恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

久我美子さんと「挽歌」。そして釧路。

というわけで、今さらながら挽歌と久我美子さんにハマっています。
前にこんな記事も書きました。 

karamandarine.hatenadiary.jp


この作品「挽歌」についていろいろ調べていくと、小説は「大ベストセラー」だわ、映画も「君の名は」に次ぐ大ヒットだわで、文句なしの「ご当地」盛り上げアイテムだろうに、今の釧路で「あまりそうなってない」のは、やっぱり「ダブル不倫を 霧とロマンの街 という表現で美化した」内容によるものですかね。母なんかも昔はやっぱり、これについてはあんまりよく言ってなかった気がする。こんなので街が有名になってもねえ…みたいな*1

あと今「DVD化されてない」んですけど、久我美子さんの設定が「片腕不自由」をコンプレックスとする人で、映画内でも頻繁に「あたしがカ○ワだから同情してるんでしょ!」みたいなセリフが出てくるのですよ。ファッションや佇まい、キャラはすっごく魅力的なだけに、なんかこの部分だけ「取ってつけたような違和感」がある。
興味深かったのは、今見ると久我さん女子の言動って「典型的な試し行動」なんですよね。どうなんだろ、そういう点も含めて、例えば DVD化&一大キャンペーンでメジャー化したりする、などということは難しいのかもしれないなあと思ったな。

そういった事も含めて、改めてこの作品について考えてみた。


★異国としての北海道

当時の日本としては、コレがキッカケで、これまで「誰も知らなかったような北海道」や、その外れにある「一地方都市の魅力」が全国に知られるようになり、みんなが北海道に憧れたりロマンを感じるようになったということらしいのだけど、これ1957年の映画なので、確かに当時は例えば東京からでも、北海道になんかそうそう行けない時代だったから、まるで外国みたいに思えたんだろうなと思った。

これはちょっと前の「黒澤の白痴」も同じなんだけど、北海道をちゃんと撮ったものが当時あまりなかったんだよね。なので、光景とか文化がスゴイ異質に見えたんだろうと。僕が普段から「北海道は外国だ」と言ってる意味がわかっていただけるのではないかと思いましたの。

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2018/01/14 撮影。
釧路観光案内の「挽歌」コーナー。


久我美子さんは、ちょうど自分の母親とかが憧れるような世代のスターですけど、こんな「故郷がいきなり脚光」浴びたりして、当時の釧路女子の方々はどんな気持ちだったんだろう。

当時の距離感事情なんかも調べてみたんだけど、上野〜札幌間が「列車で 26時間」とか札幌〜釧路間も12時間!とか、まあ気軽な距離じゃないわね。まあだから旅行も住むのも相当な覚悟がいるだろう。

長崎にいるとき「あなたが北海道に帰ったら今生の別れみたいな感じになりますね」と言われたことがあるんだけど、九州からじゃ、今でもそういう距離感だろうと思う。
そういえば長崎のデパートで頻繁に行われてた「北海道物産展」が毎回大行列!の大人気だったけど、「なんで??w」とか思ってたけど、もうほんとに「九州からじゃ外国と一緒」ですよ。そんな感じだろうね。この時代の「挽歌」もそのように見られていたのであろうと。

おもしろいことがあって、北海道から本州に出てきたとき僕が一番ビックリしたのは「瓦屋根」の存在だった。それまで瓦屋根なんか、お寺とか、あとは「時代劇」でしか見たことがなかった。本州は未だに江戸時代なのか?と思ったくらい。まじで。

つまりこれは、その逆パターンで、この映画にも出てくるストーブ文化とか洋式な作り(そうしないと寒くて住んでられない)、スカスカな土地空間みたいな絵面は、当時の「内地*2」人にすっごく新鮮に写ったのではないだろうか。

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この写真は坂の上にある病院なのだが、これもすっごい異国感ある。1957年というと「戦後12年」ですよ。こういうロケーションは、どこか「満州などの戦地」を思い出す人も多かったのではないだろうか。

そのように、この作品と故郷についていろいろと改めて考えたとき、初めて自分の中に「故郷を他所の人の目で見る」という視点ができたのだな。

先述の「黒澤の白痴」という映画が「1951年の札幌」を舞台にした映画なんだが、やっぱりそういう異国感がある。黒澤もそういう札幌が好きだったようなのだが、札幌がだんだん近代化、というか「本州と同じような街に新しくなってきて興味がなくなった」と言ってたらしい。
それはまさしく、自分が知っていた故郷の様子とも重なってて、僕は常々、文化的には「80年代こそ何もない、ロスジェネだ」と言ってるんだけども、このように北海道も「内地」と同化しようとして「失った独自文化」はたくさんあったんじゃないだろうか。そんなことを思ったな。


★故郷を「よそ者の視点」として見る

このように今回「故郷を客観視」してみるという気になったのは、もう一つ大きなきっかけがあって、それは「ある人から請けた、故郷に関するインタビュー」である。その彼*3。僕の銀座ライブのときタイバンを見に偶然来てたのだが、終わったあとに突然寄ってきて「実は自分は釧路に月一くらいで通ってるんです!」と。そして何やら資料を取り出し「こういうプロジェクトをやってるんです」と。それがなんと「釧路の魅力を紹介する」というポータルサイトなのであった。更には「半年後くらいに移住する予定です」と言う!
コレ聴いて私「えええええ!??」と思ったわね。そう何処かで聴いたことのあるような話。「僕自身の長崎移住に至る経緯」とまったく同じなんである!
そうして私は「故郷についての取材&超ロングインタビュー」を受け、記事になって公開されたというわけですね。

僕が長崎移住したとき「いい街なのに 住民が誰もその面白さに気づいてない」ということに、いろんな意味で感心したものだが、その彼も今回「当時の僕とまったく同じこと(釧路の人々が街の魅力を全くわかってない)」を切々と訴えてくるので、これは実におもしろい!と思ったよね。

取材で僕は、もちろんそういうこと全てぶっちゃけて、自分が長崎で経験したことも全部伝え、これから貴方にも「似たようなことがどんどん起こるはず」だが ひねくれず 頑張ってくださいと言ったw

まあそんなこともありつつ、毎回帰郷の際に立ち寄る「空港行きバスターミナル(Moo)」に挽歌の展示コーナーと久我美子さんのでかいパネルがあって、それを毎回なんとはなしに「へー」と思って見てたものが、今回の取材をキッカケに「いったいどういう小説と映画だったのだろう?」と改めて興味を抱いた、というのが今回の流れなんですね。

つまり「当地の人間としてはまったく興味がなかった」が「外から見たらどういうふうに見えるのか」ということに興味を持った、というわけです。

あれだけのベストセラー&大ヒット映画だったにも関わらず、市民が比較的冷淡なのは、試し行動女子とダブル不倫、という題材のせいかと思ったんだけど、ただそれだけではなくて、ただ 単に「みんなピンときてなかった」というのが大きな理由なんじゃないだろうか。
長崎みたいに「オラが街が舞台になった!」と自慢&激推ししてくるのもめんどくさいけど、「挽歌?なにそれおいしいの」的な中2市民もまためんどくさいわねw

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MOOにあるパネル。
秋吉久美子さんバージョンのポスターも掲示してある。


★故郷の黒歴史と向き合う

前にも書いた気がするのですけど、故郷の一番大きなCD&書店の店長に「かつての同級生」が就任してたという話がありまして、私の経験上、そういう過去の知り合いが「仕事上の取引相手」になるのは非常にトラブルのもとになります。案の定、このときも拗れまくって、結局いま私のCD関係はこの店にはないと思う。もう既に彼も辞めてしまい店長ではないが、未だに当時の残留店員も居り、遺恨は残ったままだ。
彼に限らないが、街、あるいは「あの世代」の気質として「文化的な人間」があまり居ない、という傾向はやはり否めなくて、つまり彼も書店の仕事なんか「向いてなかった」んだと思うし、そういう中で「かつて当地に馴染めてなかった私」と諍いになるのは、当然の流れだったように思う。

釧路というところは「炭鉱・漁業・製紙業」といった「第1次・第2次産業が中心」に発展した街で、そもそもが「文化的素養」のある土地ではなかった。要するに「野蛮な街」だったのね。
そんななか私が「国立の小中一貫」に通ったというのは、今思うと、自分にとって「文化的オアシス」みたいなもので、唯一の救いだった気がするが、それも高校に行くと「市内随一の進学校なのに野蛮な人々が多数いた」という現実に、心も一気に挫かれてしまう。頭がいいのと野蛮なのは無関係なんだよね。そんなことを思い出す*4

当然のことながら「故郷を舞台にした作品」だから、いろいろ調べていくと、故郷に関係する話題やら人が、当然どんどん出てくるわけで、そうすると「自分の黒歴史や古傷」なんかも同時に記憶の深いところからほじくり出されてくるから、この事例に限らず、なかなかキツくもある。そういう流れで、ココで母やブラック部活のことなんかも書いていたわけだけども。まあ今回は「そういう覚悟」も出来た上なので掘っていってるんだけど、辛いことは辛い。

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書店でも一応「推して」は居る。


★謎の「啄木」推しと「挽歌」冷遇。

最近、帰郷回数が多いので、そのたびに「ご当地」などを歩いてみるが、どこも「見事に」スルーされている。案内もなければ、FBやグーグルマップなどの「スポット登録」すら誰も行っておらず、冷遇という扱いに近い。
そもそも私、釧路という街の「謎の石川啄木」推しがよく理解できず、こんな「ちゃらんぽらん*5」で、しかも「2ヶ月くらいしか住んでなかった啄木」なんかを、全面的にアピールする意味がわからない、と思ってるのだが、その労力があるなら、もっともっと「挽歌」のロケ地やご当地の紹介があってもいいように思う。


「挽歌坂」の「定点観測」比較をやってみた。
既出の「1957年」写真と「2018年」写真。面影はあります。

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正式名称は「相生坂」と言いまして、一応「色あせた」看板があります。
「挽歌」名所である案内は一切ない。

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ちなみにこの撮影のとき、4月というのに雪!が降って来まして、凍えそうに寒く、スマホで撮るのも、さながら南極探検隊のごとく「決死の思い」で行ったものです。荒涼としてスカスカ、強風と叩きつけられるような雪のなか、今にも遭難しそうな状況で「釧路は今後いったい大丈夫なんか??」という思いが、自分の中で「よりいっそう」募ったものでした。


追記。
前の記事にも書きましたが、原作の小説の方は、特にキャラや心理状態などが「みっちり書き込まれており」しかも「大変読みやすい」ので、映画だけで「食い足りない」「なんか消化不良感ある」と思った人は、原田康子さんの原作を是非お読みになることをオススメします。

挽歌 (新潮文庫)

挽歌 (新潮文庫)

 



★続き

karamandarine.hatenadiary

*1:ところが最近、この作品を母が再読し、痛く感動していたのだ。続きの記事にて

*2:北海道の人々は本州以南の日本をこう呼ぶ

*3:94646を運営してる方(id:kushiroshiro)でした

*4:→ バンカラ進学校の洗礼
*なお「最近の釧路」は少し変わったらしいです

*5:→ 石川啄木を5分で!

自己責任トラウマ 2

こないだ、以前ハイクに書いた「自己責任トラウマ」に関する文章を、以下のように校正してアップしたところだったのですが。 karamandarine.hatenadiary.jp


その二日後くらいに、なんともタイムリーな記事が上がりまして、なんだこれ、すごいおかしいw と思ったところです。

とある友人とのコト - Chikirinの日記


見事ですよね。私の記事でも書きましたとおり、この傾向の人々は概してこんなことばかり言ってまして、またそれが「あはは。私が書いたみたいw 昔の自分みたいでデジャブ感すごい」みたいに思っておもしろいのですが、ちきりん氏も「いい年」されてらっしゃると思うので、今の時点で未だにこんなことを嬉々として書いて大公開するなど、たぶんこの人も「一生このまま」なんやろなあと、感動すら覚えます。


実際に私、むかしのブログでこんな事書いてたんですよねw

mrcms.hatenablog.jp
こう考えると、今の自分は「よく更生できたなあ」と思う。


前記事にも貼りましたが、この渡邊さんのツイートが全てを表してるので、再掲しまして、この記事を終わりとさせていただきますね。

 

自分はこんな逆境でも立派にやってこれた。なのにあなたが出来ないのは、あなたに「なにかが足りてないせい」だという、彼らの持論。おそらくその根本にはこういうことがあったのだろうという。寂しかったんだねえ。

どぶ川学級に見る原風景 〜 北の「赤い」国から。

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重々しい70年代の話に戻るw

両親共働きで鍵っ子だった私、下校して一人ぼっちの家で再放送ドラマを見てたので、そのロケ地である「多摩川」が自分にとっての原風景になったという話は何度も書いた。

そしてもうひとつ、江戸川城東風景も「もう一つの原風景」だったのではないかとココで書いた*1

最近「城東電車*2」のことを調べていて、そういえば江戸川区吹奏楽団に通ってたなあなどと思い出し、そういえば!江戸川といえば、小学校時代の「映画教室」で、こんな作品を見せられた!ということを思い出したのである。それがこれである。


【映画】どぶ川学級


「どぶ川学級(1972年)」動画もあったが、DVDもちゃんと出ていてびっくり。実は私にとっての「ゼロメートル地帯」郷愁は、小学時代に教室で見せられたこの映画の影響もあったのだね。

内容はあえて書かないけども、ご存知のかたも多いでしょう。前回「日活ロマンポルノ」のアングラ感について書いたけども、当時の日活や映画会社は、子供向けのこういうプロパガンダ映画をいくつも作っていたらしい。こういうものを「教育現場」である学校で見せられるのである。

私の育った北海道という「国」は、元来「左寄りの教育」に熱心な土地である。私の通った学校は国立であったので、これ見よがしにそのような押しつけはなかったものの、今振り返ると、やはり「スマートに」左寄りの考え方をするような誘導があったなと。例えばこういうものを見せられたり、そういう「暗に誘導」するような教えは日常に多くあったと思う。

前も書いたが、私の父は「労働組合」委員長だったりした。それもあり、私生活でも「左思想」に触れる機会が多かったと言えるでしょうね。

まあそんなわけで今回、懐かしくて超絶久々に見たのだけど、まず一番最初に感じたのは「当時の日本が全般的に粗雑で野蛮!」だってこと。「キラキラ男子の私」が居たたまれない世の中だったのが実によくわかる。
ココで描かれているように「権力側=学校や校長」もたいがいですが、かと言って、自分らの味方であるはずの「反体制側」も終始こんな感じで「これじゃ決して自分の味方だなんて思えないよな…」と。

何度も言ってますけど、どちらの体制の人も、当時の私を結局は救ってくれなかった*3

故郷を出て東京で90年代を迎えるまでの自分は本当に辛かった。80年代に「尾崎みたいな」説教ロックが流行ったけども、それもこういうものに対するアンチとして出現し支持されたのかもしれない。

でも、じゃあすべて「否定すべきもの」として感じたかというと、そうでもない。例えばココで描かれた「草の根運動」的なものとか「底辺でも行きていける」論とか「レジスタンスとしての戦う姿勢」は参考にはなります。当時の組合運動のおかげで改善された環境もたくさんあっただろう。
ただ、前述したように「どっちの派も」野蛮だったことには変わりがなく、労働者のためになる組合運動も「闘争」などとカッコつけてるが、その裏で「泣いてる家族を踏みつけにして」行ってた様子は映画でも出てくるし、実際の私の家庭も同様だったことを思うと、当時の私に居場所などなかった…という事実を改めて突きつけられ、それなりにショックではあった。劇中で「仲間じゃないか」という言葉も強調されるが、自分にはその「仲間すら」居なかった。
また、後半の「一生懸命やったのに、相手に利用できるところだけ利用される」場面は、自分自身の長崎時代の体験を思い出し、なかなかつらかった。結局、思想がどうであれ「搾取される人はされるだけ」なのだという現実だね。


私が上京後、城東地区に出入りするようになって「郷愁を感じた」ゼロメートル地帯。そこの人々と交流ができて、一番感じたのは「東京の人なのにけっこうみんな素朴だなあ」だった。そのあと、ココに限らず「江戸っ子」「東京ネイティヴ民」はシャイで素朴なのがデフォで、東京を派手にしてるのは「地方からの上京民」であることがわかるのだけど、最初はわからないので、「へー」と思って意外だった。みんな素朴だったから付き合いやすかったし、特殊技術を持っていた自分も入り込みやすかった。その辺は長崎と似ていたとも言えるかもしれない。
そんな土地柄だから、この映画のような思想や運動なども「普通に起こりやすい」かもしれないとは思ったのよね。素朴ほど怖いものはない。


東京、そして「左教育」と聴いて、私が当時まっさきに思ったのは「美濃部都知事」のことだった。私の周りのオトナたちの間では、彼は聖人みたいな扱いだったし、失脚の理由はよく知らなかったけども、それでも日本の首都である大都市の首長が「左の人」だったという事実は誇らしいと思ってたものである。
そんなわけで、上京して東京民と繋がりができたとき、何人もの「江戸っ子ジモティ」に美濃部氏のことを聴いてみたのである。ところがだ。「東京民」から返ってくる美濃部氏への評価が散々なのである。もう誰に聞いても、ともかく「美濃部はひどかった」「アイツのせいで東京は20年遅れた」などと口々に言う。左も右もない、もうともかく酷いのである。
そう言われてみれば、慢性渋滞やインフラの遅れ、小汚い灰色の町並み、これが日本の首都なのか??と思うような痕跡が、当時もまだ残っていた。今思えば東京のバブル時代というのは、その遅れを「上書き」するためにあったのかもしれない*4


結局私は、上京後そのような現実を次々と突きつけられ、「北の国」で私が受けていた教育が欺瞞だったのではないかと思うようになる。そういえば以前ココで書いたが、私は子供の頃に見た「学生運動」に憧れて、上京したらあれに参加するんだ!と思ってたのよねw 世代は違うけども、あれも結局「誰からも大切にされてなかった」若者の不満爆発に過ぎなかったんじゃないかと、今なら思う。
思えば自分も誰からも大切にされなかった。だから何かの運動をするしかない。私の場合、幸い音楽的素養があったから「吹奏楽」運動になったけど、それもブラックだったわけで、そういうこともあり「左教育が欺瞞なんじゃないか」というのは故郷にいたときから薄々わかってたような気もする。お前ら誰も私を救ってくれなかったじゃないかと。
だから左思想から脱出する理由ばかり探してた。そういう機会をずっと待っていた。そして「そんなの間違いだ」と、今まで私を迫害してた奴らに言ってやりたかった。そういうことだったのかもしれない。

学生運動もそうだし連合赤軍みたいなものも終わっていった70年代。「北の国に」居て、子どもである私たちには巧妙に隠されてたが、東京で知ったのは「実は左翼が負けていった時代だった」ということなんだな。そういう意味で、私が下町城東ゼロメートル地区の人々から様々な意見を聞くことが出来たのは、「現実を知る意味で」かなり大きかったと思う。


映画の内容でいくつか興味深いところがあったので最後に記しておく。
まず「学級」を運営し始めたら、反対派から「あれはアカの奴らがやってるから行くな」と噂を広められたという場面。「アカ」という単語が直球で使用されてることにびっくりしたが、そういえばこれ、子供の頃当時も記憶あった気がする。そして私たちはなんとはなしに感じていた。「アカは差別用語である」と。それは例えば、今で言えば「ホモ」みたいな単語と近い。意味は間違ってるわけでもないが、主に侮蔑する場面で使用される単語だから差別用語みたいな扱いになるという。この辺はちょっと考えさせられた。

もうひとつ、お休みに教室のみんなで海に遊びに行くシーンがあるのだが、ここいら辺で近場の海というと、浦安か三番瀬あたりになるのではないかと思った。
ちょうど先日、いよいよ三番瀬の道路計画が現実化して工事が始まりそうだ、というニュースを見たところだが、それで気づいたのは、ああいった例えば「三番瀬保存運動」などというものも「この時代の郷愁」なのではないかということ。三番瀬そのものももちろん自然として残しておきたいが、それとともに「こういう運動そのもの」が郷愁なのだと。70年代の自分らのアイデンティティを守り抜くため。そう考えると、今の市民運動やら何やらも、結局は「郷愁」のためにやってるのではないか、などと思ったりした。成田から沖縄まで、いろんな「運動」があったけども、それらに共通するのは、私にとっての郷愁なのである。

ちょうど前回書いてた「桃尻娘」の話。原作者「橋本治さん」逝去のニュースで、こんな発言を目にした。


桃尻娘 1作めに有ったのはアングラ感」と前回の記事で書いたけども、つまりは「そういう要素こそが郷愁」だったのではないかと感じたのだ。なぜ「郷愁」と感じるかといえば、この発言のように「取り残された人々」だったからだ。
桃尻娘中原俊監督はシリーズ 2作目「帰って来た桃尻娘」でそこを脱却し、90年代に向けて「桜の園」など傑作を作るようになっていく。私も「こっちが新しい」と直感で判断し、その感性に付いて行き「夢の90年代」を迎えリベンジを果たす。


おなじみの「スクショ」コーナー。

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組合員だった須藤さん。
「大学生のインテリ」ということで
無理くり「教室」をやらされることになってしまう。
地井武男さん、井川比佐志さんなどお馴染みの俳優さんが。

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組合員の父も横暴で家族が崩壊寸前。

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無精髭で原人みたいな長髪の先生は山本亘さん。

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途中でいきなり小ざっぱりと垢抜けて主人公ぽくなる。
これはモテるでしょうとw

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案の定、教室メンバーでイニシアティブを握るのは「女子ばかり」なのである。
先生モテモテ。

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下町の水路風景。



最後にひとつだけ付け加えておく。

こうしてみると、私の「左」に対する評価も散々かと思われるかもだが、故郷時代、組合員の運動で生きやすかった部分も実はたくさんあるんだろうと思います。
それはこの辺で書きました。

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確かに散々な環境であり、父も暴君であったわけだが、そんな殺伐とした日々でもなんとか生き抜いてこれたのは、こういった福利厚生があったからです。 まあ「公務員一家だった」というのも多分にあるんでしょうけど、50年代末から70年代初頭にかけて、こういう「運動」は意味があったのではないかと。それは否定出来ない気がした。まあ現実はどうだったのかはわからない。でも、例えば「どぶ川学級」の清廉ぽい先生みたいな人の「運動」は、子供心にも「カッコよく」見えたものです。そして現実にも、実際にそういう人はいました。「団塊」と一括りに悪く言われることの多い世代だけど、悪い人や勘違い野郎ばかりではない。まともな人もたくさんいた。夢破れた今の日本で、彼らは何を思ってるのかなあ…と。

まあそんなわけで、奇しくも東京の右端と左端、江戸川と多摩川が原風景だった私。単純に言えば、結局「ロケ地」がそういう郊外にあったというだけw なんでしょうけど、私の心の中には多大な影響を残しました。という、まあそんな雑感。


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*1:「コロッケ町のぼく」から「多摩川」へ。

*2:後の都電25、26、29,38系統

*3:これ→「ギャラ払わない人」問題と自己責任トラウマ 

*4:福祉関係は確かに充実していたのかもしれない。だが当時の私はその恩恵を受ける世代でもないし、知人たちも同様だから結局わからない。