恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

いにしえの日本しぐさ 2

実家で発見したお宝シリーズ。その2です*1
前に「70年代の絶望感」について書いたとき*2、その中で「メディアや雑誌で危機感を煽られてた」みたいなことを言ったのです。その記事を書いた時は、あくまで自分の「幼少の頃の記憶」で書いたので、「たしかにそうだったとは思うけど確証があるわけでもない…」みたいに思ってたのですね。

ところが、その後、実家の屋根裏を奥深く掘っていきますと、なんと!それに該当すると思われる本が出てきたのです!おそらく自分の記憶もこのとおり、この本で間違いないと思いました。なので早速ご紹介します!写真は拡大できます。


★少年朝日年鑑。
昭和49年ということは…1974年!
前回の「中一時代」と同じ年です!
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★ココでご注意!ちょっと「リアルな写真」が出てきます!
苦手な方は見ないほうがいいと思います!










★公害の先進国
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日本中が公害に侵され、絶望感が示されます。


水俣病の20年

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これは本当に見るのが辛かったです。
ここで20年…。
ということは現在は「64年目」ということになります。


★患者さんの様子
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これを発見したあと水俣病に詳しい方に話を伺いまして、ココに出てくる方々はみんな、現在もよく知られてる方々だろうということでした。

公害病

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こういう日本でした。



いかがだったでしょうか。内容は確かに記憶通りでした。しかし「知ってた」とは言ってもですね、こうやって改めて見てみると、これらの画像に「やっぱり」新たにショックを受けるものですね。いい大人の自分が、しかも初見ではないはずなのに、これだけ衝撃的だったわけだから、この本の想定読者である「当時の少年」は、いったいどう感じたのでしょうか。

先程の「水俣病に詳しい方」からお話を伺った際、「今だと精神的ショックのことが考慮されるから、小学生にこれを見せるというのはありえない気がする」と仰っていました。事実を知らしめるのは大事だけども、だからといって、子供相手に何でも見せていいというわけではない。と。例えば原爆資料館などもそうですね。トラウマになるから十分配慮する、というのが今の倫理観ではあると思います。
しかし、長崎の方にこれらを見せたとき「自分らは長崎で、子供の頃からこれよりも もっともっと酷い写真 をたくさん見せられた」と言われ、現実は直視すべきだみたいなことを仰っていました。それもたしかに正しい気はします*3

僕自身、これらを子供の頃に見て、先のブログ記事にも書いたように「地球は終わっていくんだ…」という終末感を煽られたのも事実です。また、現実の自分の周りについて(北海道でしたが)、これほどまでではないにしろ汚染はあったし環境意識も低かったというのは事実として記憶があるので、自分と関係ない、遠いどこかの話とは「思っていません」でした。

また当時タイミングのいいことに、楳図かずお氏の「漂流教室」というマンガが連載されており、それがまた「地球の終末感」をたいへん煽ったのですね。今読み返すと、あれらはフィクションの一部として捉えられますが、当時リアルタイムの日本で生きてて、こういう現実を実際に見ていた身としては、「じゅうぶん有り得る未来」で、決して空想の話とは思えなかったのです。

よく当時の風潮として「ノストラダムス」の影響について語られますが、子どもにとっては、難しいノストラダムスみたいな本よりも、テレビやこうした本で取り上げられる「酷い環境問題」のほうが、よほど不安感を煽られ「自分たちは滅んでいくんだ…」という気分にさせられたのが事実だったのです*4

「少年朝日年鑑」ということは。まあ「朝日」なんですよね。そこを捉えて殊更なにか言う人もいるかも知れません。しかし当時の日本は「高度成長期」で、国が経済的に潤うならば他の全ては犠牲でもいい、というような社会でもあったのです*5。そういうときに、当時の若者、ちょうど団塊世代くらいだと思うんですが、彼らが「政府なんか信用できるか!」と怒るのも当然の流れだったし、今の「いわゆる左派」の人々が今もそれを引きずってるのはわかる気がします。彼らにとってのトラウマなんですね。


前回の「女性だけの街」記事もそうだけど、あれから「44年」も経って、今の日本が当時と「どこか変わった」のか。当時これらを読んでいた少年少女、いまアラ還とかだと思いますが、偉くなったり大人になった彼らの現在の意識はどうなっているのか。

そういう事を考えていくと、日本という国のスタンダードというか「日本しぐさ」について、いろいろと見えてくる気がするのです。そんな発見でした。

*1:karamandarine.hatenadiary.jp

*2:karamandarine.hatenadiary.jp

*3:ココには載せなかったが長崎のリアルな原爆被害写真も掲載されていた。

*4:他にもNHKでこういう番組がオンエアされていた。→ 70年代われらの世界 - Wikipedia

*5:富国強兵の別バージョンに過ぎない。似た話は同じく、楳図かずお「おろち/眼」でも描かれている。

いにしえの日本しぐさ

先日実家に行きましたところ、中学1年生向けの雑誌に「興味深い記事」が載ってるのを発見いたしまして、是非とも皆様にも見てもらいたいと思いましたので、ここでアップしますね。写真クリック拡大して読んでみるといいですよ!


★世の中「女だけなら」いいのに
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ふむ。最近「女だけの国」というのも問題になったことですしタイムリーですね*1


★女子を何だと思ってるの。

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男子は女子のことを全くわかろうとしない。確かに中1ではありがち。

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この図解も実に「あるある」でよくわかりますね。


★チカン退治の極意

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通学女子の皆さんへ、気をつけるよう親切な記事も。


以上です。
日本のミソジニー社会ぷりは昨今とみに話題ですが、このように中学時代から「しっかり啓蒙」していかないと、よくなっていかないので、コレはよい記事かもしれませんね。

で、この雑誌は何かということをご紹介しますね!

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実はコレ旺文社の「中1時代」。
写真右上。なんと!1974年の本でした!

コレ言われないで見せられたら「今の本」かと思う!
自分も実家の屋根裏でこれを発見して見たとき、「え!?これって今じゃないの??」って一瞬思ったもん。1974年って。「44年前」なんですよ!奥さん!

この頃の中学生は…50代の後半〜もうすぐ還暦なのではないでしょうか。こんな昔から、こういうことが問題視されてて、雑誌で啓蒙までされているのに、44年経った今の日本。

それから個人的に「おお」と思ったのは、チカンの記事で「身内や知り合いからの被害が多い」と「既に」ちゃんと書かれていることです。これ今現在も、なかなか理解されていないんですよね。44年も前に既に専門家がこうやって書いてるのに。
もちろん自分も含めて何もやってこなかったというのが真実なんでしょうけど、それにしても、けっこう無力感あった発見でしたよね。

さてどうしましょかね…。

 

 

★続き

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サブカルの葬式とホモ・ソーシャル

b.hatena.ne.jp
こないだ、私のコラボ女子と音源ヲタ氏が揉めてた話をブログにアップしたが、それに近い事案。奇しくも両女子は友達ですね*1
もともと地下アイドル的なものって「文化人の高尚なアソビ」気取りというか、「それのパロディ」っていう意識があって、興隆も例えば、大学とかの「アイドルなんとか研究会」みたいのが発祥と考えると、そもそもそういう「同人的」側面があるんだってことなんだと思うんだけど、それを「自分の性を取り扱えない男子」参入によってぶち壊されるというのは、最近よく起こる事案だよなと。実際この「たまさん」も、ガチ恋氏に付きまとわれての卒業発表なんで。今後も起こりうるのだろう。


上記のような「ルールを知らなくて遊べないニワカ民」の参入で、文化サークルが崩壊していく、というのともうひとつ、こういう互助会でよく起こるのが「中の人の万能感で内部崩壊していく」というパターン。

今日の吉田豪案件*2なんかが典型だけど、こういった「文化サークル・ホモソーシャル」の価値観は、ホントに「外」というか「一般社会では通用しない」ものなんで、中でブイブイいわしてる輩が「勘違いした全能感」で、外の人にまで中の基準を当てはめちゃったら、そら炎上するでしょということよな。
他のエントリにも関連する話題だけど、この5年間の前半、自分も「その中の人」だと思ってたので、仲間を非難することが難しかったのだけど、「いや、自分は中の人ではないようだ」と悟った後半からは、「じゃあ擁護なんかする必要ない」って考えが変わった。…まあつまり自分も忖度していた。守るものが出来てしまうと、そうならざるを得ない。カッコ悪い自分だった。いま振り返ると、そう思う*3

個人的意見だけど、結局ポルシェ氏とかロマン氏とか吉田豪氏とか、この方々は「既に固まった旧来の価値観を現在のサブカル的なものに応用して持論を述べてるだけ」で、何も新しいことがなくて、まあ古い言葉で言うなら「業界ゴロ」みたいなものなんだと思うのよ。
まあ吉田氏の「墓を掘り返す」みたいな作業は「文化的には重要なところもある」と認めるけど。それすら「葬式」ちっくではあるんだよね。今みんながやってるのは「葬式」なんですよ。サブカル、アイドル、はてな、みたいなものの。
そういうの好きな人もいるだろうと認めた上で、しかし「自分は葬式に一度も出たことがない人」なので、ごめんけど自分は参加しないっす、みたいな感じです。

そういう「閉塞感」のある業界に、「刺客」としての「ガチ恋ヲタ」が特攻してくると「ひとたまりもない」というのを見せつけられたのが、この事件だった気がする。


先日の現場の帰り、作曲家W氏と久々にゆっくり話したのだけど、近況報告として「一昨年までの縁が切れた理由には、みんながいい人過ぎてついて行けなかった、というのが大きい」と。
これやな。→ ☆みんな「いい人」すぎて付いて行けない。

結局僕ら(彼も含む)は互助会には入れなかったのだと。僕らは今まで、この件について話す時、いつも自虐的に「どうせ僕らは冷たい人間だし、友達も居ないしね」などと言ってるのだけど(彼も同じ)、今回は「だかしかし、それでいいのだ」と思うことにしようと。そもそもクリエイターたるもの、群れてどうすんだ?と。僕らは「孤独を売って」商売をしている。僕らのほうが正しいのだ、と。そういうふうに思うことにしようと。そういう結論だった。東京リターンから5年。ずいぶん大人になった。そう彼にも言われた。いい話だった。


★全能感で勘違いする話はこちらも。 

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