恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

久我美子さんと接吻について。

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このジャケ、見覚えある方もおいででしょうか。窓ガラス越しのキスで有名な映画「また逢う日まで」。このお二人は岡田英次さんと久我美子さんです。1950年の映画。戦後まだ5年です。ですので映画で過激なシーンなど禁物。だからソフトに「ガラス越し」となったわけですね。きゃーロマンティックだわ!

 

…などと思ったあなた!いえ。私もなんですが、なんとこの映画!本編後半に入りますと、ガラス越しどころか!本物の!口と口の!熱烈な接吻シーンがこれでもかと出て来て、腰が抜けるほどビックラしました!そしてこれがまた「エロい!」んです。久我美子さんエロい!なんだこれは。

ちなみに私の持論。「セックスでいちばんエロいのは接吻」と常日頃から言っておりますが、まさにこれこそが「それ!」です。

 

じゃあ。惜しみなく行きます!みんなも行っちゃってくださいね!

 

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戦時中。ほんの束の間の逢い引き。

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帰り道、空襲に襲われ逃げ惑いながら抱き合う二人。

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私帰らないと…。その前に!

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おっと人が見ているわ。

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じゃあまた…。

翌日。彼女の家にて。

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ボクはあさって出征するんだ!

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そして押し倒し…。

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行かないで…。行か…ない…で。

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岡田英次さんも顔を愛撫しまくりでエロい。

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あした…最後に…逢いたい…

そして翌日(おまけ)。

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なんと!お着替えシーンまで!

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最後だから。お花を刺して駅に向かいます。

 

ここまで。

戦争が生んだ悲劇を綺麗に切なく描いた名作です。このあとどうなるのか。最後わたし泣きました。ぜひ本編も見てほしいです。

それにしても久我美子さん本当に素敵。そして、こんなエロい接吻される方だったというのが、ものすごく意外でした。1950年。昭和25年ですね。当時の日本はまだGHQ占領下です。そのGHQの方針「開かれた日本」にするため、映画にも「こういうシーンを」というような空気があったのでしょうか。おかげで、ふんだんに接吻が盛り込まれ素晴らしい作品になったのですね。感謝しないとだわね!

 

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万能感からのメンゲレ化

ブラジルから来た少年という映画がある。大好きな映画なのですが、大雑把な内容を書きますと。ナチスのメンゲレという医者についての映画です。

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 その関係でメンゲレという人をいろいろ調べていくと、自分の医学的好奇心と野望を果たしたいためナチに入党し、そこで医学関係を仕切ったということです。そこで行われた「彼の医学手術」はもうココに書けないくらい悲惨で…。個人でお調べくださいまし。

でですね、最近「死刑執行された方々」もそうなんですけど、例えばこういう医者とか学者とか「いろんな人々や先輩らと関係しつつ」「キャリアを長く積まないと」自分のやりたいことが出来ない職業の場合、その「過程をショートカット」するために「自分が一人で仕切れる団体に入る」というのはよくあるのです。自分がしたいことを「誰にも邪魔されず」やりたい。

この「途中が面倒なのでショートカットする」というのは、実は音楽とか芸術関係でもよくやることでして、例えば「東京では同業や先輩が上に居るため自分の時代がなかなか来ない*1」「同レベルでひしめき合ってて自分の存在意義がわからない」というような場合、立ち遅れたレベルの地方などに行って、そこで「手早く才能を活かし」トップになって中央に凱旋するということが可能になります。…そうです。私がやったことですそれ。

自分もそうだったように、人それぞれ理由はあるんだと思うけど、やっぱり「自分は特別なんだ。そうありたいんだ」と思い始めると、大勢の中のひとりで「時間やお金もみんなで分け合う」という立ち位置が不満になるんですよ。特に医者とか研究者とか、そういう意識高い系だと「もっともっと好きなことをやりたい」と思うはず。自分もそうだった。だから「お金を出してくれる」地方に行ったのだからね。そういう 自尊心のスキマに「洗脳者」というものも入り込んでくる

私は移住のときには既に若くはなかったし、低能先生だった父に死ぬほど鍛えられてましたから洗脳はされなかったが、それでも「相手を信じて尽くせるなら、こんな楽なことはないなあ」と思っていた。クリエイターや研究者というものは往々にして、そういう「歪んだ父性」や「庇護」を求めてる部分もあるということなんやな。そこに権力者も付け込む。
こちら側としてはもちろん「出世欲」もあるだろうけど「好きなことしたい」というのもかなり大きく。それが「まともな科学者」だったら幸いだけど、マッド・サイエンティストで「ガスやら作りたい」と思う人だった場合「そういう環境を得たら」それを作ってしまう。そこはもう「良心に任せる以外に防ぐことは難しい」わけで、メンゲレだって どう考えても異常だけど誰も止められなかった んだから、最終的には「本人以外に阻止できない」のよ。

歌とかでも「黒歴史」というのがよくあって、「変な色物みたいな歌」を「変なカッコで歌わされる年頃の女子」がよくいますわ。子供だからわからないと思って「受ければ勝ちなんだから」とか言われて「オトナに騙されて」やらされちゃう。その結果本人も痛い子だと思われてしまい、その反動で「実際に病んで痛く」なっちゃう。そういうのも「クリエイターの良心」に任せる以外に「防ぐ方法」は今のところない。

地方とか特定団体とかに於いて、誰も阻止する者がなかったり、有力者に庇護されてしまった場合に「野心を持った輩が好きなように出来てしまう」ことの恐ろしさ*2

そういうのが「悪魔の仕業」。ロックでは「悪魔に魂を売った」という言い方をよくするね。
誰だってみんな「天使と悪魔」の部分を持ってる。自分が自由環境を手に入れた場合に「どっちの自分を作動させるのか」。それは「本人の良心のみに委ねられている」という事実は恐ろしい、ということなのだ。

簡単に言うと、これらはどれも「万能感」ということに繋がるのだろうが、今さらそんな陳腐な言葉で括りたくないので、もう少し考察してみる。


自分の90年代を振り返ってみて、どうだったかというと「誰にも縋れなかった」し「信じられる宗教みたいなものもなかった」から、自分でなんとかするしかなかった。
結論から言うと、当時の自分を助けたものは「お金」。ホテルの仕事を始めて、当時の私、食事やシャワーなども施設を使い倒して、生活費というものが殆どかからなかった。家賃と電気代くらい。だから給料をほとんどまるまる機材に使えた。

私は10代の頃から「自分がやりたいことは機材が揃ってないと出来ない!」と言っていたし、師範に弟子入りしたりどこかで下積みとかも出来ない、なぜなら奴らみんな「時代遅れで古いから!」と主張してたんだけど、当然ながら誰も判ってくれなかった。若い頃に誰かの庇護のもとで、自分の希望が叶えられてたら幸せだっただろうと思うこともある
だが、この主張は今振り返ると「若気の至り」だった部分もあって、確かに機材が揃ってないと自分のやりたいことは出来なかったんだけど、しかしホテル時代みたいな環境と「その時の自分の人間性」じゃないと、機材がたとえ揃ってても、若い頃の感覚のままであのレベルの事が出来てたとは思わない
つまり、自分が「そういう作品を産める実力と人間的成長が伴った時」に、初めて資金的にも潤ったということなのだな。
これは今でも「どっちが先か」ということは自分でも判断できない。これこそ「歴史にイフはない」的なことで「揃うべき時に揃った」としか言いようがない気がする。

つまり自分が若い頃に「宗教」だの「何かの団体施設」だのに関わって「好き放題出来る環境」が整ったとして、今みたいなことが出来てるかと言われれば、それは難しい気がするということ。いくら天才でもそれは難しいんじゃないか。何故なら「人間性が伴ってない技術は人間に応用しようがない」からだ。メンゲレの話や「あの宗教団体」の事件はそれを証明してる気がする。*3

というわけで、権力者の前に「自分は天才なのに誰も判ってくれない」「自分がやりたいのはこういうことじゃない!」などと主張する、承認欲求と万能感コジらせた「マッドな人物」が現れれば、「お互いの野望が止めどなく増大」して、とんでもないことが起こるのも、そら当然の流れであろうと。

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ココからは余談なんですけど最近、例の「ブラック吹奏楽関連」で面白いことがあって。
その時の同期だった「キリスト教の亜流だかなんかわからないプロパガンダの出来損ない宗教歌ライブしながら地方まわってる空手女子」の話は散々ココでも書きましたが(すごい肩書w)、なんと先日、当時の同期男子(つまり私とも同期)を捕まえてコラボするとかいう宣伝が回ってきて、「!!!!」と思って即刻ブロックいたしましたの。その同期男子、半年くらい前に私フェイスブックで発見されてフレリク来たんだけど「今さらいいわ~」と思ってスルーしてたのね。そうしたらいつの間にかそんなことに(今は手作りオカリナやってるらしい)。

そんなことが最近あったので、またまた当時の記憶がいろいろ蘇ったのですが、その男子もそういえば「宗教ぽかった」のよ!
そもそもウチら「気合と根性ブラック部活」だったから、自分もだけど、人それぞれ、いろいろ思いながらやってたわけよね。その中で「脳筋みたいにガー」行くやつもいれば「陰キャみたいに脳内で捏ねくりかえして内面に入ってく」やつもいた。その内面派が彼だったの。ああーそうかー、そうなるわー、捕まったかー。みたいなもんです。

当時の部活について、当時から散々、冷めてるメンバー間では「これって宗教だよな」「もしくは連合赤軍」って言ってたのよ。そうして今こうやって顛末を見ると、やっぱりこないだの「執行された宗教」とも何ら変わんないわけで。ほんと思考の貧困ってアカンのやなあって思ったのだった*4

もうこれは、今までに何度も何度も書いたし、どんなことにでも当てはまるけど、特に高校時代のアラウンド同期の人々とか、私の感覚じゃ信じられないような「年のとり方をしてる」というか、宗教歌を歌って回るとか、そんなのどう考えても当時のうちらなら「あやしいw」とか思うはず なのに、年取って、それが同期の人なら「頑張ってるから許す」みたいのって違うんじゃないか!って思うんです!!

「その思想に同意してるなら別」なんですけどね。まあ、同意してるのか。…な?知らんけど。

まあ、あらゆる宗教も「内面の考え方」って、どれも「どんな場合にも当てはまるように出来てる」から「心の拠り所として持っている」のはいいとは、自分も思うんだけども、やっぱりそれを「宣伝して歩く」というのは「勧誘被害に間接的に加担している」ということになるわけで、そうすると「その活動は認めつつも敢えて触れない」というのがオトナじゃないかなあと思うんだよなあ。なのに「なんであんな積極的にみんな応援してるのだろう??」と。まあそういう「営業」が当時から上手かったのが空手女子なのですけどね。ムカつくばいw


★追記@8月16日

また世間で吹奏楽が話題になってるな。まあ話は尽きないよね。いい機会だからこれも膿を全部出してしまえばいいと思う*5
いろいろ自分のブログ読み返すと、当時の年齢が若かったこともあって「空手女子に対するやり場のない感情」が「かなりデカイく引きずった」ことが判る。彼女の場合、当時もそうだが、「今現在の状態が本当に酷い」ということがかなり大きく、そこまで「想定どおりに人生を外れていく」人もそうは居ないみたいに今も思ってる。
まあ本人は「宗教で救われて」ありがたく生きてるんでしょうけど、周りで振り回される方はたまったもんじゃないよ。きっと「宗教団体信者」や「赤軍メンバー」も同じような感じだったのだろう。

「何十年経っても人は変わらないんだ」という「悪いほうの例」として今後も語り継ぎたい。有能な人が道を踏み外すことがないように。


★関連

karamandarine.hatenadiary.jp

*1:「ガラスの天井」的な

*2:例えばこういう杉田水脈氏の発言などもそうだろう。→ はてなブックマーク - 杉田 水脈 on Twitter: "自民党に入って良かったなぁと思うこと。 「ネットで叩かれてるけど、大丈夫?」とか「間違ったこと言ってないんだから、胸張ってればいいよ」とか「杉田さんはそのままでいいからね」とか、大臣クラスの方を始め、先輩方が声をかけてくださること 

*3:あと思ったのは、私は「自分のほうが教祖タイプ」だったのではないか。ってことなんだな。
そういえば、草加の二人組が部屋に来て、夜中じゅう、外が明るくなるまで勧誘説得されたが論破して追い返した事があったわ。帰り際に一人が捨て台詞。「アナタは議論好きだからそういう才能ある」と。いやいや、ただシツコク屁理屈で応戦してただけなんだけど、それが相手には耐えられなかったらしいw
この時の私、何を言ってたかというと、一貫して「僕は自分教なので誰かの指図なんか受けません」「遠回りだとしても、見つける方法を他人に教えられたくありません」と反論し続けたのよね。しかしいま思えば「これは真理」でもあったなと思う。
ただし自分は「低能先生」父や「パワハラ部活&師範」のせいで「強権コンプレックス」というか、それに対する恐怖症がある。自分がやられるのも嫌なんだけど、それより「自分がやってしまわないか?」という気持ちは常に持ってる。実際、子供の頃から上京後3年くらいまでの自分は「実に強引で強権」だった。まあワンマンでしたし。
そこを大いに反省しての現在なのだけど、しかし組織やらプロジェクトを引っ張っていくには、やっぱりそういう力も必要なのでして、その辺の発揮のバランスを見積もり損なって、もろもろ中途半端に終わったみたいな感じなのが長崎時代だったわけでね。そこはもっと「てめえら何も知らんのだから言うこと聴け!」って強く言ってもよかったのかもしれない。九州ですしw

*4:思考の貧困て?という話はまたこんど

*5:b.hatena.ne.jp

元祖「低能先生」だった父の呪縛

福岡で起こった悲惨な事件について雑感。

たまたまだが、最近「性の喜びおじさん」のことが話題になってたので久々に動画を見てみてみたら、彼のアジテーション、独り言レベルじゃなく「怒鳴ってる」し、どう考えても「うるさくて邪魔でしょう」としか思えなくて、こういう人を「ネット玩具」みたいに持ち上げて、あんな事件*1になっちゃったの責任取れるんやろか、と思ってたところだった

今回の福岡の事件も「似たように」自分は感じて、前々から個人的に、被害者O氏のブログでの物言いは「過剰に過激を装いすぎる」部分がすごく嫌 で、まあ一昔前の隊長*2もそんなところはあったけど、今はもう10年前のネットみたいな「牧歌的な時代」ではないわけで、何となく自分の中で、喜びおじさんと今回の「被害者O氏」が重なって見えてるのだった*3

そんなことを思っていたら id:koenjilala さんが以下のような記事をアップされた。

koenjilala.hatenablog.com
そう。あまり言わないほうがいいと思って控えていたのだが、実は自分も事件の一報を聞いたとき、そりゃ驚きはしたが、この方と同じように「不思議と意外性を全く感じなかった」のである。普通に「ああ、そうなったか…」と思ったのだった。
もちろん人が亡くなっていいわけはないが、ああいうものを書いてれば、そらこういうことは起こるよな、と「普通に」思ったのである。
こちらのブログを見て思ったのだが、自分も「じゅうぶん大きな」お兄さんだし、父はDV野郎だし、寮生活も二度も経験してるから、人間観察に長けてしまったところがあり、直感的に「この人は触ってはアカン奴や」みたいなことは判ってしまうのよね。被害者の彼が先生をネタにしたとき、上記ブログの方が書いているように「コレは危ないでしょ?」と「普通に」思ったのだ。

私の場合、ネットに18年滞在しており、実は10年前に「炎上やバトルも数回経験」している。身バレもあり晒されもしたし、その相手に真摯に謝罪し、取り下げてもらったこともある。そういう危険や修羅場や恥を経験しているから、ココでもある程度(これでも)節度はあるつもりなんである。

いま40くらいの人だとネットネイティヴだから、そういう「炎上的なもの」が「逆に武勇伝」みたいになってるところがあり、実際の身の危険とかも実感が無い のかもしれない。
私が最初の方のブコメで「全能感怖い」と書いた*4のはそういう意味なんである。自分のネット力を過信しないほうがいい ということ*5


★元祖「低能先生

ところで、この事件でひとつ興味深いことがあった。
父がバイオレンスで家庭を支配してた話はココでもよく書くが*6、実はその父が「私を罵倒する時に頻用してた単語」が「低能」だった のだ。ともかくなんでも「〜しろ低能!」「なんでできないんだ?低能!」と怒鳴られて私は育ったのである。プラス暴力。低能&暴力。T&B。有吉かっていう*7

だから私にとって「低能先生」といえば父のことなのだよ。

こういう経験をしたものなら誰でも判ってもらえると思うけど、こういう毎日が続くと「心が死んで」くる。いかなる罵倒も暴力も「ああはいはい。それですね。次はなんでしょうか」みたいにしか感じられなくなる。そうして自分自身もいつしか「低能先生」になっていく。低能先生である親が、また低能先生を作り上げていく。そうしてヘイトの無限ループが続いていく。

この事件の「低能先生」が繰り返し発してた罵倒も、もとを辿れば彼の親とか、あるいは上司とか、そういう周りから言われていた言葉なのかもしれない。つまり「罵倒の連鎖」だ。そんな彼をネットで面白半分で取り上げることは「罵倒の増幅を行っている」と言えるのかもしれない。
そしてネット民が「被害者O氏のブログをことさら持ち上げていた行為」も「増幅」であると自分は考える。「性の喜びおじさん」が「ネット玩具」だったのであれば、「低能先生」も「被害者O氏」も「遠からず似たような存在」だったのではないかと思ったりした。


「低能」という強い言葉 がこの事件を起こした

ネットやブクマのの反応を見てみると、被害者O氏に対して少しでも批判すると「死体蹴り」などと言われてて叩かれるが、そうじゃないでしょうよ。こっちだって酷い話だと思ってるわ。

そうでなくて、隊長を始め「周りの友人と称してる人々」が「原因をなかったコトにして通り魔扱いしてるのがおかしい」と。
そのほうが無念じゃないか?理由もないなんて(小物)。そういう「危機感」もなしに「みんなウォッチャとかやってたのか?」って。そういう意識だと、また被害者も加害者も出すことになるぞ?と言ってるんだ。おちゅーん氏や「だだもれそらの氏」の頃からちっともかわらない。死人が出ても変わらない。もうだめだと思ったね。


前から思ってたんだが、私にとっての「低能先生」父親が、そういう「Dis 単語」を一体どこで仕入れてくるのか?と子供の頃から不思議だったんだよなあ。彼の繰り出す「罵倒用語」にはいくつかバリエーションがあって、1年に一回くらいアップデートされる。そうすると自分は「お、新たな単語きたー」と思ったものだ(罵倒されながら)。そういう、父が使用するいくつかの罵倒語の中で、一番ポピュラーで本人も気に入ってる様子だったのが「低能」だったのだね。
父の父(つまり祖父)が使ってた単語なのかと思ったが、なんとなくそこは考えにくいなと思って、そうすると、誰か第三者が誰かを罵倒してる様子を見て「この単語はいいぞ」と流用するのか。謎だった。

今回の件に関しても「低能先生」が「そういう語句」をどこで仕入れるのか?親なのか、周りなのか、もしくは2ちゃんなどのネットなのか。彼自身そこでDisられて、それを「そのまま他者への罵倒に転用」したのか?

その辺の疑問点を考えていくと「ネット上のあらゆるヘイト」はホントに問題だと思うようになってね。例えば被害者O氏、「イケハヤ氏」や「はあちゅう」を Disってたわけじゃん?私だって、その二人が別に好きなわけじゃない。みんなもそういう人が多いかもしれない(だから被害者は支持された)。

でもね、こういう「Dis 語句」は運用が非常にやりやすく、つまり「煽りのサンプルになってしまう」ということ。父のことなんかを考えると、そういうことが非常に問題あると感じるわけです。負の連鎖。

そういう「特定個人を執拗にイジる」という「見本」を示してはいけないし、Disフレーズみたいのを「上手いこと言ったな」みたいに持ち上げてはいけない。たとえ自分が「イケハヤ氏」や「はあちゅう氏」を嫌いであろうとも、でも他者がそれを必要以上(批判行為の範囲を超えた)に行うことに寛容、あるいは無関心であってはならない。イケハヤは嫌いでも、公で彼を虐める行為に「乗っかって囃していく」のはよくない、と。そのように思った。

それが、「被害者O氏がどことなく性の喜びおじさんと同種に思えた」と書いた理由になります。

まあブーメランですけどね。私もココで散々書いたわ。なんなら今だって書いてるけどね。その辺は自重含めて考えていきたいという気がする。


★普通になっていく私

個人的なことをいろいろ思い返してみると、私自身が「父親譲りの」低能先生みを薄めていったのは、東京下町での「大都会しぐさ習得」の過程なんだよね。故郷では低能扱いの自分でも、外部からの転入者が東京の他地域に比べて「圧倒的に少ない」下町地域では「貴重な道化者」として楽しまれた。後年それが息苦しくはなるけども、少なくとも最初の3年くらいは充分楽しんだし、私も「楽しまれた」。つまり居場所が出来たのだ。これは感謝してもいいのではないかなと*8

おもしろいことがあって、自分が下町地域で楽しんでた頃、故郷の旧友知人に会うことがあるわけだけど、自分の下町馴染みっぷりに「みんないい顔しない」のよ。はっきりは言われなかったけど「自分らは彼らのような人々と仲良くはしない」という意思が、旧友たちの言動からはっきり感じられた。
予定が被ると「そっち優先するんだ?」みたいな言われ方もしたし、それは嫉妬というのとはちょっと違って、「ほんとなら住む世界が違うはずの場所に出入りしてる」みたいな見られ方。
だから、この時をキッカケに(今もだが)東京での付き合いと故郷の付き合いは自分の中で両立できなくなった。そうして自分は故郷との交友関係から疎遠になっていくのである*9


話は戻るが、低能先生にしろ被害者O氏にしろ、そして「性の喜びおじさん」にしろ、私にとっての「下町」みたいな「自分を変えるきっかけになった居場所」を見つけることが出来なかった悲劇とも言える。このブログで何度も書いてるとおり、私は、住む世界や環境を幾度となく変え、その度に自分自身が変わりステージが上がる、という経験をした。それを「脱皮」と呼んでいたこともあった。前述したように、それによって、かつての仲間と袂を分かつことにもなる。時には批判もされる。
自分が「全能感を発揮できる世界」とは「居心地のいい場所」ということでもある。それは自分にとって「あがり」になってしまった世界ということだから、上がってしまったらゲームは終わりで、また新しいゲームを始めなければならない。

まあそんな雑感。


★追記
このブコメも。そういえば「性の喜びおじさん」も熊本出身だった。

IT講師殺害、九州大卒の容疑者「地味で真面目」 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

当地じゃエリートだよねえ。/ 実は今回の件で初めて「被害者も」福岡人と知った。ブログ内容にうっすら感じたミソジニー観は、そう考えると納得できる。

2018/06/26 18:52

b.hatena.ne.jp

*1:性の喜びおじさんとは

*2:やまもといちろう氏

*3:ネット上では「O氏」というより「大変よく知られてる通称ID」名があるのだが、個人的に好きじゃない名前だし、また検索避けの意味もあり、ここでは全てO氏と表記する

*4:そう。こういう人です。だから、なんでこんなやばい人のことを記事にしたのか。ということですよね。全能感ほんと気をつけたい。 - maicouのコメント / はてなブックマーク

*5:悪口やDis用語って、すごくポップで使いやすく気持ちいいからすぐに流通してしまう。そういう言葉の特性と怖さをわかった人じゃないと使うのは危険ですよねという話→ 差別用語は元々「ポップ」で「キャッチー」なもの

*6:

karamandarine.hatenadiary.jp

*7:和田アキ子氏について「リズムアンド暴力(R&B)」というあだ名を付けた

*8:関連 → 20キロの鎧を脱ぎ捨てる

*9:関連→ 「コロッケ町のぼく」から「多摩川」へ。