恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

釧路を食べられなかった私。

★ Past

こないだ長崎出身者と「故郷」について話してて、私が故郷を全然好きになれないのは食べ物のせいもある、という話になったのよ。
言うまでもなく釧路は漁業街なんだけど、私成人するまで(寿司以外の)魚介類とかほんと食べられなくて、だから有り難みも何もないんだって話をして、ちなみにどんな産物があるかというと「厚岸産の巨大な牡蠣」とか「数の子」「いくら」「カニ」「鮭」「巨大ほっけ」「鮭とば」「貝柱」「こまい」とかたくさんあるけど、どれも一切食べられない!と言ったら「実にもったいない!笑」となったわけです*1

前に書いたんだけど、故郷の連中で東京や大阪に住んでる人々が知り合いに多く、FBで繋がったりしてるんだけど、どの方々もほぼ例外なく日々「故郷を懐かしんで」おり、暇さえあれば「故郷料理」を出す店などに通って飲み食いしてるという「釧路充」ぷりを披露されてゲンナリしとるんですけども、私は故郷が恋しいとか一切ないし、いつまでも懐かしんでてもしょうがないじゃないかって思うんだけど、すごい不思議で、未だによくわからない。

そんでね、ちょうど最近、その「故郷を偲ぶ宴」写真がアップされてたので借りてきてみました。

以下がその模様ですが。
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はい。
真ん中の白い刺し身以外(たぶん)私全部食べられません。
こんなの飲み会で出されたら泣くw
(ちなみに私きゅうりも食べられない)

 

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これもなにかの叩きでしょうか。
素材の味が消されてたら、食べることは出来るかも。


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なんだかわからない。怖いw


というわけで、ああやっぱり私、食べられないわ。
ってなりました。

あとこれ見て思ったのは「これ全部おっさんとか老人の食べ物やろ」と。というのは、私が子供の頃に、親とかじいちゃんとかが、こういうの喜んで食べてたからですね。そんな年寄りくさいモノばかり食べてるんじゃねえ!って思った。なかなかすごい偏見ですね。そんな私ですもん、故郷で食べるものなんかないし、ありがたみもないし、だから懐かしくないし、戻ってまた住みたいとか思うわけがない。ということだったんやね。


★ Now

さて。ところがですね。
最近別件で故郷の、若い人々と知り合う機会があって、今の若い…と言ってもアラフォーまで含んでそれ以前くらいの世代ですけども、その人達と話すと、釧路についてあまり偏った印象がないことに気付かされます。漁業も炭鉱とかも、もう最盛期なんかとっくに過ぎてて、若者世代は「釧路がそんな街だった」ことを知らないんですね。

実は先日、そんな彼らにお呼ばれして手料理をごちそうになる機会がありました。郷土にちなんだ料理で楽しみにされてください、などと言われたので「やば…。また食えないモノ祭りだったらどうしよう…」などと内心恐怖しておったわけですが、いざ出されてみますと、これがどれも口に合って美味しくてですね。


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これはカレイのフリッター?てんぷら?
塩味が効いて食感が穴子っぽく実に美味しかった。
カレイと言えば煮付け(嫌いだったw)しか知らなかった私。
かなりのカルチャーショック。こんなアレンジが出来るの!?と思ったよね。


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これはイワシを揚げたもの。これも美味しくてびっくり!
イワシっていうと私なんか水族館のアザラシの餌しか知らなかったからw
こんなに美味しいんだ??と驚いた逸品。


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これは先程のカレイ、骨を唐揚げにしたもの。
鰻なんかでもよくあるけど、美味しくてビールのつまみにピッタリ。


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そしてこれは「ド定番」ざんぎタレ、略してザンタレですね。
北海道特有の「鳥から」です。もちろん美味しい。


というわけで、こういった品々を提供されて、故郷料理に対するイメージがずいぶん変わりました。見ていただいて気づいたと思いますが、これらの特徴は「全部なにかしらの加工がされている」です。素材ままの提供が一つもありませんね。食べやすいようにうまく処理されている。釧路みたいに、素材が新鮮で加工するなんてもったいない!というような土地でも、今の時代はもう、こんな料理がちゃんと食べられていたんです。

ちなみに、これらをすべて料理してくれた人は「実家が魚屋さん」です。つまり「釧路の魚の新鮮さ美味しさを一番よく知ってる」人であります。そんな人が、こうして美味しく調理されたものを提供するというのは、私が子供の頃には考えられなかったセンスだなあと思いました。

こないだの門司港の記事でも書きましたが*2、街の中心地が賑わっていた昔を懐かしんで、あれがよかった、あれをもう一度!などと言い続けるばかりで進歩のない人々がいるいっぽう、若い世代はこうして、自分の好みに合うよう素材をどんどん変えていきます。こういう部分に、私は少しだけ希望を感じますね。門司港の記事で「レトロなんか要らんわ」と言った意味は、こういうことでもあったのです。


★今回インスパイアされた記事があります。

北海道には、丸餅がない? 雑煮もない? - 日本の最東端で暮らしています

この方は九州から根室に越してこられたようです。長崎に移住していた私と正反対のことをされたんですね。でも意外に多いんです。私は釧路で、移住されてた佐賀と北九州の音楽関係者に会いましたし、また逆に長崎で釧路の人と会いました(2名)。前に私は「自分は西日本に向いてる気がした」と言ったのですが、東端と西端で全く違うようでありながら、実は共通性もたくさんあります(鳥をかしわと呼んだり筑前煮があったり)。そもそも北海道は移住民の土地で、例えば釧路なんか佐賀県からの入植者が多かったそうですね。その人々が自分の郷里の味付けを持ち込んでも不思議ではないです。

それから上記ブログを拝見して思ったのですが、私が子供の頃と違い、今の北海道の美味しいものというと、圧倒的に「スイーツ」が多いんですよ。九州でやる「北海道物産展」なんかでもそうです。スイーツに大行列が出来ます。昔は千秋庵くらいしかなかったけど、今はたくさんスイーツがあります。そら楽しいやろねw そう思いました。ありがとうございました。



★故郷関連(以下からシリーズでリンクを辿れます) 

karamandarine.hatenadiary.jp


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*1:ホッケだけはいま食べる。上京後に居酒屋で食べて美味しくてびっくりした。という話を過去のブログのどこかで書いてるはず

*2:門司港レトロ

ブラック高校時代を下町で上書きした話。

3年くらい前、ココで高校時代のブラック吹奏楽部の「嫌な嫌な」思い出を「散々散々」書き連ねましたが、上京以降についての吹奏楽活動にはそれほど悪感情はないです。それは(過去記事でもちょっと書きましたが)下町の吹奏楽活動に参加して、高校時代のブラック歴史を上書きできたからです。
むしろ、今考えると「上書きするために」それらに参加してたと言ってもいいんじゃないかと思いましたね。

高校時代の部活に関しては、今でも時々夢に見てはうなされて起きたりします。それくらい黒歴史だったし忌まわしい思い出だった。
いっぱしの批評家気取りの部活連中、そして耐えがたい上級生からのパワハラ、時にはリンチ、女子先輩から可愛がられた私に対するやっかみの嫌がらせ、自分が上手くならないのを努力不足才能不足と認めず、宗教に縋りそれを部活内で布教する連中。ろくなことはなかった。
ただまあ、そういった風に「私以外の人々」がそんなだったおかげで、部活内では逆張りのマイノリティだった私も、やがて後輩から慕われるようになったわけなので、悪くもなかったのかもしれないが、その経験は「決して主流派にはなれない自分」というトラウマとして長年引きずっていく。

下町活動は、この記事「「コロッケ町のぼく」から「多摩川」へ。」で書いたように、ある種の郷愁でもあった。北海道では「絶対に」ありえないゼロメートル地帯や、荒川江戸川といった雄大な都会の川べり、そして江戸弁が気風のいい気さくな仲間。もちろん少しは人間関係のもつれもあったが、だいたいはみんな趣味でやってる活動、揉めてもたかが知れてる。それに人材が豊富なので、人間関係がうまくいかなくても、すぐに別団体が見つかり代替可能だったりするのだった。その気楽さ。

おもしろいのは、そういった人間関係のおかげで開放的になり、技術も上達した自分が、その気風を高校部活の後輩たちに逆輸入したことである。なので、卒業後の私の評価は高校部活の中でどんどん上がっていった。現役時代とは真反対になってしまったのだな*1
それはちょうど現在「昭和な風習」が忌み嫌われて、新しい考え方が支持されてるのと似ている。古いままの人は老害と呼ばれ居場所がなくなっていく。思えば、私は高校卒業後の部活で、それとそっくりな経験を済ませてしまっていた、ということだったのだ。

そして卒業10年くらい経った頃、その後輩の中から私のファンだという女子二人が登場し、故郷でのディナーショーや銀座ライブのときに花束を持ってきてくれるという。ここまでリベンジできたら、もう満足でいいのではないか、と思ったな。

まあしかし、それでも当時の恨みは決して忘れませんからね。
という確認のために、この文を書いておきますw

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*1:前も書いたが、私達の部活は卒業後のOBが多数訪問する伝統があった

「砂の器」に関する誤解と考察。

20年ぶりくらいで「小説版」砂の器を読み返してみた。

なんで今さら読み返したのかというと、最近の再ドラマ化やハンセン病の件などで話題になっていたので、自分も懐かしさから映画小説ひっくるめてネット上のレビューや感想などを読み漁ってみたら、意外に「若い世代」の感想が多く、またそれらが「先入観のない」フラットな感想になっていることが、新鮮で妙に面白かったからなのよね。

確かに若い世代は、当然「ハンセン病の歴史」もあまり知らないし、映画や小説の時代背景も知らない。そっかー何も知らないと、普通にこういう感想になったりするんだなあ。へーーと思ったわけですね。また、先入観や前提知識がないせいで「え?そこ??」みたいな疑問を持ってたりもする。そういう若者の感想を読むと、また自分の気持もフラットになり受ける感覚も違ってくる。

そういった流れから、リセットされた感覚というか新鮮な気分で読み返してみたら、以前読んだときとは違う感想を持てたので「なるほどなあ」と思って。それら「若い人々の感想や疑問」を受ける形で 自分も書いてみようと思ったわけです。

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まずこの小説は「新聞連載だった」ということがありますね。江戸川乱歩の吸血鬼なんかもそうだけど、新聞連載の推理小説というのは、慣れてない人がやると「どうしてもクドくなってしまう」らしい。同じ内容が繰り返されたり説明過多になってしまったりする。この小説版について、ネット上の感想ではそれを指摘する人が意外に多かった。自分は以前読んだときも、また今回読み返してみても「そこは全く気にならなかった」し、むしろ「焦らされてる感」があって、盛り上がっていく要素だと思ってたから、人それぞれだなあと思ったよね。そこは「短くて簡潔な文章に慣れてる世代」ってことがあるのかもしれない。また、そういう文章構成を以って「松本清張としては凡作」などと評価する人もいるのが面白かったな*2


「ヌーボーグループ」について取り上げてる人も多かった。確かにこれ、いま読むと「なにこれは」って思う人もいるでしょうねw 

個人的には、なんかこれ、近年に例えれば「サブカル互助会」的サークル活動みたいなものに置き換えるとわかりやすいと思った。「自分らはキミら老害とは違う」みたいな「新しいと称する」表現アート活動みたいなものに置き換えられるのではないかと。要するに「尖ってる」ってことです。
私が散々言ってる「アラフォー逢魔ヶ時」みたいな「こじらせサブカル」みたいな。「新しいはずだった」アート活動がそういう顛末になっていく、そういった人々であると考えるとわかりやすいですね。

上記を踏まえて、もうひとつ「ヌーボーグループ」描写で思ったのは、これ松本清張自身の私怨というかルサンチマンだろ、ということ。つまり松本自身が、この手の連中を「胡散臭くて好ましくない」と思ってたからこその「こういう揶揄的描写」なのではないか、と。

それに関連して、例えば犯人が被害者を殺してしまう「動機」がよくわからない、という感想も結構あった。動機、あるにはあるんだけど「弱い」と。
なぜ弱いと感じるかというと、犯人や、その彼が所属する「ヌーボーグループ」の人々について、人物があまり深く描かれていないからだと。そういう指摘。主人公の今西刑事などの人物、人間描写はかなり書き込まれているのに対し、犯人やその仲間について、あまり描かれていないので投影もしにくいし、動機についても共感しにくい、と。
その理由も、たぶん前述の「松本自身の偏見」による「投げやりな描写」になってるからなんじゃなかろうかと。「新しいアート。新時代の旗手」などと自称していても、蓋を開ければ「こんなクズな連中なのですよー?」と松本氏は言いたいだけだったんじゃなかろうか、と。
この辺は先程書いた、昨今の「サブカル世代のエセアート表現」のことを重ね合わせると、まったく他人事じゃなく、「まあ確かに松本先生の言うことも一理あるわ…」と思い、胸がチクチク痛みますわ。
「グループ」周辺女子の「古い観念」描写、それをいいように振り回す身勝手な「新人類芸術家」など、結局お前ら「新しいこと」なんか何もしてないじゃないか、と言いたげ。

そこから想像していくと、小説のタイトル「砂の器」の意味もわかってくるというものです。「お前らの新しいアート表現なんか所詮薄っぺらいもの」と言いたかったわけです。せっかく大臣令嬢の婿の地位まで成り上がりかけたのに残念でしたねw と。

松本清張氏は幼少の頃から、北九州あたりでずいぶん苦労して育ったらしいです。そんな彼にとっては「新しいアート」などと称する連中も、しょせん「金持ちぼっちゃまの戯言」みたいにしか思えなかった、そう「小説で言ってやりたかった」んじゃないかなあ。

今回読み返してみて、キャバレーやクラブで、犯人とその仲間たちが「新しい人たち」と持て囃されてる場面など、私は「これって龍宮城 感あるよな」と思った。いつか終わってしまう夢なんだと。

そう考えると、判りにくかった殺人の動機も少しずつ見えてくるのです。被害者は「玉手箱を開けに来た人」なのですよ。

ここね、みんな映画版と混同して誤解してるんだけど、被害者「三木さん」は「素晴らしい人格の人」と言われてるけども、小説版冒頭での、犯人との会話で「君が出世して嬉しい。大いに吹聴するから!」と言ってるんですよ。
こういった描写を見ると、被害者の「人格がいい人」というのも、逆に「田舎によく居がちな」おせっかいな人、という風にも考えられます。正義感ある熱血漢、自分が正しいと思った真理で行動する人。もちろん「いい人」なんですよ。いい人なんだけど、それがおせっかいだったりありがた迷惑だったりする。縁談を持ってきたりするようなw
そういう感覚の被害者と、都会にすっかり馴染んで「新しい人種」として生きてる犯人の感覚が、もはや合うわけがない。自分の過去を知ってる「ただの邪魔な人」ですよ。その辺が映画設定と混同されて、読者に伝わってない気がした。
まあただ撲殺するくらいの恨みを抱くかと言えば微妙だけども、そこは前述のように「そういう冷酷な連中だから」ということで纏めたのではないかなあと思った。ちなみに小説には、犯人が子供の頃、被害者に世話になったという描写はないです。なので「恩人」ってわけでもないと思われます。


さて。
楽家が、小説では「前衛音楽」なのに対して、映画版(とそれ以降のドラマ版)ではわかりやすいように「ピアニスト&作曲家」に変更されています。

これはストーリーを盛り上げるためにはとてもいい変更なんだけど、現実的には、アカデミック教育も訓練も受けていない人物が、あそこまで「クラシック」ピアノを弾けるようになるのは難しいのではないか、と。これは私が最初に映画を見た子どもの頃から思ってた疑問です。出来ないことはないけどね。知り合いにもいるし。でも無理はあると思う。

その点、小説の「音響機材を使った前衛音楽」ということであれば「実演はしない」わけだから、じゅうぶん現実的なのよ。特に今なんか、CDですら4畳半のDAWで完成させられる時代なのだから「ループやサンプリングを使用したミニマルアート」だと思えば、普通にあるだろうと*3

超音波の件も荒唐無稽だと言ってた感想がいくつかあったけど、脳内に異常を起こさせるのは可能よね。道路工事の低周波被害とか、工場地帯の健康被害なんかは今でもよくあることです。人間の「可聴範囲外音波」が身体に悪影響を及ぼすという事実は、もっと知られてもいいと思う。


紙吹雪の女についてもツッコミが多かったw でも彼女「そういうエキセントリックな女性」でしょ?ナルシスティックな「私小説風日記」を書いていたような女性ですよ?「私の恋もこれで終わりなのだ」とか浸りながら、窓から紙吹雪撒くとか、いかにもしそうじゃないですか。むしろ「今」居そうじゃないですかw

まあそれを記事で読んで「直感で」犯人と関係あるのではないか?と思ったのは、「うんまあ…そういうこともあるよ」としか思わなかった。その辺は、理詰め推理小説好きには「なんだそれ!」と思うのも判る。もっとロジカルな解決してほしいんだよね?その辺は「小説だから」ってなっちゃうな。江戸川乱歩にだってそういう破綻はあるんだし、ホームズみたいにはいかないよねw


あと面白かったのは「当時の女性の立場」が不当に低すぎる!という指摘です。出てくる女性ほぼ全員が「男性の召使い」みたいになってる。昭和はこういう時代だったんだ、とはいっても、それでもずいぶん男性側が高圧的で身勝手なのは、かなり気になります。

このブログで久我美子さんとかの映画を紹介したとき、主人公が「先進的女性」であったことを書いたと思います(関連記事文末)。それに比較すると、ほぼ同時代だったにもかかわらず、「砂の器」に登場する女性たちは、それらと正反対なんですよね。
この辺も「ヌーボーグループ」や彫刻家の婚約女性だけが「新しくて進んでる」だけであって、世間一般社会は「まだまだ貧しく暗い時代だった」ということなのかもしれない。綺麗事ばかり描く映画ではなくて「こういう底辺がマジョリティな時代」だったのだ、という現実の描写としては、正しいのではないかと思います。


小説版の感想としてはざっとこんな感じだけども、最後に映画版のことを一つ。丹波哲郎森田健作が最初に東北に行った伏線が回収されてない、という指摘。それ本当にそうなのよ。カットされてしまったのかもしれないけど、例えばちょっとでもラストあたりに「あの東北の件は…」みたいな振り返りがあればよかったのにって思う。ただそうすると「じゃあうろついてた男は誰?」ってことになるので、映画の内容では回収できなくなるんだよね。この脚本じゃ黒澤も突っ込むだろう、と思ったw

あと映画館の写真を見て、被害者が何故「秀夫だ!」とわかったのか、これは映画では「ちゃんと」オデコの傷という描写があります。オデコの傷が強調されるシーン、映画内で3箇所くらいあったはずです。みなさん、しっかり観ましょうw

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まあそういうわけで、砂の器と言えば、なんといっても「映画版が有名」で名作とされているし、その後のドラマ化が全部その映画(の設定等)を踏襲してることもあって、「砂の器」を語る、というと、圧倒的に映画版の方を取り上げる人が多いところ、ココでは敢えて「小説版を語る」ということをやってみた。

いかがでしたか。


★関連
久我美子さんと「1950年代の先進的女性」

karamandarine.hatenadiary.jp


 「尖った」新アートの終焉karamandarine.hatenadiary.jp

*1:初版で有名なカッパブックス版。初版は1961年で、手元にある写真のこれは1970年版。確か古書店で買ったはず

*2:もうひとつ意外に重要な点。新聞連載中に犯人当てクイズをやっていたことも内容にブレがある(読者を惑わすため)理由として大きいと思う。

*3:映画リップスティック(76米)の音楽が酷似している。ストーリー上での使用目的も近いものがあるので(もし砂の器を読んでたら)ヒントになった可能性あり