恋する段差ダンサー

ハイクの投稿をまとめて記事にしていました。

渋谷系のルーツの話のようなそうでないようなまとめ。

まとまりがないかもですが、先日、渋谷系のルーツを考える、というのが流行った時に*1、自分なりにいろいろ思い出してまとめた発言が以下になります。なかなかおもしろい。

ツイッター渋谷系のルーツをずっと考えてたが、つきつめると、第2次ブリティッシュインベイジョンに行き着くだろうね。 

高浪さんがそういうの仄めかしてたので、やっぱりそうなのか、と思ったけど、そもそもフリッパーズ・ギターも、スタイルカウンシルのパクリから始まったのだし。
ネオアコ系の中でもソウル含有率の高い音楽がスタイルカウンシルとか、あとはスパンダーバレエもちょっとそう。そういうの。
カルチャークラブも同じ。つまり、アシッドジャズのポップだったのだな、と。
第2次ブリティッシュインベイジョンは短かった、比較的早く廃れた、という感覚があったし、徐々に濫造されて質が低下してったので、聴いてるとカッコ悪い音楽になっちゃった。
そういうなか、スイングアウトシスターみたいな一段上の人が出てきて、これはいい!と思ってハマったんだな。そこからはずっと90年代末まで15年くらいスイングアウトシスターを聴き続けた。
いま振り返ると、スタイルカウンシルは好きだったし、ポールウェラーとミックタルボットのコンビも最強だと思ってる。鮮度が落ちなければずっと聴いてたと思うけど、すぐにネタ切れしてしまったんだよなあ。
60年代のソウルやソフトロックを新しい感覚でやりたい、という彼らのコンセプトは、フリッパーズとピチカートに受け継がれて、そのまま渋谷系的な流れになったので、結局、第2次ブリティッシュインベイジョンの、特にソウルネオアコ系が、ルーツだと。
僕がこういう時代のことあんまり語りたがらないのは、昔の自分だと思ってるからなんだよね。
僕は、仲間とか交友関係、文化的な流れとかを引き継いでくるのが嫌で、例えば、彼女が変わった、引っ越した、バイト先が変わった、というような出来事で、それ以前以後を、はっきり切り分けてしまうのです。
自分の中ではその分水嶺のひとつが、スタカンとスイングアウトの間にあり、新しい感覚になった自分が発見したスイングアウトと、それまでの古い自分が聴いてたスタカンとは違うんだ、と。戻りたくないんだ、という感覚があるからだね。
ジャンルではなくて年代だと思う。88年以前と以後では違う自分である、という感覚。なので、アイドルも同じで88年以前の音楽、もちろんおニャン子も含めて、自分としては「昔の自分」である。という。
翌年の89年には平成になってしまうので、その歴史はほぼ平成と一緒ですね。すごいね。
その後は、92年くらいに境目があり、96年に大きな境目があり、そしてaiko椎名林檎に出会った2000年が大きな境目になる。
その境目「以前以後」というように自分の中では感覚が明確に分かれてるので、「以前」のことは、あまり語らない。これは故意にそうしてると思う。なぜかというと「古い感覚に戻りたくないので」ということです。
「むかし ばなし するなんてぇ~ 気~の弱い 証拠なのーさ」 by 松本隆。ということでは。
例外があるのね、それは例えば大好きだったスイングアウトシスターみたいに、ずっと続けてブレイクしていること、そういう対象は語れます。達郎とかも割りと嫌ではない。今やめていなくなってしまった人は、あまり思い出したくないw
で、次の境目はどこにあるんだろう、いつ来るんだろう、というのが、専らの最近の興味でございますw

第2次ブリティッシュインベイジョンで新鮮だったのは、「バンドじゃなくてもいい」というところだった。スタカンもそうだし、ティアーズフォーフィアーズもそうだし、他にもメンバー2人だけ、3人だけ、というグループがたくさん居た。
歌うアイコン女子ものは少なかったな。記憶にあるのでは、 パッツィ ・ケンジットのエイスワンダーくらい。これはバンドだったけど、パッツィは声もビジュアルもすごくよかったと思う。
ポールウェラーを筆頭に、当時はブリティッシュ男子がすごく人気があったからねえ。真似たかっこした男子が東京のいたるところに居ました。
そういう、ファッション面での影響も大きいところが渋谷系ぽいんだよなあ、と思ったりする。みんな草食系だしね。当時はロックは暑苦しいと言われたからw
なので、ライブエイドがもしなかったら、80年代ロックの人たちは、そのまま消えていた可能性も充分あったと思うよ。あれで「古臭い」人々が出てきて、みんなが引いてるところで、スゲエパフォーマンスをして、おっさんも悪くない、という風潮に逆転させたのは、あれはものすごい功績だあと思う。
というわけで、95年前後の東京の様子に既視感があったのは、そういう第二次の経験があったからだろうなって思う。

というような、滅多にしない80年代の話はこれでおしまい。そのうちブログでも書くかw


スイングアウトシスターはホント好きだった。それまでの音楽に足りないと思ってたものが全部あった。だから短命に終わって欲しくないなあ、って祈るような気持ちで追い続けた。90年代まで続いて、大学生の間で、アシッドジャズとして好んで聴かれてると知ったとき、本当に嬉しかったの憶えてる。
こうやって流れで考えていくと、僕の中でSOSの存在はかなりでかいなって思う。僕にとって、aikoと林檎の前はSOSだったんじゃないか。
そういえば、こないだラジオの特集やって気付いたけど、僕はSOSの新譜は99年を最後に聴いてないんだ。aikoを発見したのが2000年なので、ちょうど入れ替わりなんだ。


-「~系」という言葉-
それまでは「~派」みたいな言葉だったのが、なぜ渋谷「系」なのかという話も盛り上がってた。

トロピカル on Twitter: "@mokomoko @LettuceOfLife @69Gentleman @y_kurihara 一つあまり指摘されないこととしては、「○○系」て物言いが90年代前半に流行りはじめた、てのがある。「ラーメン食べる?」を「ラーメン系いく?」みたいな"

実はこの「系」という言い回し、90年代初頭から僕らのバンドの身内でもさんざん使っていた。それまで、たとえば「寿司でも行く?」みたいに言ってたのを、ともかくなんでも「寿司系でも行ってみる系?」みたいに言ってた。
ともかく、湾曲な言い回しを考えたほうが勝ち、みたいな風習があり(笑)、ここでも、寿司、と断定せずに「系」をつけて、揺らぎを含めてるのが面白かったのだ*2。当然外部ではそれは通じず、同じ音楽仲間や仕事でも、「~系」という言い回しは通じなかったと記憶する。なので、やがて世間で浸透し始め「それ系」などという言い回しが出てきた時は、ものすごく驚いた。
メジャーのアーティストをやってた友人が歌詞の中に「~系」と盛り込んだのが96年、この時点で、この言い回しは一般に完全に浸透したと言えるだろう。

-intermission-

僕が渋谷系スタイルに「戻る」過程を。
基本的に僕の場合、あくまで「メジャー路線」だということがわかる。
それは僕自身の作風にも一貫している。


「あ、日本の音楽変わる!」って一番最初に思った曲。92年


私がオバさんになっても - YouTube


あとこれ(曲。03:08〜)。


スウィート・ホーム OP - YouTube


僕的にこれは「完璧な曲」。


熊谷幸子 風と雲と私1.flv - YouTube


これも名曲。


内田有紀/幸せになりたい 1996.mpg - YouTube


これも、ものすごく好きだった。


森高千里 『二人は恋人』 (PV) - YouTube


-閑話休題-
これ以降は、80年代の音楽は殆ど聴かなくなったな。もう聴かずに済んだんだよ。それ以前までの要素がすべて含まれてブラッシュアップされたものが存在してるのだから、不要なんだよ。


-音楽的な変遷-
僕は音楽家なので、これは新しいとか変わったとか言う場合は、もちろん今までになかった進行とかコードとか、ということになるよ、もちろん。 
今まで挙げた曲やアーティストにはそれがあったってことですね。もちろんポップス音楽の歴史としては別に新しくは無いんだけども、日本人の歌謡曲製作者がココで使い始めた、という瞬間が存在するってコト。 
使いこなせるようになった、でもいいのかもしれない。例えばネオアコのソウル含有率高めってどういうことなのか、っていうこととか。 
92年の、おばさんになっても、でオーッと思ったのは、それがおおぴらに使われてたからで。それ以降、日本のメジャーポップス(オリコン上位を目指すというような意味での)での制限がなくなったんだよ。 
それまでは、そういう進行を使うと、どうしてもユーミン小田和正ぽくなってしまうので避けていたんだろう。つまり応用が出来なかった、そういう実力のある人がなかなか出てこなかった、世間も求めてなかった、でいいと思います。 
スタカンは日本で人気があったので、もどきみたいな人たちもいたけど、みんな単なる劣化コピーに過ぎなかった印象があるし。やっぱり「出来なかった」んだよ。 
東京ラブストーリーが91年だね。あれで本人が自ら禁断を破ったんだな。一方の由実さんはミリオン時代で、昔ぽさが無くなり古いファンには不評だったが、ちゃんとアナリーゼすると、高度なコードw を相変わらずちゃんと駆使してる。 
その双璧をやっと他のヒトが超えられたのが92年頃であろう、と。そしてそれを進化させていき、双璧の二人を凌駕していく。って感じだと思う。 
まあでも今でも、和もの切ない系バラードとか聴くと、どれも「春よ来い」の変奏曲wに聴こえるけどね。悪くは無いけど、別に新しくはない。 
90年代以降は、言葉がコード進行を引っ張っていく、みたいな作り方ががすごく上手くなったよね。つまり自然に身体に入っている世代が主流になってきたということで、そこで時代が変わった、と。 
同じようなブラッシュアップは、aikoと林檎でも行われてて、だからこそ、あの二人は素晴らしいわけです。 
頑張って創りあげた世代 vs それを子どもの頃から聴いてて既に身体に入ってる世代、ってことかな。 
誰もが、コピーしてその元ネタを超えられるものを作れるわけじゃない。だから、彼女達は特別。ってことですね。 aikoと林檎に出会えたからこそ、今の僕がある。と。



-アイドル史(おまけ)-
自分のアイドル歴からハロプロ系がまったく抜け落ちてるって話は前にしたけど、もういっこ、広末もまったく抜けてます。興味なかったなあw
こないだ初めて、マジで恋するなんとかってやつを聞いたけど、なんかクドイ曲だなって思ったw
ASAYAN系がまったく抜けてるんだよな。鈴木あみも例の裁判事件になって初めて知ったw その後、曲聴いたらデビューアルバムはいいアルバムだった。
何が流行ってたんだろう、小室系?そういえば私、hitomiが好きだったんだけど、しばらく離れてて、99年のSomedayで久々に引っかかって、また聴き始めたんだよな。だから99年はhitomi聴いてた。
渡辺善太郎曲はよかった。96年から停滞してたけど、久々に新しい感じがあった。今思えば、そういうちょっとグランジな感じが、その翌年のaikoや林檎との出会いの前哨戦みたいなことだったなって思う。
96年まで聴いてた古内とかCharaとかはみんな居なくなってしまったのよね。低調になったり結婚したり。その合間を埋めるものがなくて、何も聴いてなかった。
92年にせっかく、新しい時代ダーと思ったけど、それも90年代末には停滞して、hitomiくらいしか聴いてなくて、世紀末だなあ、という感じがあった。
99年には自分もライブ活動してCD作ったりしたけど、みんなは「よいねよいね」と言ってくれて協力もしてくれたけど、自分の中では「夢の終わり」だなと思って冷めてたなあ。これでオレの活動も終わりかあ。。みたいに思ってた。
だから21世紀になってこんな展開するとは思っても居なかったので、その後はもうずっと、夢の中みたいな感じがする。

*1:「渋谷系」とは日本版アシッドジャズだった!? 若杉実の労作が提示する“DJ文化”という視点 - Real Sound|リアルサウンド

*2:寿司系でも言ってみたいなという気配があるような感じがするような気がする雰囲気があるかもしれない様子があるw など。

むかしむかしの Twitter 話。


古参Twitter女子に聞く! 初期のTwitterって今とどう違ったの? - トゥギャッチ


これのことですが、ブクマでも書いたとおり、カツマー香味に発見されて、すべて終わってしまったという話だけど、実際に具体的には何が起こったかというと。
また長崎時代の愚痴になって嫌なんだけども、僕はリアルな知り合いとネットの交流というのはハッキリ分けてたんです。違うものである、という認識もあったし、混ぜることはしない、と決めていました。これは僕だけじゃなく、当時のネット民の常識じゃなかったかなあ。
逆はいいんですよ。ネットから広がって、オフで会ってリアルでも仲良くなる。これは何度も経験し、全部大切な出会いになりました。でもその逆はない、しない、と。
勝間香味事件で、ドバドバ一般人が参入して、長崎のリアルな知り合いが僕のアカウントを発見し、フォローしてきてしまったのです。
そ れくらいいいではないか。って思う?甘いよ。僕みたいな仕事してるヒトにとっては、例えれば、個人アカウントなのに、会社のヒトに見つかってフォローされ た、ということと等しいの。その頃は、オフィシャルな別アカウントを創る、という発想もなかったし。なにより、そんなこと考える間もなく、あのバブルが急 激だったので、対処が間に合わなかった。あっという間に、リアルな知り合い多数に見つかってしまい、何もいえなくなってしまった。四六時中、見張られてる ような感じになった。息苦しくて死にそうになった。それが発言に現われ荒んだTLになった、みんな「思ってたのとは違う」僕の本性に、引いて去っていっ た。リアルで最果ての土地で取り残された。という流れです。

僕はみんなと違って、飲み仲間も居なかったし、互いに愚痴を言い合って、わっはっはー などと盛り上がれるような相手もいなかった。また、そういうことをすることに興味がなかった。ネットの隠れた場所で、独り言として、こうして日々思うこと や愚痴を書き、自問自答し、それがやがて解決し、新しい発想を生み、作品に転化していく。それが僕のすることだ。クリエイターだから。と決めてたんです よ。そういう「思考の試行錯誤」の場が消えてしまったのね。鶴の機織。それが発見された。これは作家としての死を意味した。

その頃に、ハイク に出会ったのだね。ココに逃げてきたの。他にも、わっさーとかいろいろ「ツイッターもどき」みたいなのはあったんだけど、ハイクが一番よかった。使いやす いとか文字数制限ないとか、いろいろいいところあったけど、このなんというか、ぬるい繋がりがよかった。邪魔するヒトも居なくて、ゆっくり書きながら、考 えて、発展させていくことが出来た。だからずいぶん救われたなと思う。

でも、あのツイッター事件で失ったもの、場所や交流や信用とか。それは二度と戻らない。あの時点で僕はもう、長崎には居られない、と悟ったの。
鶴の機織を見られてしまったから、長崎のみなさん、私は飛び立ちます、ってことだったんだよ。

とまあ、郷愁で一方的に語ると、まあこんな感じになるけど、一方、このキャズム超えは、後の日本を救うことになる。言うまでもなく東日本大震災ですね。このとき、軒並み通信手段が絶たれ、マトモに動いていたのはツイッターだけだったのよ。
そう考えると、カツマー香味は日本を救ったとも言えるわけです。むしろその為に存在していた、とすら思えるのがすごい。結果的にいいことだったってことでもあるんだな。


そうそう、あと、もうひとつ、思ってることがあります。
この頃に FaceBook があったら、どんなによかっただろう。。ということです。

いえ、実際には FaceBook ありました。僕はアーリーアダプター的なネット活動をしてたので、FBに参加したのもずいぶん早く、いま調べたら2008年くらいなので、ツイッターのちょっとあとに始めてると思います。その頃は、誰もやってなくて、ネット上の限られた知り合いとフレンドになり、細々とやっていたのですね。
もしその頃に、今みたいに大きなつながりになってたら、僕は告知することが山ほど在り「リア充まっしぐら」みたいなことになってたと思います。
みんなが酸化してメジャーになったのは 2012年くらいかね。その頃は僕はもう既に、告知することもあまりなかったし、仲間も一掃されて、反応も全然なかった。同業のほかの人たちの盛り上がり振りを冷めてみてて、あー楽しそうですねー(棒)、などと思ってただけでした。

当時ネット民の間で出た結論は、結局リアルだろうがネットだろうが「元々の知名度があった人、リア充な活動をしてたヒトが全部持っていく、勝つ」ということでした。チマチマ活動して拡げていった地道な輪なんか、メジャーなヒト、充実した人たちに、あっという間に地引網みたいに根こそぎ持って行かれてしまうのです。
そういう人々からすると、ぼくなんか「ちっともネットやSNSを使いこなしてないヒト」ってことになります。実際そう言われたしね。でも、 活動すればするほど、差がつくばかりなんだよ、これ。そういう派手な活動をしたくてネットやSNSに参加してたわけいじゃないのにね、いきなり歌舞伎町の真ん中みたいなところに引っ張り出されて、全員、同じ条件で勝負やで!ってなる。別にそんなの要らない。でも、そうされてしまった、ということですね。

僕は、ほぼ同時期に、ツイッターとFBと、2箇所で居場所を失くしてしまったわけです。

そうそう、おもしろい話があってね、「近頃、フェイスブックという新しいSNSが登場し、始めるヒトが増え人気です」というニュースを見たときに、「フェ イスブック??そういう名前のサービス、もうあるじゃん、パクリかな?」と思ったのです。僕がやってたフェイスブックと、巷で流行りだしたフェイスブック が、まさか同一のものだとは思わなかったんだよ。で、調べたら、同じものじゃん!!ってなって、検索とかすると、知り合いとかが居るわけだ。ひえーって なったね。

それまではみんなミクシーやってたよね。ひとむかし前の出来事ですよ。ネット民の平均アラフォーになるわけだよね…。(悲哀)

佐世保の事件について雑感

雑感、などとタイトルしましたが、次々明らかになる事件内容に、気軽に何か言えるような程度の問題ではないな、と思いつつ、しかし7年間もあの県に住んでた身としては、他人ごととも思えず。いろいろ深く調べてみたら、僕が知っている、あそこいらへんの閉鎖性と悪い部分を、全部まとめたみたいな事だなと思ってしまった。
…といった話をすると、どこでもこんなだよ、とか、県民性や地方都市などという問題ではなく、加害者の個人的資質、あるいは障害に起因する「特別な」事件なのだ、と言われるのだけど、それは十分わかった上で、あえて、僕の経験を交えて語ってみたい。

前にココでいろいろ書いたの憶えてる人もいると思うけど、彼の地は、みんな一般的におとなしい住民が多いので、そこにハッタリで君臨しようと思えば、わりと簡単にそれが叶えられてしまうんだって話*1。ただでさえそういう土地なんだから、じゃあハッタリじゃなく「ホンモノの実力」で仕切ったとしたら…。それはもう王様レベルで誰も逆らえなくなるだろう。伝わってくる情報から垣間見える加害者父という人物は、それくらいの絶対的存在な人物だったってこと。

更に下世話なことを言うと、イケメン(風を装って演出してる)だし、同年代の主婦とかには「キャー」って人気あっただろう。そういう「まず印象から詰めていく」というスタイルは、地方では特に必須であり、「典型的」だなと思った。事件さえなければ「アホ臭いなあ」と思うところだけど、しかしこんな事件になってしまったので、そんなことも言ってられんばい。。たぶん氷山の一角たい。

僕はこれらの情報、加害者両親の「自分大好き」な様子を見て、大阪の子ども放置死事件の母の父が有名ラグビー監督だったことを思い出した。ネグレクトの連鎖。これらのオトナどもが一生懸命だったのは「自分自身の名声」だけである。

地方というのは、「病んだ人」の行き場所がないところでもある。たとえばOM氏にしても、放火事件を起こしてしまった知人女子にしても、最初から病んでたわけじゃないと思う。ちょっと感覚が鋭くて、空気読まずにいろいろ言動してたら、どんどん遠巻きにされた、という感じかもしれない。
これね、さほど身近じゃない人たちはそうでもないのよ、みんなそれなりに親しくしてくれると思う。つらいのは、身近な人が「まあまあ」などと言いながら、理解しようとせず、なだめようとするところなんである。自分は、なだめられたいから、構って欲しいから、そう言ってるわけじゃない、「判って欲しくて」そう言ってるのに、「まあまあ」となだめられるわけだ。身近な人がこれでは、それこそ、放火もしたくなるレベルまで、気持ちがふつふつと沸騰してきてしまうのもわかる気がする。

いろんなことがあって、自分が駄目になると思い、去ってきた僕であるが、そのまま居残って、被害者父のように、別に気にせず楽しく君臨していればよかったのかもしれないと思うこともある。一度は酷い目にあったが、また復活することもできたでしょう。でも、また何かあったとき、同じように「まあまあ」と言われなだめられるという事を繰り返して、やがて麻痺して、知らずのうちに病んでいくのかと思うと、すごく恐ろしくなった。NGSKで出会った放火女子、OM氏、そしてセクハラトロンボーン氏といった人々は全部、将来の自分の姿だと思ったね。
自分の中の勧善懲悪な感覚がムクムク目覚めていく。それはいかん!という憤りが常にある。そんな気持ちを抱えたまま、よその土地で一生を終えるわけにはいかんよな、と思った。そのエネルギーは自分自身の晩年のためにとっておけ、そう思ったな。だから首都圏リターンを決意したということでもあるのだ。

もいっこ思ってることがある。ココで3年前あたりに散々書いたことだが、NGSKの人たちが自分らの街を好きすぎてうざい、という話なんだけど、実はこれ、そうでなくて、全然好きじゃないと思う。口ではそう言ってるが、住み続けるしかないからしょうがないからそう言ってて、でも二口目には「でもこういう ところがよくない」などと言うし、町に元気になって欲しいとか、いろいろ文句言うってことは、そのままじゃ嫌なんじゃん。町を構成してるのは自分ら市民な んだからね、つまり自分が嫌いで、でもしょうがないから無理クリ好きと言い聞かせてる、みたいな事なんだなと。町が「変われば」「元気になれば」いいと願 うのは悪いことではないと思うが、そうでない人、別に今のままでよか、と思ってる人はどうなのか。って話でもある。

こないだちょうど、ある女子のTV出演の時の話から、スタッフのなかに妙に意識高い系の人がいたら面倒だよね、と言う話になって、それはやっぱり半端だから、そうやって空回り するんで、本当に意識が高く、それを他の人々や町全体にも浸透させたいと思うなら、そんな輪に混ざらないような行動はしないだろ(もっとみんなで全体をまとめて高めようと思うはず)、ってことになったな。僕 が会った「意識高い系」の人々もみんな町が好きと言ってたけど、それにしては、他者に対していろんなことを無理強いしており、あたかもブラック企業のよう です。 だから、本当は好きじゃねえんだよ。自分が望んでる町の姿しか受け入れられないんだよな。そういう人の声がでかいので、今のままでいいと思ってる人々は、 どこか後ろめたい感じになってしまうのではないかな、という気がした。まあ、選挙のときの演説みたいなものです。威勢のいいコト言う人が注目を集め人気が ある、みたいなことです。
結局誰もが、自分の思い通り君臨したいと思ってるだけなんですね。加害者父も、もとはNGSK市出身だったが佐世保へ拠点を移したという。佐世保のほうが小さい町で、やりやすいと思ったのではないか、などと邪推してしまう。

私自身は、自分の故郷については、今でも自信を持って「好きじゃない」と言えます。それを正直に言えることが、そういう自由が許されてることがどれだけ素晴らしいことかってことです。好きでもそうでなくても、本音が言えること、だね。

わたし、そんなこんな「当事者感覚」持つために住んでたわけじゃないのですけど、奇しくも2つの大事件*2に挟まれた期間、当地に住んでて、なんだかとってもよくわかってしまったので、「とりあえず、そういうことです、みなさんは、ホント気をつけてください&兆候は見逃さず、救ってあげてください」とだけ最後に書きます。


PS
佐世保の件で思うのは、田舎だから閉鎖的とかどうとか親がどうとか、などということもそうだけど、あんな事件や被災などがあった県で、命を大切にするとか 平和教育などが、他に比べても破格に取り上げて学んでる県だろうに、なんでそれがまったく活きてないようなことばかり起こるのだ??ということに尽きるん じゃないでしょうか。あの町では、それこそ物心着いた頃からずっとそういう教育をされてるわけで、なのに、それが反映されてない、もしくは、極端なカタチでそれに反する事例が現われてくる、というのは、じゃあその教育、どこかが捻れてるんじゃないのか?ってことを思うわけです。
僕はそういうことをずっと言いたくて、まあ平和や命を大事にする、ってのはいいさ、でも、それに疑問を持つ人の発言場所がない、というか、それは言っちゃいけない、ということになってるのがやばいと思ったわけですね。ただ単に「田舎だし閉鎖的だし親がクズだし」とか言って終わらせると、また10年後に事件起こるよ。

font-da さんのコメント。
少なくとも10年前の事件は障害が関係しています。今回はまだわかりませんが。平和教育が 問題であれば、ずっと救いがあると、私は思います。教育を変えれば、その子たちが人の命を尊重できる可能性が出てくるからです。今回の件は神戸の少年事件とも類似していますが、彼の場合は少年院の尽力で無事に社会復帰できたと聞いています。なので今回の事件の少女の更生も望みはあると信じたいです。


私のレス
きのうもたまたまライブのあと、みんなでいろいろ話したんだけど、今回のも障害では?という感じはあるようです。問題は、それに気付いても何も施せない、という、何事も消極的という地域性かな、と思うけど、それを抜かせばどこでも起こりうるとは思いますよね。
僕はこの件に関しては、どうしても客観的になれない部分があって、それは、加害者の両親の言動気質などが、僕が観たあの土地のある種の人々にとても似ていると、どうしても思ってしまうからです。
そういう意味では、僕はこれについては逆にあまり語らないほうがいいのではないかな、と思ったりしてますね。
両親のことについて、いるいる!ああいうのあの土地に一杯居る!とか言ってても何も解決しないしなあ、とか。
うん、でも、やっぱり特色ある教育をしてる県であることは確かなので、そこを是正とかすれば、望みはある、というのは、そうかもしれません。20年後くらいかなあ。


font-da さんのレス。
障害の問題があるとすると、教育の影響がダイレクトに出ちゃうことはあるかもしれない、く らいは思ったりします。環境に左右されやすいのかな、とか。神戸の少年事件のときも、その2年前の震災の影響はゼロではなかったと思っています。正式な結びつけはできないでしょうが。現地を知ってると見えることはいろいろありますよね、きっと。
なんにせよ、精神鑑定が長すぎるのではないか等々、少年関係の人からメールをもらったりして、つらい気持ちです。こういうことは起きないに越したことはないですね。


★関連
「また長崎かよ、と言われて」YAMDAS対談 第20回 
id:yomoyomo さんの関連記事。
ココで重要なのは上記記事で語られてる事件は、今回のもの「ではない」ということである。2004年の事件。どんだけ猟奇事件が起こるの佐世保…。

*1:地方都市はどこもそうであろう

*2:ネヴァダ事件~今回