思わせるような現地音楽家なんか、ほぼいなかったよ。だからみんなツアーで来た東京アーティストを見に行くんだもん。僕の偏見じゃない。みんなそう言ってたんだ。現地の人なんか見に行かない。見ても寂しくなるだけだ、ってね。
そういう中で孤軍奮闘したけど、無理が生じてダウンしたということなんでしょうね。まあでも、これは前に書いたとおり、僕自身が少しでも希望を見せられたかもしれない、この土地はひどいから想像もしにくいかもだけど、日本の音楽界(を構成する人々)は、まんざらでもないから大丈夫だ、ということを僕が自分の活動で伝えることが出来たとすれば、ほんの少しだけ意味があったかな、と思う。

で、こういうことは長崎に限ったことじゃないんだな。日本のどこでも起こってるし、絶望的未来だと思ってる人々がたくさんいるわけでしょ。そういう時に自分が何を出来るか、ということなんだな。
自分一人が希望を見つけて浮かれてたわけですが、再び長崎でどん底を見ることが出来て、びしっと背筋が伸びたわけです。それはとても良いことだった、と思う。

 

★最後に。

 

希望がない土地だったのか。という話は、最後に大学生バンドと知りあい、希望があって安心した、ということで落着したが*9、もうひとつ重要なことを忘れちゃならぬ。それはミルクのKメンバーとの出会いである。結論から言うと、長崎の7年間で出会った大勢のシンガーの中で、実力的、音感的に彼女は飛び抜けており、文句なく一番だった。最後の最後で、由梨をも超える逸材に出会えるとは思ってもいなかったから、本当にびっくりした。
Kメンバーは、それまで出会った子たちと違い、僕が一人で観きれるような相手ではなかった。幸い、ミルクのプロジェクトは僕だけのものではないから、そこは本当に助かった。僕は自分がすべきこと(いい楽曲を書く)だけすればよかった。だから、彼女と100%で対峙することが出来た。僕は彼女の音感と自分の音感をリンクさせ、彼女の脳内感覚を常に意識しながら曲を書いた。それがあんな楽曲になったのだから、素晴らしい出会いだった、と言えると思う。

僕の出会う相手が、由梨→大学生→Kメンと進んでいったというのは、僕自身もそうやってステージが変わっていった、ということだと思う。そう導かれたのだし、自分自身も自らそう進んで行ったのである。

 

 

★続きはこちら。

karamandarine.hatenadiary.jp

*1:カテゴリーで括ってあります → karamandarine.hatenadiary.jp
★プロローグはこちら → Back to TOKYO

*2:空手女子と呼ぶ

*3:そういえば彼女に10年前の再会時こう言われた。「高校時代、アナタと話してると、自分を見透かされてるようで怖かった」と。むかしから「そういう人」でしたのね私w。

*4:湖陵高校器楽部

*5:景雲中

*6:附中

*7:この記事以降も関連エントリーで触れていくが、この吹部には指導教官や顧問、つまり「大人」が関わっておらず、指揮も含めて「全て生徒のみで運営」していた。それ故、様々な問題が起こったのだろう。

*8:今思うと、彼らのやりたかったことは(充実していた)中学時代の方式を高校の部活でも再現することだったと思う

*9:前記事で既出