恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

オリジナル重視という「偏向」について

名曲コンビ、ロジャーニコルズ&ポールウィリアムスが、所謂「ロジャニコサウンド」だったのは、ポールウィリアムス名義のファーストまでで、セカンド以降は時代を反映し、シンプルなシンガーソングライターサウンドになっている。そのサウンドがあまりにも内省的だったので、今でも「曲のほうが」ポールウィリアムスだと思ってる人も多いようだが、実際はこれら*1もロジャニコなのである。サウンドのイメージというのは面白いものだ。


僕は幼少期のある体験がトラウマとなり、それ以降、今も継続してだが、カーペンターズが嫌いである。もっと細かく言うとリチャードカーペンターが嫌いなのである。ただ、カーペンターズがうたう「曲」はいいものが多いと思っていた。それが唯一のジレンマだったのだが、それらが殆どカバーであることを知って以降は、我が意を得たり、とばかり喜々としてそれらの曲の「オリジナルパフォーマー」を探しだし、各曲のオリジナル盤を聴くということをポリシーとして行くことになる。

その課程でポールウィリアムスという人と出会い、そのシンプルなサウンドと語りかけるような唱法に、これこそが「楽曲の本当の良さ」を引き出す名バージョンというものだ!と強く納得したのだ。その考えは今でも僕の中では、楽曲を創ってうたう際の根幹のひとつになっている。そんなわけで、ポールウィリアムスのバージョン*2、に魅せられて以降は、お約束のように他の楽曲についても興味が沸き、そうしてレオンラッセルやバカラックへと続く。その辺はまた別に機会に語れればいいと思う。


さて。僕にそんな「オリジナル道」を歩ませるきっかけとなったものは何だったか。実はそれが、カーペンターズが「カバー」した「SING」という曲なのだ。


実はこのヒット曲「SING」は、元々はセサミストリートの曲なのである。僕は幼少の頃からセサミストリートが大好きで毎週毎週楽しみに見ていたし、気に入った曲が番組内で歌われると、再放送を待って録音したりしていた。そしてある日、新しい曲として「SING」が歌われたのである。番組内ではお兄さんと子どもが楽しく唱和し、ルイスというスパニッシュ系の人がスペイン語で歌うなど、毎回楽しいコーナーだった。セサミストリートで歌われた他の名曲群と共に、この「SING」も楽しい思い出として僕の中に深く刻まれた。


そうしてしばらく経ったあと、カーペンターズの「SING」が発売された。最初僕は、その話を聞いても「SING」とセサミストリートの「SING」が結びつかず、別な曲かなんかなのだろうと思っていた。ところがだ!ラジオで流れたその曲を聴いて僕は驚いた。なんとそれは、セサミストリートの「SING」だったのだ。そして衝撃。オンエアを聴きながら僕は我が耳を疑った。「え??」

そこで流れたカーペンターズの「SING」は、なんと、セサミストリートのバージョンとメロディ、コードが変えられた、似て異なる改悪バージョンだったのである!

その時の僕の気持ちは分かってもらえるだろうか?僕は本当に呆然としてしまい「ちがう!ちがう!これはちがう!!SINGじゃない!ちがう!!」と。今振り返れば、そこでグレて不良になってしまってもしょうがないくらいの精神的ショックだったと思う。


その後しばらくは地獄の日々だった。僕の周りの人々が口々に「SING〜♪」と歌う。良い曲だねーという。しかしどれも「メロディが違う」のだ!その時の僕は、さながら地動説を唱える偏執狂、あるいは「透明人間が見える!」と言い張る変人みたいなものだっただろう。「ちがうんだ!これはメロディが違うんだ!」と言っても誰も聴いてくれなかった。セサミストリートではもう流れてなかったし、僕が主張する「元」のメロディは誰も聴くことができなかった。しまいにはウザがられ、「はいはい、わかったよ」と誰からもあしらわれておしまい。


子どもってのは、それだけ精一杯好きになって聴いてるじゃないですか。それを裏切られたような気がするというか、大切にしてた宝物を母に捨てられたみたいな。そういうデリカシーのない部分が、子供心にもとても商業的打算を感じたわけだよね。そのカーペンターズの曲が出たあと、僕は必死でセサミのシングを毎日口ずさみ、必死に忘れないようにしていた*3


そんな日々の後、やがて僕の中で「SING」は封印され、なかったことにされた。同時に、カーペンターズに対する深い遺恨の感情が生まれ、その音楽も二度と聴くことがなくなった*4


これを読んで「些細なこと」と思われる方は幸せである。僕はそう思えなかった。僕の中に強く残る「オリジナル偏向主義」は、この事件が発端だと思う。そうして過去をいろいろ振り返るとき*5、いつも僕の中にこのことが深く根強く残っていることが判るのである。そうして、今でも僕が創作活動を続けている、そのモチベーションのひとつに、こういった理不尽なことをなくしたい!という強い思いがあることも確かなのである。


その後、僕は多数の演奏経験を経て、そこまで偏屈ではなくなった。ジャズは改変自由だし、カバーものも良いものはたくさんある。オリジナルを超えたカバーもあるだろう。センスが良い「改良」なら大いに構わないのだが、安易な物は今でも糾弾する気持ちが沸々と沸く。それはしょうがない性なのだろうね。今でも僕は、カバーものがコードを変えられるのは、スゴく嫌悪感がある。アレンジが面白くなるのは良いが、コードは変えるな!と思う。ジャズと違い、ポップスというのは、コードも含めての決定表現なので、それを(良くするならともかく)改悪するのは、冒涜じゃないのか、とすら思う*6


もちろん、オリジナルがそれほどコードを重視してなくて、なんとなく創ったものもあるとは思う。それを専門家が綺麗に直したものが良くなる場合もあるし、その結果素晴らしい作品になることも多いだろう。そこはアレンジャーの読解力に尽きると思う。オリジナルの楽曲が、何を言いたいのか。それが読み取れない場合、またはどうでもいいと思った場合、改悪という事になるんですね*7


とまあ、ここまでリチャード糾弾に心血を注いだわけだが(笑)、実は今回の特集をやるにあたって、見直した部分もある。それはリチャードが、バカラックなどの前時代的スウィートポップスよりは、ロジャニコ、レオンラッセルなんていう、渋いところを選んだ、という部分である。そもそもカーペンターズはジャズのトリオから始まったのだし、デビュー曲も「ビートルズ」。更にスワンプやゴスペル、ブルーズといった、ある種、平和な家庭向きポップスとは違う、ちょっと歪な物が混ざった音楽をやろうとしてた。そこは今思えば、彼らの唯一にして最後の抵抗であり、砦だったのではないか。カバー物も、一聴して甘い感じになっているが、実際スコアを見れば、数々のダーティさがそこここに紛れているかも知れない。それは、多分彼らなりの「ロック」だったんじゃないか。そう思ったりもするのだった。そうしてそれが、アメリカの70年代というものだった、と。

なので、売れてきてだんだんネタ切れになってきてジャンバラヤだのシングだの、そんなものを出すようになったのは、本当は不本意だったような気がしないでもない。そう考えると、初期のカーペンターズが本当の姿なのかもと思った。また、残念なその結末も、もっと根深い何かがあったような気がしてならない。つまりオトナになった僕が今思うのは、責められるのはカーペンターズではなく、もっと裏の何かなんだ、と。そこを今後は追求して行ければ、きっと何かを掴むときが来るのかも知れないな、と。


そんなことを思いつつ、またロジャニコに戻って頂けると、気分も和むでしょう。


最後に。Back to ORIGINAL!

*1:主にカーペンターズがカバー

*2:僕の中では完全にこちらが「オリジナル」と思っているが

*3:最近になってYoutubeで発見したとき、当時の記憶のままのメロディだった時は涙が出た。あー僕の記憶違いじゃなかったって。これも自己肯定!

*4:リチャードは他にもヒドいことをしてる。イエスタディワンスモアのコードを後に改悪している。そういうことを平気でするこの男、リチャードは本当にヒドい奴、という認定が僕の中でされた。音楽は一旦リリースされたら、みんなのものです!その思い出や思い入れを、例え作者といえども汚す権利はない、というのが僕の考え方だ。つか一旦発表した物を前言撤回するなんて男らしくない。まあカレン亡き後、勝手にいろいろいじくり回してる様子も、あまり快く思わなかったというのもあると思うが。

*5:例えば id:J2kawa氏との川内氏論争がある。別にJ2kawa氏に対して個人的感情はないんだけども、この件に関しては僕自身、随分と拘り粘着したな、という思いもある。たぶん許せなかったんだろう。もちろん今でも改変を是とする意見は受け容れられないけどね。ただ、それとJ2kawa氏に対する感情はまったく別なので。

*6:変える理由は、その時それぞれの理由があると思うけど、そのアレンジャーの自己表現だったり、こっちの方が良いと勝手に思ってるとか、あとは、原曲が難しいから簡単にする、とか色々あると思う。どっちにしろ、全ての理由も、リスナーを舐めてると思う。

*7:個人的には、ここ10年のJPOP界は、難しいコードもなんでもOKになったのでとても良い時代だと思ってる。むかしは、素人には難しいから、という理由で簡単にされることも多かったはずだし、ちょうど前々回、ニールセダカとガンダムの特集をやったが、あれもヒドい。原曲の、メロディとコードが絶妙にぶつかってる部分が良いのに、聴きやすいように簡単にされてしまって、老舗の和菓子がコンビニの駄菓子にされたようになってしまった。まあ誰を責めるというわけでもないのだが、強いて言えば「時代」を責めるべきか。